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紗羊先生、犬と在る生活

【6】

 その日は朝から没頭していた。 現在の職務は、使者又は担当官が自宅に届けてくる膨大な文書ひとつひとつに目を通し、同時に添えられてある参考文書と突き合わせ、押印し決裁時々却下・差し戻しを行う。
文書は竹簡が専らであったが、どうも徹底するまでにはいかないようで、木簡だったり、布だったり、高尚な件は紙に記されていたりする。たちが悪いものでは『急ぎだから』と言ってどこかの木を剥いで紙に見せかけたり、衣服の余りを使って間に合わせたな、と思わせるものもある。

「これは……」
徐庶が次に手に取ったものは竹簡ではなく、男物の腰布の余りを使ったものだった。
思わず鼻で笑う。
「はは、何でもありだな……本当に。まあ、読めればいいんだけど」

 この仕事も本来ならば自宅で行う筈だったが、この日彼は中央宮近くの書架にある執務室の一つを借りていた。
役人は事前に文書の回収場所を届け出れば、役所の部屋を作業場として一時的に提供してもらえる。

 この後仕事を粗方片付けた後、徐庶ここから近い場所にある人物の邸を訪問する予定にしていた。
体が幾つあっても足りぬような多忙な日々を送っており、実権の傍に彼がいなければ大勢が崩れるのではないかと憂慮されるような崇高な存在。
軍祭酒ほどの人物である彼は、自分のような小役人は黒山の人だかりの中から遠目で見られればまだましだと思える方である。
助けてもらった大人数の一人に過ぎないのだろう、忘れたどころか存在すらあの方の中には無いのだろうと考えていた。
しかし、李典から「先生、あんたのこと気にしてたぜ?」
とか言われると、そうでもないのかもしれないと思うようになった。

 数日前、駄目もとで『新野での御礼を申し入れたいのでお伺いしたい』と手紙を出してみた。
通常ならば看過されるか見落とされるかで当然のことだ。
だったら、訪問して門番に文と品でも託して帰ろう、と考えていた。

 その意に反して、本人から返事がすぐに届いた。
『すごく嬉しい。こちらの暮らしはどうか。都合をつけるから、こちらに来られる日を教えて欲しい』
といった内容だった。

 自分なんかのために、と何だか申し訳なくなりながら返事をしたためて、逢ってもらえる日を取り付けた。
それが今日だ。

 徐庶が仕事を片付けると、膝の上のが丁度目を覚まして尻尾を振りこちらを見ている。
「阿峻に預けていこうと思ったけど、、君もやっぱり連れて行くことにするよ、済まない。まだ俺は一人で行く勇気がないみたいだ……」

 情けなく笑いながら茶色の背中を優しく撫でる。
「ただ、郭嘉殿はあまり体が丈夫でないそうだ。動物の毛に敏感かもしれない。だからその間、君は鞄の中に入っててもらうよ。上は開けておくから」

 そう言った後、徐庶は机の上の銅でできた小さな鐘を鳴らした。
キィン、という音が響き、廊下で待機する担当官が顔を半分覗かせた。
「終わったよ。入ってくれ」
まことか、といいそうな顔をして小躍りで入ってくる。
「いやあ、徐君はさくさくとこなしてくれて本当に助かる!」
「いや、すまない。随分待たせたと思ってる。他の方々がどうなのかわからないけれど、こんな感じではないのかい?」
その担当官は首を大きく振る。
「もう全っ然! 三日待たせても徐君の一割行くかどうか」
やはりこの業務にも、惰性が蔓延しつつあるようだった。
「そうか……」
一度息をした後、文書の山に目をやる。
「どの量やっても同じだ。俺にやれそうだったら、幾つか回してくれて構わないよ」
「左様か!ああ、有難い!」
「はは、俺は感謝される立場じゃないよ。……ところで、ええと、これが今回の分だ。右の山が決済、左の山が却下だ。真ん中のは不備で差し戻し」
言いながら徐庶は文書の束を執務室の戸の手前まで運ぶ。
「はあ!? こんなに戻しがあるんですか!」
拝みながら顔を歪ませ、思わず敬語になってしまった担当官に徐庶は申し訳ない顔をする。
「俺にはこれを通してあげられる権限が無いんだ。……済まない」
「あ、いやいや、うん……まあ想定内、だ……早くやってもらえるだけで有難い。またよろしく頼む」

