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紗羊先生、犬と在る生活

【3】

 が徐庶に引き取られ、一月ほど過ぎた。
 最初は小さく、弱弱しく泣くことしかできなかったが、今では掌を広げた大きさほどになり、家の中では徐庶の後ろをちょこちょことついて回るようになった。
 時々足元にふわっとした感覚がすり寄って来るのが愛らしくて、わざと立ち止まったりすることもある。
 徐庶の親指をおっぱいと勘違いして吸ってしまう癖は引き続き直らなかったが、他はあまりしつけのいらない仔犬だったようで、成り行きで預けてしまった阿峻も安心していた。

 この間に、一度街の市に連れて行ったことがある。
 とは言ってもまだあまり外を歩かせたり連れまわすことはできなかったので、抱っこでもしようかと肩の高さまで抱え上げたところ、は徐庶の方の上を歩き、彼の頭巾に潜り込むことをその時から覚えた。
 「ええと、参ったな……これは想定外だ」
 最初は戸惑って出てきてもらうかと思ったが、小さい体がすっぽり収まってるし、何よりも抱き上げなくていいので両手が使える。
 頭巾の中だと大人しくしているので、これでいいことにした。
 街中の書庫や書店で徐庶が本を物色している時、は頭巾の中から顔だけ半分出し、吠えることもなくその様子をじっと見ていた。

 それから三日ほど経った。
 徐庶の家の門の前に、艶々した毛並みの馬が一頭止まった。
 「おー、ここだここだ。土地勘も持ってるぜ俺」
 大きな風呂敷包みを持ったすらっとした偉丈夫が一人、その馬から降りる。

 門の金具で数回叩く。
 「おーい。徐庶さん! いるか?」
 返事もなければ、歩いてくる足の音もしない。
 「いや、留守……じゃないなこれは」

 門を左に抜け、塀の中を丸く繰り抜いてあるところから覗いてみる。
 「……いるし。そこ。見つけちゃったよ俺」
 縁側近くに置いた椅子に腰かけ、広げた竹簡と見詰め合っている男。
 膝の上にはうつらうつらした犬。
 一度息を吸って塀の中に向かって叫ぶ。
 「徐庶さん! おいって」
 はっ、として顔を向ける。
 「あ、ええと……李典殿?」
 「そう。俺だよ俺! 頼まれたヤツ持ってきてやったんだけど?」
 徐庶は籠の中にを入れ、苦笑いのような、済まないといった表情をする。
 「ああええと、済まない。読むのに夢中になってしまっていて……今開けるから、門で待っててくれ」

 徐庶が門を開けて早々、先ほど李典と呼ばれた男は彼の頭の上を指さした。
 「……とんぼ」
 止まっているらしい。
 「えっ?」
 頭を一、二度振ると、何事もなかったかのようにスッと飛んでいく。
 「ほんとにあんた、紗羊先生って呼ばれるわけだなそれ」
 「ああ……さっきあそこでじっと動かなかったから、か……はは」

 少し笑ってごまかす徐庶に、李典が持ってきた大きな風呂敷包みを突き出す。
 「あんた、これいるんだろ? 持ってきてやったぜ」
 ハッ、とした表情になり、その風呂敷包みの結び目を急いで解く。
 徐庶が三度の食事より大好きなものが積んである。
 竹簡ではない。紙に書かれた貴重品の書籍である。

 宝物でも漁るかのような瞳で、無意識に表紙からどんどん捲っていく。
 「すごいな。こんな綺麗な状態で残っていたなんて……。本当にこれ、俺が貰ってもいいのかい?」
 「ああ。いいよ」
 李典はあまり関心の無いような怠い表情で頷く。
 「なんかこれ、写しに余部があったんだと。保管時期も過ぎてるし邪魔んなるし監査のおっさんらも捨てるって言うんで、貰ってきてやったぜ、俺」
 きらきらした顔で徐庶がこっちを見ている。
 「すごく嬉しいよ。ありがとう」
 「あー。いや……礼はいいって……照れるぜ俺」
 言いながらもじゃもじゃ頭を掻いていたら、徐庶はもう椅子に掛けて書籍の続きを読み始めていた。
 そしてまた膝にを乗せて。

