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紗羊先生、犬と在る生活

【4】

 は、徐庶と共に過ごすうちに、次第に少しずつ周りを見るようになった。
 家の中の陽だまり。
 ご主人―徐庶が好きな縁側に木陰がかぶさって来るところ。
 書物がたくさん置いてあるところ。
 家によくやってくる人。

 ご主人が何気なくつぶやく独り言。
 言っていることの意味は分からない。
 何かを思いついた時とか、嬉しいことがあった時とか。
 そういう時は話しかけてくれる。

 そしてたまに、哀しい顔をする。
 その時は話しかけてくれない。
 どこか心の奥底に押し込んでしまっている。
 気になってじゃれついてみると、無理してでも微笑んでくれる。

 

 その哀しい顔をした日の晩は、時々ご主人が寝ながらうなされていることがある。
 寝台の足元にある籠から出て顔のところを覗くと汗びっしょりになっているので、顔を舐めてみるとやっと目を覚ます。
 肩で荒い息をしながら二、三度頭を振った後、を胸の中で抱きしめ、息が整うまで半刻ほどじっとしている。

 「……ありがとう」
 それが落ち着くと、徐庶は犬の耳にしか聞こえないような声で、頭を撫でながら一言そうつぶやく。
 そしてを籠に戻し、また床に就く。
 その繰り返しである。
 ―いつか哀しいことも、すべて話してくれるんだろうか。
 そんなことを思いながら、もまた目を閉じる。

 

 明くる日、阿峻が徐庶の家の門を叩いた。
 今日は勉強をしに来る日ではなかったが、渡したいものがある、と言って。

 阿峻のほかに、門の外で小さくなっている影がある。
 やっと自由に歩けるようになったぐらいの歳か、顔だけ半分こちらに向けて、もじもじしながら二人の会話をじっと眺めている。
 「ええと、あの子は誰なんだい」
 「あーあのね。俺の兄ちゃんの子ども! ねえ。みいちゃん何でそっちいんの! おいで」
 阿峻が手を引いて連れてくる。
 女の子だった。
 「阿峻。そうか、君にはお兄さんがいたのか」
 初耳だった。
 「うん。紗羊先生には言ってなかったっけ? 俺の兄ちゃん、よく戦に行ってるんだ。前にお役人が来て、体が大きくて目がいいから見張り役やれって。歳は……先生と近いくらいかな」
 「そうか……」
 「うん。だから、兄ちゃんの家族は、今俺ん家で一緒に暮らしてる」
 その女の子と目が合った。
 阿峻と手をつないで、足元にいるの顔をじっと見ている。
 ―自分が普通に家庭を持っていれば、この子くらいの娘か息子ががいたのだろうか、と徐庶はぼんやりと思いを巡らせた。

 「あー先生。今日は勉強しにお邪魔したんじゃないんだ。俺も今から畑があるし。でも、これだけ急いで渡したくって」
 右手に持っていたゴワゴワした布を細長く巻いたようなものを手渡した。
 「ええと、これは……何だい?」
 「んー、わかんない」
 徐庶は首を傾げる。
 「分からない……って……」

 軽く笑いながらそれを広げた時に、あっ、と声が出た。
 「何かね、兄ちゃんが戦行った時に、もらってきたんだって。陣えい……っていうの?それを片付けてたら、壁にこれが貼ってあって、すごく立派な絵だったんで、丸めて『どこに置きましょうか』って言ったんだって。
 そしたら『要らないから捨てろ』とか言われたんだって! でも綺麗な絵でしょ? 何の絵かわからなかったけど捨てるの勿体なくって……兄ちゃん持って帰ってきたんだ」
 徐庶は、平民にはなかなかお目にかかれることはないそれに目を輝かせた。
 「……ああ……地図だよ。阿峻、これは地図っていうんだ」
 聞き覚えのある地名があちらこちらに事細かに記されある。
 「ちず?」
 「ああ」

 徐庶も実はあまり地図については知らないが、どういうものかだけでも言葉で伝えようとする。
 「阿峻。今俺たちが例えば……ええと、今いるここから、地の果てまで歩くか走るか、馬とかで移動するとしよう」
 「うん」
 地の果て、と言われてもピンと来ないが、なんとなく果てしないことはわかる。
 「移動するとしても地はとても広い。何年か、何十年か……いや。百年以上かかってしまうかもしれない。そんな地を一つの図に縮めて現したのが、これなんだ」
 「っへー……!」
 「ええと、ここを見てごらん。街の名前や、土地の名前……ここには山の名前も書いてある。面白いだろう」
 阿峻は改めてその地図、とやらをまじまじと見る。
 「しかし驚いたな……君の兄上がこんな貴重なものをお持ちだなんて」

 徐庶が言い終わる前に首を振る。
 「ううん。それ先生にあげようと思って」
 「俺に……!? いいのかい」
 「うん。なんか面白そうってのはわかるんだけど、俺んちにそんなのあったって貼る場所もないし。多分しばらくしたら、分かんなくなって厠に置かれて尻拭いたりしちゃうよ。そうなる前に、兄ちゃんも先生にあげてってさ」
 このような興味をそそるもの、くれるというならばこれ以上ありがたいことはないが。
 「そうか……じゃあ遠慮なくもらうよ。ありがとう。早速壁に貼っておこう」