 執務室を出て廊下を少し行くと、入り口に繋がる吹き抜けになっており、書を求める多くの文士が静かに往来する。
「あっれ、徐庶じゃん! おい」
振り向くと、片腕に竹簡を二つほど抱えたもじゃもじゃ頭がこちらに手を振っている。
普段の鎧甲冑とは異なり文官の姿だったので、徐庶は驚いた顔をした。
「これはこちらの台詞だよ。李典、こんなとこで会うなんて珍しいな」
「そりゃあ、たまには勉学にだって励むんだぜ、俺」
「兵法書かい?」
艶のある竹簡と古ぼけてくすんだ竹簡を交互に見せる。
「ああ、これこれ。前読み切れないまま返したんで、気になって今回また借りたんだ。あとこっちは律令」

 自然と笑顔になってそれを聞く。
ああ羨ましいな、と思いながら。
「武術と智略、両方磨けるなんて君は素晴らしいよ、李典。俺は武術は棄ててしまったから」
「あ? 棄てた? あんたが武術を? 嘘つくなって」
問い詰めるかのように顔を近づけてきた。
「……いや、嘘では……」

 苦笑いして顔を背けてみる。
「先月の役官集めた酒宴で! あんた、剣舞披露したろ? あれはどう見ても玄人技にしか見えなかったぜ? 俺」
「いや、聞いてくれ李典……あれは、隣に座られていた老公のどなたも出し物が無いとか仰ってたから、その、仕方なく俺が……」
「まあ、いいけど。なあ徐庶、あんた鍛錬集会に加われよ。勿体ないぜそれ?」
李典は話をむやみに引っ張らないので話しやすい相手だった。
「いや、気持ちだけで遠慮しておくよ。俺には趣味程度で充分だ」

「なあ徐庶。わざわざ中央で仕事、って何か用事でもあったのか?」
ああ、と言って頷く。
「実は丁度これからお伺いするところなんだ。馬を待たせてある」
「え……郭嘉先生か?」
「ああ」
李典はへえ! といった顔をした。
「君も一緒に行かないか? ああいや、良かったら、だけど」
「あーいや、楽しそうだからついて行って顔出したいところなんだけどさ、これから隊訓練なんだわ、俺」
首を傾げて頭をぼりぼりかく。
「そうか……残念だな。いや、また次のお楽しみといったところか」

「しっかし、郭嘉先生よく都合つけられたな。運がいいなあんた」
「ああ……今回に関してはまったくだ。交流のとても広いお方だろうから」
いや、と言いたげに李典は首を振る。
「あー……見た目によらないっていうかさ、交流とかは意外と狭いんだぜ、先生。数年前までは隠居されてたらしいし。
あと先生の同郷の……潁川だっけか? あそこ出身の知識者がたとひっそり集って、こってり語り合うのが専ららしい」

 潁川、と聞いてはっとした後、徐庶に懐かしいような、苦いような思いがよぎる。
「驚いたな。……俺も出身が潁川なんだ」
「へー! 今日行った時に言ってやれよ。喜ぶぜ先生」
「はは……だけど、その頃の俺は、学問の『が』の字も無かったから。不良だったんだ」

 李典は竹簡を持っていない方の手で頭をぼりぼりかく。
「……は? 不良? あんたが? いや……今のくっそ真面目そうな姿からは全然想像つかないんだけど俺」
「事実だよ。もっとも……それ以外のことは話すことも無いけれどね」
「ふうん。ま、今はそれ以上は聞かないけどな、俺」

 李典と入口で別れた後、その近くで豪勢な馬車が停まっているのに気が付いた。
名前を確認するとお待ち申し上げておりました、と言われ恭しく馬車に乗せられた。
家への案内でも持った召使と駄馬でも使わしてくれるんだろう、と軽く考えていたら予想外だった。
「ええと、……すみません、俺なんかのために」
まるで名家の主人にでもなった気分だった。

