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紗羊先生、犬と在る生活

【2】

 朝から大粒の雨が地面を打ち付けた。
 このような日は、阿峻の家は農作業をしない。
 昼過ぎ頃大概、勉強してくると行って雨除けの小さな笠をかぶり、家を出る。
 紗羊先生―徐庶の家へ向かう。
 普段なら半刻もかからない。

 しかし、この日は一刻を過ぎても来る気配がない。
 雨の音が一層激しくなってくる。
 道でもぬかるんでいるのか。
 そんなに心配もしていないが、少しだけ気にかけながら徐庶は窓から外を見る。

 「先生! 紗羊先生!」
 戸を叩く子どもの声。が聞こえた。
 声の主は阿峻だが、いつもと様子が違う。

 「ああ、今開けるよ」
 屋根のある石畳を通り、門の前に行く。
 「先生! 先生!」
 隙間から覗いた後、戸を開けるとすごく焦っている。
 一瞬を急ぐかの如く。
 徐庶の表情がそれを見て険しくなる。
 「阿峻……どうしたんだい?」
 「先生! この子、助けて! 冷たくなってるんだ」

 屈んでその懐を見ると、何か小さな毛の塊が見える。
 小さい顔も見えた。
 ―おそらく生まれたばかりで、雨の中で捨て置かれた犬の仔。
 徐庶は一瞬だけ眉根を寄せ、持ってきた布で阿峻の顔を拭った。
 「……わかった。兎に角、中に入ろう。君も風邪をひいてしまう」

 雨で冷たくなった背中に手を添えて、家の中に入った。

 暖を取るために小さい鉢に火を熾していたので、阿峻をその前に連れていく。
 大きな布でぐるぐる巻きにされる。
 仔犬が心配で焦っていただけで、彼は少し暖かくなるとすぐに元気になった。
 「先生、ごめんね。俺、遅くなったり心配かけちゃったり……」
 「気にしないでいいよ。ほら」
 徐庶は安心したかのような表情で器に淹れた茶を渡した。
 それを一口飲んで深呼吸した後、阿峻は先生の膝の上にいる仔犬に目をやる。
 「ねえ先生。その仔、大丈夫かな……」
 話を聞くと、阿峻が徐庶の家に向かう途中の道で、雨曝しになって捨て置かれていたらしい。
 もしかして母犬が帰って来るんじゃ、と思って懐に入れて少し待ってみたが、現れないどころか仔犬の体がどんどん冷たくなっていったらしい。
 気を取り戻すと、徐庶の家に向けて走っていた。

 大人の掌のひとつ分ほどの大きさしかない。
 目も開いていない。
 時々、声になるかならないかの弱弱しい息で「きゅう」と鳴く。
 家にあっただけの柔らかい布でくるんで、顔のあたりを指先でそっと撫でてみる。
 「すまない。俺にもわからない……。だけど、さっきよりは体が温かくなっているみたいだ」
 ほんと!?」
 掌で生温かさを確かめた後、徐庶は漸くいつもの表情に戻った。
 「ああ。さっきよりも手も足も動いているし多分大丈夫だ。君が懐に入れて守ったお陰だよ、阿峻」
 それを聞いて、大きく肩で深呼吸する。
 「よかったぁ」

 「……ただ、この仔がこれを飲めるか」
 人肌の湯に少し浸した布を、顔まで持って行ってみる。
 「飲まないね……先生」
 「ああ……でも、一生懸命口を動かそうとしてる」
 左手の親指で額に触れてみた。

 

 その時だった。
 「んっ……?」
 仔犬が、徐庶の親指を咥え、ちゅうちゅうと吸い始めた。
 二人は顔を見合わせる。
 「……ねえ先生。この仔、先生の指、おっぱいかと思ってるのかな?」
 徐庶は、思わず苦笑いした。
 「はは……ええと、参ったな……」
 少しすると指を吸うのをやめたので、続けて湯を浸した布を近づけると、躊躇なく吸い始めた。
 「震えも止まったみたいだ。これで大丈夫じゃないかな」
 「……よかったぁ。先生、ありがとう!」

 それからまた少しして夕刻近くになり、阿峻の父親が迎えに来た。
 今日だけ勉強の開始が遅くなり、まだ帰ってこなかったのを心配したからだ。
 仔犬が入った籠を持ったまま門を開けに来た徐庶に、ぶっきらぼうに一礼する。
 「こりゃ、どうも! うちの倅がちょろちょろと紗羊先生の邪魔を」

 ゆっくり首を横に振る。
 「あ、いや……いろいろと阿峻君に教えてもらっているのは、俺の方ですよ」
 「いやー! 実はですな先生、倅が文字が読めるようになって助かっとるんですわ! 収穫の目方やらがはかどるはかどる……馬鹿かと思うとりましたが知恵がつくと違いますわ」
 「いや。賢くて優しい子ですよ。お父上に似たんでしょう」
 奥から体半分だけ出して様子伺いしている息子に『こっちに来い』とばかりに手招きする。
 「ほら! そんなとこにいないで帰るぞ!」

 「あのう……父ちゃん。お願いがあります」
 「あん? なんだ? アリマスとか気持ち悪ぃな」
 「あのね。先生が今持っている犬なんだけど、ね……さっき俺が拾って」
 「あ?」
 目の前の、徐庶の腕の中にある籠を覗く。
 なんかもぞもぞしている仔犬を見て、意味が分かったらしい。
 「あー? 犬!? 犬はだめだだめだ。俺より、母ちゃんがだめって言う」
 母親が犬を怖がるらしい。
 「ねえ父ちゃん! 一緒にお願いしてよ!」
 「お願い、つったってなあ……後で母ちゃんに耳割れるくらいイビられるの俺だぞ? しかも家には牛も豚もいる。これ以上生き物は飼えねえ。無理なもんは無理だ」
 阿峻が肩を落とす。
 「どうしよう……」
 「どうしよう、つったってよお前……! こんな弱っちかったら元の場所に置いてこい、とも言えねえしよ……」
 父親も腕組みをして下を向いてしまった。

 徐庶の右手が頭の高さまで上がった。
 「ええと、お取込み中ですが、いいでしょうか……」
 阿峻も父親も、おもわずその顔を見る。
 「あの……もしよければこの仔犬、俺が預かりましょうか」

 驚きと、巻き込んでしまった少しばかりの申し訳なさで聞き直す。
 「……先生、いいの? そりゃ俺、先生が飼ってくれるんなら嬉しいけど……」
 「いいんですかい? 先生? 勉強の邪魔になりやしませんかね?」
 徐庶は微笑んで頷く。
 「ああ。ひとりで住んでるし、実は丁度、同居人が欲しかったところなんだ」
 そんなに同居人が欲しかったわけでもないが。
 自信もないが。

 しかも同居人ならぬ、同居犬だが。
 一緒に暮らすことを選んだ。
 徐庶はこの晩、この犬にと名付けた。
 そして永らくの間『紗羊先生の愛犬』として、その傍らで寄り添うことになる。

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