短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」十七



 袁術の城塞の一角に、不思議な一角がある。
そこは通常見られる土壁の色とは異なり、真夏の陽光を反射するかのごとく白い。
宮殿前の大通りのように役人達が忙(せわ)しく通り過ぎる事も無く、樹から伸びる影だけが時を告げる。

 アーチ型の通行口が一箇所だけあり、たまに世の戯事とは関係無さそうな老人や荷物を持った女が出入りする。

 【四診院】
 一つの診療所と、四つの井戸があったのでそう呼ばれた。
 寿春に居座り始めた頃から袁術はその場所に、病気になったり戦に出陣して負傷したりした兵や役人の一部を静養させた。
 悪く言えば隔離したともいう。
 手狭だが一人につき一件の家を与えられ、許可証を発行し妻や母親など各一人だけ家族の出入りを許した。
 定期的に駐在する医術師の診療を受けられ、期間は定められていたが快復するまで一時金も与えられた。
 しかしそういう運のよい待遇を受けられる者はごく限られたもので、『袁術軍』と名の付いた兵士でも子飼いとされ、実際は城壁の外で野放しにされている将も多いのが事実である。
 
 その四診院に入れる兵というのは官職のある至極僅かな者に限られ、それ以外の大概の負傷兵たちは少しばかりの手当金を与えられただけで、一時故郷に返された。
 一般兵は、一見優遇されているように見える四診院に入る人間を羨ましく思い、逆に四診院に入らされた者たちは白壁に囲まれた閉塞感を味わう事を余儀なくされ、癒えるまで空を仰いで遠い故郷を思った。
 そして、学を修めているものはそれに加え、静寂に包まれたこの場所で世の行く末を憂えた。


「いつもすまないね、権坊」
 通常なら負傷兵に頭を下げられる医術師の老人が、少年に向けて両手を合わせている。
 抱えきれないほどの洗濯物だった。
「いえ、いいんです。ついでですから。ここに置きますね」
「やれやれ、坊やがいて助かった…儂がこの敷布を洗っていたら二晩かかってしまうからの」
 老人は、嬉しそうに眉を八の字にして畳もうとすると、それを握る前に横から素早く奪う。
「先生、私にここまでさせてください。ね?」
 手際が良過ぎるので、断る術も無い。
「おやおや…すまないね」
 先生、と呼ばれたその老人は、碗を二つ出して茶を淹れ始めた。
 二日前に、『兄の看病役』として診療所正面の仮屋で住まい始めたこの12歳そこそこのこの少年に気立てよくしてもらい、この医師の老人と彼は知らぬ間に祖父と孫のような関係になっていた。
 本来なら負傷したら一般兵と同じく家族が居る曲阿の実家に戻る事をその兄は望むのだが、今回は流石に重傷だったので袁術に大事を取らされたらしい。
 
 いつものように老人は傍に注いだ茶を置き、書の整理を始めた。
「権坊や。ここ数日姿をみせんが…兄殿は大分良いかの?」
「…もしかして…兄上、先生のところに昨日今日見えてないんですか?」
 頷く老人を見て、眉根を寄せた。
「そんな…全然快復してないです。お仕事が忙しくても先生に診て頂くよう、って私言ってるのに」
 若いから、と老人は笑う。
「じゃが、権坊が居れば孫策将軍も心配要らんよ」
 とうの昔に洗濯物を畳み終わった孫権は、いつものように診察室の丸い座椅子にこじんまりと座る。
 何も理由を語ることは無いが、この位置が好きらしい。
「先生。兄上は私が傍に日常居なくても、心配は要らないんです。…ただ、時々無茶をなさるから」
 しかし、この四診院に来る前日孫策が『明日弟が来る』とこの医者に嬉しそうに話していたのを彼は知らない。

 飲むのが遅くあまり茶が減っていない孫権の碗に、老人はまた注ぎ足す。
「そういえば兄殿は今日も公務なのかの?」
「はい、袁術様の所へ。さきの戦の報告だと」
 左様か、とため息をつき外を見やった老人だったが、筋でも入ったかのように外の窓枠へ体を乗り出した。
「おや…あの子は誰かの?初めて見る」
 つられて孫権も隙間から覗くと、自分と兄が仮住まいしている家を見上げている少年が居る。
 自分とあまり年齢も変わらないように見える。
 