 李典はその様子を見て何か思い出した。
 椅子の背もたれを前にして座る。
 「徐庶さん。そういやあんた、こないだその仔犬連れて街の市行ってた? 随分と噂だぜ」
 キョトンとした顔で顔を上げる。
 「……俺が、噂に……? ええと、何故だろうか」
 膝の上のを撫でながら首を少し傾げて。
 「何故だろうかって、あんた……街中でなあ、背の高い兄ちゃんが後ろの頭巾に仔犬入れて本立ち読みしてたら、誰だって滑稽に思うぜ俺」
 「だけど……がここに入っていてくれると、両手が使えて、買い物がすごく楽なんだ」
 ―本人以外は、どうでもいい。
 「あー……まあそれはどうでもいいとして、だ」
 李典はまだ聞きたいことがあったらしく、話を続けようとした。
 しかし。
 が、徐庶の左手の親指を音を立てて吸い始めた。
 「ああ、今日はお腹がすくのかな……」
 残った四本の指で頭を撫でている。
 「あー……!」
 微妙にタイミングを逃した。

 頭をもしゃもしゃと掻きだした李典に、徐庶は申し訳ない顔をする。
 「ええと、済まない。まだこの仔は甘えたいみたいで……時々こうやっておっぱいを欲しがるんだ」
 「徐庶さん、わんわんのおっぱいとか、そういう事はどうでもいいんだよ俺。ああ、いや……まあいい。ところで、仔犬の乳ってどうやってあげてんだ?」
 徐庶はすぐ傍にある棚の上の袋に目をやる。
 「ええと……そこに油紙の袋があるだろう? 乾燥させた乳が入ってるんだ。それを、人肌の白湯に溶かして飲ませたらこの仔にも合っていたみたいで」
 「っへえ、成程ね」
 「恐らくもう少ししたら、堅いものが食べられるようになるんじゃないかな」

 

 雑談は中断。
 「なあ? 徐庶さん」
 李典の顔が真面目になる。
 徐庶はを撫でながら、またキョトンとした顔でこっちを見ている。

 「あんた、なんで高級推試を受けない?」
 「……」
 「あんたなら中央でもっとできる仕事があるだろ。それこそ、アレだ、尚書関係なら長官まで行く」
 「ええっ……と、」
 「あんたがこっち来てから細かい雑務ばかりやらされてんのは知ってる。これは俺の勘なんだが、徐庶さん、あんたは出世する。なのになぜ本気を出さない?」

 「李典殿」
 一瞬だけ眉根を寄せて下を向いた後、穏やかに戻る。
 「君は、戦ったことのある俺にそんなことを言ってくれるんだな……。かつては敵だった、俺に」
 「持ってる知は知だろ。使わないと意味が無い。そういう事にかつても敵もくそも関係ないと思うぜ、俺?」

 そろそろ帰るわ、と言って李典が立ち上がった。
 「ま……推試は、知ってる奴何人かにあんたの名前言っとくから。もし呼ばれたら俺の顔立てて顔出してくれよ」
 徐庶が断る隙もなく、李典は馬に跨った。
 「ああ。分かったよ」
 「あとさ、今度楽進連れてきていいか? あいつ犬好きなんで、徐庶さんの犬見たら喜ぶと思うぜ、俺」
 「ああ。いろいろとありがとう。あと……ここでは『さん』は要らないよ」
 「そうか? あー、じゃ、同じく『殿』要らないぜ俺。んじゃ、またな。徐庶」

 李典の乗った馬の後姿を徐庶は暫く見送っていた。
 見えなくなって、星が出だす頃までそこにいた。
 を腕に抱いたまま。

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