 馬車の中は快適で、窓から外を見ると誰もが一瞬自分の乗っている煌びやかな馬車の装飾に目移りしていく。
あまりにも自分の置かれている立場がおかしいので、徐庶は一瞬、自分のことを勘違いされているか人間違いなのではないかと思った。
「ええと、……すみません。これは郭嘉様の馬車で間違いありませんか」
前で馬を操る男に声をかけてみる。
「徐庶様でいらっしゃいますよね? 主人から本日この馬車で貴方様をお迎えするとの命を受けております。間違いございませんよ」
その男は、郭嘉から渡された印章まで示してくれた。
「分かりました……有難うございます」

 徐庶は膝の上の鞄と、手土産が入っている包みを抱きかかえる。
鞄を上から見ると、が横筋に入っている網目から外を見ながら、遠出の外出が嬉しいのか、尻尾を振っている。
「もう少しで着きそうだよ、。着いたら寝ていてもいいから」

 次第に、馬車の内装の美しさと優雅に走る構造に心が落ち着いてくる。
高貴な人たちの生活はこんな感じなのだな、と他人事のように思いながら外の風景を眺めていると、郭嘉の邸らしい建造物が見えてきた。

 到着すると、使用人に眺望の良い露台に繋がる客間に通され、時間を置かず童子が茶を運んできた。
徐庶は荷を横に置き、運ばれてきた茶を口に運びながら、目を細めて遠くを眺める。
都の中心である都城や、街などが見渡せる。
横を見ると手入れの行き届いた庭になっており、蓮の咲く池に小さな橋が架かったりして、話にだけ聞いたことのある『桃源』のようだ、という表現が正しいか。

 時折吹く心地の良い微風を浴びながら椅子に凭れ掛かると、力が抜けた。
「落ち着く場所だな……」
膝の上に手を載せると、そのまま目を閉じた。
徐庶は一瞬だけ意識が飛んだ。

 その時、大股で歩いてくる足音を感じ我に戻った。
そうだった。今は、最も緊張すべき人の家に呼ばれていた。
まさかその呼ばれ先の家で一瞬でも寝てしまうなんて、冗談にも思わなかった。

「すまない、待たせてしまったね」
酒瓶が乗った盆を持ち、急ぎ足で郭嘉が入ってきた。
盆など使用人にでも運ばせればいいのに、祭酒ともあろう身分の方が、自分で持ってきた。
「あっ……!」
徐庶は慌てて立ち上がり拱手した。
急に自分の中に緊張が走る。
「郭嘉様、尚書の徐元直です。本日はお逢い出来る機会を設けて頂き、感謝の意に」
堪えません、と続けようとしたら口を挟まれた。
「いや、堅苦しい挨拶は不要だよ。徐庶殿」
「えっ……」
そっと顔を上げてみると、子を思いやるような親のような表情でこちらを見る郭嘉がいる。
「郭奉孝です。よかった……息災で何よりです」
特に何も言い足すこともしなかったが、伝わってきた。
新野で助けた礼をまともに言われぬままだったのに、この方は自分のことをこんなにも案じていてくれていたのかと。
親も兄弟も信ずるに値する君主さえもなくし、行き倒れに近かった自分を。

