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紗羊先生、犬と在る生活

【5】

 「ということは、今徐庶殿は尚書台でお勤めなさっていると」

 城門から外れた閑道を、二頭の馬が行く。
 一人は先日徐庶の家に来ていた李典、もう一人はその李典今度連れてくると言っていた物静かな楽進という男。
 先日の約束通り、二人は徐庶の家に向かっているらしい。
 「ああ、らしいな。……だから言ったんだよ俺! 『あんた才能あるんだから、さっさと中央に顔出せ』って」

 楽進が二度ほど頷く。
 「……確かに、この短期間で異例の出世」
 「だな。しかも元は敵側にいた奴だぜ? よっぽどだろ……曹操殿は何で『小役人』とか言ったのかね?」
 李典がちらっと視線を送る。
 「さあ……恐縮ですが、私には分かりません」
 この楽進は正直な事しか言わないので、だよな、という顔をして笑う。
 「だな。お前に聞いた俺が悪かった」

 「ところで李典殿。徐庶殿のお宅には、犬がいらっしゃるとか」
 「お。おあ。いらっしゃるぜ。むっちゃくちゃ可愛がってるのが。……とか言ったっけな」
 「それは楽しみですね! 私も犬を飼っていますから……駆けっこでで負けるわけにはいきません!」
 「楽進……お前、犬と張り合う気か?」

 「おーい、徐庶!」
 家に着いたので、李典が玄関を三度を二回ずつ叩いてみたが、返事がない。
 「……使用人の方を呼んで参りましょうか」
 楽進が聞いてみると、李典はもじゃもじゃの頭をかき回す。
 「あー……寝てんな。いやこいつ、使用人雇ってないんだ……どうすっか」
 楽進が驚いた様子で聞く。
 「何と……! 役人になられてもご家族だけでお住まいなのですか?」
 「ご家族どころか、男一人と犬一匹だぜここ。おーい」

 何度か玄関を叩いていた李典に、庭に繋がる塀を横歩きで辿っていた楽進がはっとして声を掛ける。
 「李典殿。あれは」
 「あー? いたか」
 楽進がいるところに回って塀の模様から覗き込んで見ると、寝台らしきものが見え、徐庶が仔犬と気持ちよさそうにすやすやと寝ている。

 「おいおい。俺の勘が当たったというか、やっぱりまだ寝てるよこれ」
 「……如何しましょうか。このままそっと」
 「するわけないだろ俺! あん、わざわざ来たってのに……おい! 起きろ徐庶!」
 急な訪問なら未だしも、今日は家に行くと前から約束をしていたわけで、李典は起こすことしか考えていないので何度も呼びつける。

 気配に気づいて、犬が起きた。
 主人の顔を舐めて起こそうとする。
 徐庶も半分目を覚ました。
 李典たちに気づくどころか、犬を撫でながら朝のまどろみを楽しんでいる。

 「おいー……!」
 李典のぼやきにはっと気が付いた徐庶は、体を半分起こしを左腕に抱え上げて照れながら手を振った。
 「なに素っ裸で手振ってんだよお前……!」
 李典が言っていることが聞こえていないらしく、徐庶は玄関を指さす。
 どうやら、鍵は開いてるから入って来いと。
 「楽進……あんたもなに手振ってんだよ」

 家に入って来て開口一番、李典は慣れ合いを始める。
 「鍵も閉めずに寝てたなんざ、無防備もいいとこだなお前」
 徐庶は適当に返しながら服を着始めていた。
 「ここは街中じゃない。……俺の家に勝手に入って来るのは、蜻蛉ぐらいだよ」

 「こないだも言っただろ俺。使用人ぐらい雇えばいいってのに……」
 君は同じ事を何度も言うんだな、といった表情で徐庶はあしらう。
 「自分のことは自分で間に合ってる。……だから、必要ないって話だよ。ああ、そこに茶と器があるから、好きに淹れてくれないか」
 李典はハイハイといった様子で、分かり切った要領で茶器に湯を溜める。

