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紗羊先生、犬と在る生活

【1】

 都の城門を出て少し行くと、靄がかかっている。

 街の賑わいとかけ離れて、その先は百姓の荷車が静かに行き交う農道である。

 「阿峻、帰るぞ。乗れ」
 堅い髭をたくわえた、体躯のいい男が声をかける。
 今日の収穫を終えたらしい。
 「うん」
 阿峻と呼ばれたその子どもは弾みをつけ、台車に飛び乗る。
 男が太い金具の間に入り、その台車を弾き始める。
 我が家に向かって。
 目の形が同じなのできっと親子だろう。

 そのまましばらく行くと、城門の方から一人の男が歩いてくる。
 左の脇に竹簡を三つ抱え、右手には別の竹簡を広げ、読みながら。周りには目もくれず。
 学者風情。
 その男と、台車の百姓親子がすれ違う。

 バサッと音がした。
 「……あ?」
 台車の中で、拾った草で遊んでいた子ども―阿峻が思わず振り返った。
 竹簡が一つ落ちている。
 その先を見ると、すれ違った男の左脇の竹簡が二つしかない。

 「ねえ! 落ちたよ!」
 思わず叫んだが、男には聞こえていない。
 父親はちら、と振り返ったが、止まることなく台車を進める。

 「ねえ! 待ってよ!」
 阿峻は思わず台車から飛び降り、その竹簡を拾って男の背中まで追いかけた。
 男の歩みはゆったりとしていて、追いつくまでに時間はかからなかった。
 拾った竹簡で後ろをつつく。
 「ねえ! これ、落としたよ!」

 「……ん?」
 男がゆっくり振り返った。
 視線が下に行き、阿峻と目が合った。
 学者風情に合う、穏やかな瞳。

 

 次に、子どもが手に持っていた竹簡を見た。
 「あっ……」
 一瞬驚いたように目を見開いた後、左わきの竹簡を見る。
 ひとつ、ない。
 「ええと、もしかして俺が落としたのかな……」
 返事で一遍うなずく。
 「うん。たぶんお兄ちゃんの」

 

 男は阿峻に高さを合わせて膝をついた。
 「……ありがとう。君が拾ってくれて助かったよ」
 やさしそうに笑う人だ。

 「ううん。はいこれ」
 男に拾った竹簡をぽいっと渡そうとした時、結び目が解けた。

 ―――!

 点と線でできた見たことのない不思議ないろいろな記号の羅列が、阿峻の目にたくさん飛び込んできた。
 無意識に、その竹簡を手繰っていた。
 一つ一つにどきどきした。
 書かれているのが何なのか、はわからなかったが。

 「これ、何……」
 阿峻は思わず口にした。

 「ええと、それは文字っていって……ためになることとか、難しいこととか。面白いこととか。いろんなことが書かれてあるんだ」
 男は静かに語りかける。
 それがゆっくりと耳に響いてくる。
 「もじ……?」
 「ああ」

 

 棒、点、四角、円で無限に組み合わされた未知の世界。
 「もじ……」
 目を白黒させながら、阿峻は男の顔と竹簡を交互に見つめる。

 「ええと、例えば……」
 男は竹簡の文字の中から『馬』という字を指さした後、西に広がる畑に目をやる。
 「これは、『うま』と読むんだけど……あっちを見てごらん。畑に馬がいるのがわかるかな。あの『馬』をこの文字で表すんだ」
 「馬……! これが、馬……」
 思わず『馬』という文字を何度もなぞった。

 

 「ああ。馬も畑も、君が持っている竹簡も、君や俺の名前だって、すべて文字で表せるんだ。そしてこの文字で、いろいろなことを記録して、残していく」
 微笑んだまま、男は静かに語りかける。

 

 「それじゃ、―」
 阿峻がまた何か聞こうとしたところだった。
 「おーい。阿峻! 置いてくぞ!」
 事情を知らぬ彼の父親が、腕組みをしてうんざりした顔で見ている。

 「ああー、待って父ちゃん!」  我に返り、竹簡を握ったまま小便でも行きそうな感じで足をばたつかせる。
 「ええと、君は……こういうことに興味があるのかい?」
 男が少し首をかしげて聞いてきた。
 「……うん! 楽しいね、文字って!」

 「楽しい、か……」
 男は阿峻の肩に手を乗せた後、顔を東の農道が枝分かれした方角に向ける。
 「あそこの奥の方に、門の前に木が二本生えた家が見えるかな」
 小ぢんまりとしているがきれいな白い外壁の家が見える。
 阿峻はうん、とうなずく。
 「俺はあそこに住んでる。俺なんかでよければ……だけど、君の時間ができたら、文字の読み方と書き方を教えるよ」
 「ほんと!?」
 「ああ。いつでもおいで」

 

 「阿峻!」
 父親の呼び声が大きくなった。
 「俺、行かなきゃ! じゃあねお兄ちゃん!」
 手を振った後、何歩か走ってまた手を振る。
 「ああ。じゃあ」
 男も少し掌を上げる。
 「行くからね! 今度絶対行くからね!」

 「あーしまった……!」
 台車に乗り直した直後、阿峻は肩をすぼめた。
 「どうした?」
 父親が振り返る。
 「俺、あのお兄ちゃんの名前、聞かなかった……」
 あの家に行ってみれば多分会えるが、聞いておけばよかった、と悔やんだ。
 こんなに胸躍ることを教えてもらったのは初めてだったから。

 「ああ、あいつは先生ってやつだ。なんか最近住み着いたとかで、金も礼も取らずにそこらへんの人間になんか文字とか難しいことを教えてるらしい。寄合で聞いたことがある」
 まさかの父親のほうが知っていた。
 「で、なんだ? お前も教えてもらいに行きたいのか? 時間の無駄無駄」
 「無駄じゃないよ! で、ねえ父ちゃん、あのお兄ちゃん知ってんの!? 名前は!?」
 台車を引きながら思い出そうとしている。
 「名前? 興味ねえことだったから、そん時はまともに聞いてなかったなー名前名前……何だったけか……あー」
 「あー!?」
 「ああそうだ。『紗羊先生』とかって言ってたか」
 「しゃよう……せんせい」
 初めて聞くその名前が神秘的に思えた。
 「なんでも、さっきみたいに竹簡読みながらボーっとしてる事が多くて? よく頭やら肩やらにトンボが二、三匹とまってるからそう呼ばれるんだとよ」

 

 阿峻は台車の前に乗り出した。
 「ねえ! どうしてトンボで紗羊先生なの!? トンボ先生じゃないの!?」
 「知らねえよ! お前が行って『なんでですか~?』って聞けばいいだろ!」
 「てことは……父ちゃん、俺、先生のところ行っていいの!? やったあ!」

 ちっ、と一言の後、後ろを見る。
 行きたければ行けと言ってくれた。
 雑草取りが早く終わったらその合間の時間帯。地ならしや収穫が早く終わったらその後。土砂降りの雨の日。
 「勝手にしろ。ま、どうせお前に難しい屁理屈聞き続けるなんざ、無理だろうけどな」

 

 自分の子だから、自分に似て。
 何か教えてもらうなんて、二、三回行ったら飽きるだろう。
 または難しすぎて諦めるだろう。
 そう考えていた父を阿峻は見事に裏切り、紗羊先生の家へ通い続けた。

 その中で、『紗羊』はトンボの別の呼び方で、いつの間にかそう呼ばれていたということと、
 『紗羊先生』は本当は『徐庶』という名前だということも教えてもらった。

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