「こちらに来てすぐ、たった一人のご家族だった母上の喪に服されたと人づてに聞きました。辛かったでしょう」
新野での礼を言ってすぐ帰る予定だったが、自分を気遣ってくれたことを聞くと自然と涙が零れた。
「こちらの生活習慣には慣れたのかな? 官服には馴染んだようだね。李典殿と楽進殿からは、あなたの今の職務について少し聞かせてもらったけれど―」
郭嘉はそう言いながら杯に酒を注ごうとした。
「……俺に注がせてください」
「じゃあ折角だから、お願いしようかな」
涙を拭いた後、酒瓶を両手で受け取った。
「新野でのお礼を言わせてください。……あの時の俺は、心が死にかけていました」
淡々と語る徐庶の言葉を、郭嘉は静かに聞いている。
「荊州で劉備殿と出会い、この方こそが君主だと慕い、劉備殿と駆けた……そこが俺の生きられる場所の全てだと思っていました。
それが叶わぬと悟った時、俺を頼ってくれる存在が誰もいなくなった、と悟った時……もう俺は、これからはここで死人のように生きるのだと」
郭嘉は否定をしなかった。
「あなたは、その時、そう悟ったのだね」
徐庶は目で頷く。
「だけど、郭嘉殿から貸していただいた、街から外れた家で暮らし、数日過ぎて気分が晴れて外に出ると、民が静かに、でも力強く生活を営んでいて……
ふとしたきっかけで話してみると、皆いい人で。それから間もなく俺を捜し当てて、かつての友人が訪ねてくれて。それから李典とも出会って」
「ここでも生きていけるかなと、生きていいんだなと……そう思えたんです」

 酒を注ぎ終えた時、やっと笑顔になることができた。
「あなたのお陰です。……有難うございます」
徐庶はそう言って盃の一つを渡す。
「あなたがそう思えたのなら、良かった。でも私は何もしていないけど、ね」
乾杯を交わしたこの時の酒は希少な銘酒だったそうだが、味は更に格別だったのかもしれない。
これで打ち解けたのか、二人は頭の回転の良さも相まって、これまでのことを身分を越えて夢中で話した。

「そういえば、李典から聞きました。ご出身が潁川だそうですね」
そう、と言って郭嘉は嬉しそうに早速潁川について語り始めた。
「潁川は学問の環境に恵まれていてね、あなたは知っているかな……荀彧殿や陳羣殿、そうそう、鍾繇殿もそうだね」
「浅学な身から恐縮ですが、……はは、実は俺も潁川なんです。」
徐庶のその一言を聞いた瞬間、郭嘉が何かを思い出したかのように目を見開いた。
「……でもまあ、俺は当時、学問など全くしていない無法者でしたけれど。武術にかぶれたごろつきだったんです」

 「あなたが、潁川の街に、いたと……!?」
徐庶は郭嘉の様子が少しおかしくなったことに気付いた。
驚きと、戸惑いを混ぜたような。
「ええ。十代の頃、髪もざんばらにしてぶらついてましたが、はは……ええと、どうかされましたか?」
立ち上がって、手を少し上げた。
「すまない、ここで少し待っていてくれないかな。取ってくる、すぐに戻るから」
「取ってくる、って? 何をですか?」
言い終わる前に、郭嘉は早足で客間を後にした。

「……?」
徐庶はよく分からぬまま、きょとんとした顔で杯の残りの酒を飲んだ。
飲み終わるまでもなく、すぐに郭嘉が戻ってきた。
手に、絹でできた帽子のような物を握っている。
これは美味しいお酒ですね、とでも言おうと思ったら、郭嘉はそれを徐庶の目の前に差し出した。
「あなたは、これに……覚えが無いかな?」
その帽子は丁寧に刺繍がしてあり、時々金糸が織り込まれており、価値はありそうだが少し古い感じがした。
見覚えは無い。
「これは……ええと、郭嘉殿の帽子ですか?」
「裏を」
首を傾げながらそれを見ている徐庶に、郭嘉が座り込んで身を乗り出した。
「裏を見てくれ」
「……裏?」
何気なくその帽子を裏返すと、徐庶の顔つきが変わった。
その帽子の裏は、古い血痕で赤黒くなっていた。
紛れもなく、それは過去の自分の血だった。
「……これは」
「それは、あなたの血だね?」
もう一度確認した後、郭嘉の顔に視線を移した。
「……ええ。俺のです」

 それから半刻ほど経っただろうか。
「あなたの顔にとても見覚えがあったんだ。……まさか、とは思ったけれど」
郭嘉はもう一度、二つの杯に酒を注いだ。
「お礼を言わねばならないのは、私の方だったね」
「いえ……。それは俺もです」

「抉り出すような事をして申し訳無いが、今だけあなたの過去に詫びさせてくれ、二路の福」

(続く)