 「てか、素っ裸で寝てるからてっきりいい女とでも浮いた事になったかのかと思えば、犬だし……」
 「ああ。昨日の夕方雨が降ったのに気付かなくて……。夜着が乾かなかったんだ」
 そういえば楽進はどこだっけ、といった様子で庭の方を見ると、早速とじゃれ合っていた。
 「この子は、とっても躾がよくできていますね! この楽文謙、感激いたしました!」
 躾、と聞いて徐庶は少し申し訳ない顔をする。
 「あ、いや楽進殿……恥ずかしい話、俺はその子に何も躾をしてないんだ。だけど大人しいし、食べる時以外牙を出さない。本来なら犬は、噛む躾とかが大変だって聞いてる」
 「そうですね、大変です! 私の犬はとても大きいですから、牙を出さぬよう私自身が何遍も甘噛みして教えました!」
 「そ、そうか……大変なんだな。普通、犬を飼うとは」

 李典が庭に置かれている小さな手鞠を拾う。
 「よーし、! 今から鞠投げちゃうよ、俺! そーら取ってこーい!」
 「取って来ればいいのですね! 負けられません!」
 李典が投げると、につられてなぜか楽進まで追いかけて行った。
 「おい楽進! あんたに投げたんじゃないぜ俺!」

 庭の間の縁側に腰掛けてその様子を嬉しそうに見ている徐庶に、李典は思い出したように声を掛けた。
 「あー、そういやあ徐庶」
 徐庶が静かにこちらを向く。
 「郭嘉先生のこと、覚えてるか? あんたは新野で会ったっきりだと思うけど……なんか、あんたのこと心配してたぜ」
 郭嘉先生と聞いて、はっとして眉根を寄せる。
 「……軍師殿が、俺を……!?」
 李典はうん、と頷く。
 「んああ。俺はよくわかんねけど。息災だろうか、って」

 郭嘉は、曹操に重用されている頭脳というべき軍師である。
 「軍師殿は……新野で、曹操軍に捕縛されたばかりの俺が曹軍の遊撃兵から鬱憤晴らしに殴られていた時、見兼ねて助けて下さった」
 「あ、そうだったのか? あの晩? 初耳だよ俺」
 ただその時、知略で重く用いられている郭嘉に対し、軽い嫉妬か何かがあったのか。
 「だけど俺は……頭に血が上って、その時まともに軍師殿に礼が言えなかった」

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 新野での、あの時の後悔。
 『使えてもせいぜい、小役人止まりか……』
 曹操にそう言い捨てられたあと、徐庶は後ろ手に縛られたまま動くことができなかった。
 頭に重いものがのしかかり、暫く何も考えられなかった。
 気が付いたら、その場からは自分以外はいなくなっていた。
 自分の息遣いしか聞こえない。

 背後から砂利を踏み分け何人かの歩み寄る音がした。
 「こいつかよ。劉備軍にいた軍師とかいう……まったく手間かけさせやがってよ」
 鬱憤で地面を蹴り上げた土が全身にかかる。
 横目で見ると、曹操軍の力を持て余した兵たちのようだった。
 「何だよ。小奇麗な顔しやがってよ」

―ガキッ
 その時、拳で殴られる衝撃が頬を突き破った。
 全身が地面に打ち付けられる。
 血のような味がした。
 何発か殴られて何か続けてグダグダと言っているようだったが、言い返さず、無言で耐えた。

 顔を横たえたまま、兵たちにギリギリと踏まれた。
 「あ……ぐっ……」
 恐らくこの兵士たちは、力を持て余し、捕虜に普段からこのような事をしているのだろうというのは分かったが、踏まれる痛みで意識が薄らいできた。
 頭全体が地面に押し付けられ、踏み割られる感覚に襲われる。

 「成程……第十九遊撃旅団か。あなた達は、規律がなっていないようだね」
 兵士たちの背後から悠然とした艶のある声が聞こえた。
 「なっ……! 郭嘉様!」
 慌てて敬意の姿勢を示すが、その郭嘉という男、険しい表情のまま手にしていた青い棍棒で兵士の額を指す。
 「そんなに欲しいのかな」
 「ひっ!」
 徐庶は体を起こすことはできなかったが、その様子を薄眼で見ていた。