「権坊、お主知っておるか」
「いえ…分かりません。誰だろ…」
 普段から大きめな目を何度も細めたり凝らしたりしてみるが、知らないものは知らない。
 しかし、自分の仮屋の前で立ちつくしているということは、自分らに用事があるに相違ない。

 孫権は診療所から出て、その華奢な少年の背中に声をかける。
「…あの、今日和」

 神経研ぎ澄まされた野生の獣のように振り返るその眼差しは、真夏と相反する涼やかさを帯びる。
 しかし、後ろで呼んだのが自分と歳も変わらないような少年と知ると、穏やかに向き直る。
 孫権は最初警戒心を持たれている事を不思議に思った。
「…あの、私、この家の者なんです。…けど、何か…」
 少年は掌を組んで一礼した。
「突然伺って申し訳ありません…私、故あって急ぎ、或る人を捜しています。この四診院に居ると聞いたのですが…孫策という名の将軍を知りませんか」
 孫権はそれを聞いてきょとんとした。
 知るも知らないも。
「…え。孫策は兄上…私の」
「貴方の?」
 頷いた孫権に近づき、ならば話は早い、と懐から出した小さな包みをその手に握らせた。
「それ。…本当ですね。信じますよ」
 再度孫権は二度ほど頷いた。
「では、これを。彼に渡してください…頼みましたよ」
「えっ?」
 孫権がそれを確認しようとして一瞬だけ見た間に、少年は後ろ向きに走りながら一礼を済ませ、通行口に一目散に走り出しているではないか。
 包みの外側を一瞬見ただけでは、それが何なのかは分からなかった。
 何やら難しそうで表に文が書かれてあって高尚なものだ、という事以外は。
「ちょ、…ちょっと、待って!」
 貰った理由が分からない。
 必死に走って追いかけてみるが、その少年は飛燕の如く足が速く、そして孫権は遅い。
 間はどんどん開いていった。
「ま、待って!ねえ、待っ…」
 
 先を行っていた少年が、後ろで鈍い音がしたので振り返ると、自分を追いかけていた側が無残にも砂煙を上げて転んでいる。
「………。」
 涼しげな表情が、微笑に変わる。
 通行口に留めていた馬に向かっていた足が一瞬止まり、反対方向に向かって歩き出した。
「…大丈夫?」
 やっと半身だけ起こしたその目の前に、さっきまで追いかけていた少年が座り込んで手を伸ばしていたので、孫権は驚いた。
「あの…あ…ありがとう」
 孫権のそれに対する返事は無かったが、穏やかな笑顔が返ってきた。
「じゃあ、」
 そう言って再び元の方向に歩きながら戻って行く少年を、最初あれだけ追いかけていたのに、
 そして助けてくれたから近づく事ができたのに、
 今度孫権は立ち尽くしたままずっと見送ってしまっていた。

 袁術は、孫策が快復しきれないまま自分に向かって歩いて来る姿を目にしていてもたってもいられなくなり、階段を転がるように降りて来た。
「伯符、大義であったな…吾輩、そなたに辛い戦をさせた」
「…いや、頭首。俺こそ出殿が遅くなって申し訳が」
「よ…よさぬか。あまり動かすと傷に響く」
 兪河に支えられたまま跪こうとした孫策を慌てて制止させる。
 孫策は、この傷が袁術の送った援軍の弓兵から受けたものだとは言わなかった。
 陸康の甥の少年を庇って受けた矢傷であることも言わなかった。
 ただ、伝えたのは廬江の地を治める者が空席になった、という旨の一言だけ。

 今日出殿する前に、いや廬江を落として袁術の九江に戻る前から既に、彼は朧げに分かっていた。
 廬江を例え自分の力で陥落させ、どんなに功績やら武名を挙げたとしても、
 頭首に認められようとして幾つもの城を奪い、傑物の頸を刎ねて勝鬨を挙げたとしても。

「吾輩、陸康なくした廬江の地はそなたでなく、子台(劉勲)を置こうかと思うのだ」
 袁術の駒として彼の元にいる限りは、本来の自分を認めて貰えることは決して無いのだと。