 片膝をついて、阿峻が連れていたみいちゃんの頭を撫でる。
 「君も、ありがとう。帰ったら父上にお礼を言っておいてくれないか……ん?」
 徐庶が言い終わる前に、その顔の前に女の子の小さな手が伸び、彼の鼻の下やら顎を触り、少し生えているひげをざらざらとを確かめ始めた。
 なぜか嬉しそうな顔をして。
 「あの……ええと。すまない、それは俺のひげなんだ……っぷ……あまり触らな」
 「うわ。こらみいちゃん! 先生のおひげ、なでなでしちゃだめだって!」
 阿峻がその手を取り上げて女の子の横にしまう。
 「先生ごめんね。みいちゃん、よくわかんない癖があって。男の人のひげ見ると触っちゃうんだ」
 「あ、いや。はは……面白い子なんだね……少し驚いたよ」

 当のみいちゃんは、下と上を交互に向いてもじもじしている。
 最初に会った時のもじもじと、様子が違う。
 「あー……! 先生。この子ね、先生のこと好きになっちゃったみたい」
 悪い気はしなかった。
 「そうか。……俺なんかを好きになってくれて、嬉しいよ」
 もう一度その子の頭を撫でる。
 阿峻はよかったね、と女の子に一言言って手を握る。
 「じゃあ、渡したかったものも渡せたし、俺帰るね。今度その地図っていうの、また教えて!」
 「ああ、分かったよ」
 「じゃあね紗羊先生! ほらみいちゃん、帰るよ。またね!」

 女の子も を撫でた後、振り返りながら徐庶に向かって小さく手を振る。
 「ばいばーい」
 「ああ、ばいばい」

 

 「新鄭……西平……」
 徐庶はその晩、阿峻からもらった地図を机に広げ、覗き込む。
 椅子に掛けてまた膝の上で微睡んでいるを撫でながら、右の指で今自分がいる辺りを辿っている。
 その下に目が行った。
 流麗な墨絵で、山や城が描かれてあり、名前が記されてある。
 「蓬……莱……」
 この地図には、今ある地も、言い伝えの地も、絵と共にいっしょくたに描かれてある。
 「蓬莱……」
 その地名をもう一度口にした時、ある過去の記憶が蘇った。

 ―何百年か遠い昔。
 伝説の山・蓬莱に棲み、時折下りてきては民の病や苦しみから救っていた仙人がいたという。
 「徐福……なぜ俺は、あなたと同じ名前だったのか……」
 を撫でていた手が止まった。
 見上げてみると徐庶と目が合った。
 「……」
 何か思い詰めた顔。普段であれば、それ以上は語ることはない。
 だがこの時は違っていた。
 「。俺の本当の名前は……徐福といって。蓬莱という霧がかかった山に棲んでいる尊い仙人様と同じ名前なんだ……いや、『だった』か」
 そう語るその瞳はいつも通り優しくて。
 でも哀しそうで。

 やっと自分のことを話してくれた。は一生懸命聞こうとした。

 「若い頃はそれが嬉しかった。何か特別な力を持ってるような気がして。本当は誇らなければならなかった。その徐福という名に恥じぬように俺も……努力して、何か人の役に立って。
だけど……」
 徐庶は目を伏せた。
 「俺は……誤ってしまった。役に立つどころか……戦えない人間に刃を向けて……陥れてしまった」

 現在の学者風情な姿からは想像がつかないが、若かりし頃勉学よりも武芸に長けていた彼は、友人の頼みで、ある汚職の影があった男を刃で手に掛けてしまったことがある。
 その手に掛けた男は、やっていたことは『悪』と呼べるものだったかもしれない。
 しかし、まともに戦う力を持たない人間を斬り、その血で手と体と、心までどす黒い赤で染めてしまったこと。
 その後捕まり監獄所に突き出され、人を弑した犯罪者として、左の前腕に一生消えることのない墨黥を刻まれたこと。
 学問所でも、心無い同学の数人からその過去の罪を陰で噂され、伝説の仙人と同じ名前のくせに、と目の前で罵倒され、自らの大事な尊い名を使わぬようになったこと。

 そして今の徐庶がいるのだ。

 「俺は、徐福という自分の名を、自分の手で……殺したんだ」
 瞼が震え、伏せがちな憂いを帯びた黒い瞳が濡れる。
 そこから零れ出たしずくがの背中に、そして手の甲に落ちる。

 犬は伝えられる直接の言葉を持たない。
 今は主人のその手の甲を舐めて、胸に縋り付くくらいしかできない。
 「……」
 徐庶はその体を静かに両腕で抱き締め、顔を埋めた。
 「君は、俺の……こんな汚れたところまでも、聞こうとしてくれてたんだな……」
 心臓の動きが伝わって来る。
 「……ありがとう」

   の目は真っ直ぐに主人を見据えている。
 「俺は、君が俺の家に来てくれた時……嬉しかったよ。触れたら温かくて……安らぎをくれていた。君が乳と間違えて俺の指を咥えた時、こんな人見知りの俺なんかを求めてくれて……幸せなんだって」
 右の掌で、頭を撫でながら包み込む。
 「君たち動物は人間を裏切らないなんてよく言うけど……嘘だ。君たちは人の言葉は喋れないけれど、賢くて……きっとすべて聞き入れた後に、俺たちを見定めてる。
 俺は、そんな君に裏切られたくなくて……嫌われたくなくて……優しくて賢いだけのご主人であろうとして……これまでのことを話せずにいた」

 

 くぅん、と一声鳴くと、徐庶もこちらを見ていた。
 「済まなかった……本当に」

 顔を舐めると、愛おしそうに頬を摺り寄せる。
 「話そう、すべて。これからは……情けない主人だと思われても構わない。もう、君の前で俺を隠すことはやめるよ」
 抱きかかえたまま、徐庶は椅子から立ち上がった。
 「今晩は一緒に寝よう、

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