 郭嘉は棍棒を降ろした。
 「持ち場に帰りなさい。……そして遠征中、ここに入ることは認めない。今回のあなた達の旅団は勲功を四分の一とする。いいね」  「は、はっ!」
 今までの暴挙が信じられないかのように、兵たちは列になりあっという間に引いた。

 「……行ったようだね」
 郭嘉は転がっている徐庶のところに歩み寄ると、ゆっくり膝を落とす。
 「兵士たちの中には、戦続きで気が立っている者もいる。そして、誰彼構わず暴力を振るう……済まないことをしたね」
 起きれるかな、と言って体を抱き起す。
 頭がまだグラグラするが、思っていたよりは大丈夫だった。

 敵の大国の頂点にいる軍師が、自分なんかを助けようとしている。
 行き倒れたような自分を。
 先程の殴打でどこからか出ていた血を、表情を変えぬままそっと拭ってくれている。
 『すみません……』
 そう言ったつもりだったが、全く声が出ない。

 縛られていた後ろ手を解いてくれた。
 『あなたは、なぜ俺を助けてくれたんですか……』
 やはり全く声が出ない。
 不甲斐なさの余り、徐庶の目に涙がこみ上げてきた。

 「私があなたを助けた理由。……そうだね。同じ知略を使う者として放っておけなかった、かな」
 ―読まれた!
 徐庶は驚きの余り郭嘉に目を見開いたが、彼は穏やかな微笑を崩さない。
 「先程、曹操殿は小役人と言っていたみたいだけど……あなたの様な知恵者は、こちらに必要だよ。劉備軍での生活は快適だったかもしれないけれど」

 戦闘後、城内に戻った際に使用人のいる屋敷を提供するから、そこに住むといい、と郭嘉は言う。
 徐庶は首を振って断る。
 「いえ……」
 そこまで甘やかしてもらうわけにはいかない。
 涙ながらであったが、やっと声が出た。
 続けて郭嘉は、少し考えた。
 「……では、そうだね。城から離れた郊外に、閑かな古家がある。そこで穏やかにして、曹操軍も劉備軍のことも少しの間忘れて、ゆっくりしてはどうだろう」
 このあたりからあまり記憶がないが、恐らく徐庶も『それでいい』と意思を通したのだろう。

 

 郭嘉に後から薦められたこの郊外の小さくも落ち着く古家というのが、徐庶の今家となった。
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 「ま、郭嘉先生もそのあたりは気にしてないんじゃないの ?あんたも元々敵だったんだし」
 「……そうだろうか」
 「あー。そういえば、だ。新野で俺が、その後あんたに炊き出しの残り持ってったの。覚えてるか? あんた確か泣きながら食ってた」
 徐庶は思い出して気恥ずかしそうに笑った。
 「ああ。……あの雑炊はとても美味しかったよ……。とてもお腹が減ってたから」
 「実は、あれもあんたに『持ってけ』って指示したの郭嘉先生だぜ? 人心掴むのうま過ぎるって」
 「そうなのか……軍師殿が」
 李典は茶を啜りながらもう片方の手で二本指を立てる。
 「てことだ……まあ、近いうちに『元気してます』ぐらい言いに行ってもバチ当たんないんじゃね? 現にあんた、ちゃんと仕事してるわけだし」

 李典と楽進が帰ってからその日の晩、徐庶は縁側でを膝に乗せて星を見ていた。

 確か、新野で縄に繋がれていた時も今日の様に空気がひんやりとし、白くくっきりとした星が空でひらひらとしていたのを思い出す。
 「……俺は、多分軍師殿に嫉妬のような、羨望のような感情を持っていたんだ。そうだ、羨ましかったんだ……。常に冷静に大局を見ていて、いざとなれば言葉で皆を的確に動かせる。俺にはそれが、出来ない」
 徐庶がそう言って下を向くと、が目をそらさず見詰めている。
 「それで俺は多分、辛くて軍師殿の姿を見ようとはしなかった。だけど、……もう大丈夫だ。軍師殿にお伺いして、きちんとあの時の礼を言うよ。
 言えたらきっと、俺も、もっと変われると思う。
……その時は一緒に行ってくれ、
 茶色の柔らかい毛並みを確かめるかのように、頭から背中を優しく撫でた。

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