 そして暫く廬江に赴ける事は無いのかもしれないと。
 だからあの時、喬にしばしの別れを告げようとしたのだと。
 知りつつも、その視線は再度強烈に袁術を捉える。
「…俺では役不足ですか」
―廬江太守として。
 確かめようとした。
「そなた、癒えもせぬのに片腕で辞令を口上するつもりか?」
 その様な太守は会った事が無い、と続けて袁術は言う。
 伯符は若いのだから急ぎあんな廬江の地で太守にならずとも良いではないか、と。
 太守になって他所の地で離れているよりも、吾輩の腕となって傍に居れば良いではないか、と。

 それは最早都合の良い言い訳にしか聞こえない。
 そして当然の事だが、袁術は彼がどれだけ廬江と云う地に思いを馳せていたのかを知らない。

「この前の県の祖郎討伐といい、この度の陸康といい、まったくそなたは懐義校尉(部隊司令)以上の働きをしおる」
 
「頭首…カイギか何だか知らねえが俺は肩書きなんてどうでもいい。次の指令をくれ」
 その姿を傍で見ていた兪河は、孫策が何かに向かい急いているように見えた。
 勇壮な姿が肩と腕の傷を通して痛々しくも見え、冷静に見えつつもどこか間違えば引火してしまいそうにも見え。
「どうしたのだ伯符…。若さにかまけてその様に無理せずとも良い。今宵、宴席を設けたのだ。まずその饗宴でそなたのこたびの戦を慰労して、数日傷を癒してからでもよかろう?」
 袁術の言う事はごもっともだが、孫策は乗り気でない。
「…俺は…やっぱそれに参席しないといけねえのか?頭首」
「何と、主役のそなたが居なくてどうするのだ!酒の席で吾輩を淋しがらせる気か!?」
 そう言いながら彼の手を握り締めて放そうとしない。
 この袁術の掌のゴムの様な感触は、何度も握られて慣れてはいるが、矢張りどうも好きにはなれない。
 しかし孫策の表情が険しくなる事は無く、観念した微笑のようなそれで袁術に視線を返す。

 この年興平元(194)年の夏、曹操は本拠地の鄄城を留守にし、再度徐州牧・陶謙の討伐に赴いていた。
 五城を落とし東海郡まで進んだ後、進路を返して陶謙の拠る郯城付近に差し掛かった。
陶謙側は曹豹と劉備が郯の東側で進軍を阻止しようと奮戦するが、曹操は忽ちのうちにこれを撃破、勢い付いて襄賁県まで攻略し、通過した各地では多くの民が命を落としたという。
 そして曹操が不在の間、州では張邈が陳宮と共に州内の郡や県を巻き込んで曹操に反発し、『あの』呂布を迎え入れて牧とした。
 ただ、曹操の本拠・鄄城のみ荀ケと程cが留守を守っていたので確保されていた。
それに加え范県・東阿県が曹操側についたのが幸いし、知らせを聞いた曹操は徐州から軍を引き返し、鄄城に帰還。以降呂布と曹操の勢力は対立する事となる。
 これが同年9月、曹操40歳である。

 淮南・寿春で、袁術に腕を掴まれて孫策が心中で気疲れしていたのと時を同じくして。
「それにしても小喬、今日はまた随分と長い昼寝だったねえ」
 廬江・喬家の庭の中央にある六角形の屋根の下で長居したらしく、小喬は目が覚めた直後から魯粛にからかわれた。
「だって…眠いんだもん」
 長い間置いてあったらしい茶を飲み干したが、生温くなっていた。
「大喬は?今日は一緒じゃないの」
「お姉ちゃん?…今日も速駆け行ってる」
 魯粛は、喬が最近乗馬を趣味の領域にしてしまったのが未だ信じられない。
 そして、最近ではそれを黙認する喬公も信じられない。
「は…あんな大人しそうな子が?見かけによらないもんだね女の子ってのは。…まあ、君ならまだ分かるけど」
「どういう意味!?」
 食って掛かって来た小喬を慌てて制止する。
 元気が有り余ってそうというのか、見た目行動的なのはどちらか、と問われれば答える大多数は妹の方と答えそうなのは目に見えている。
「そういえば粛兄様。それだけじゃないよ?お姉ちゃん、最近おかしいの。お部屋に遊びに行ったら地図なんて広げちゃってたり。昨日なんて変なハンコ眺めててね、あたしが『何それ』って聞いたら顔真っ赤にして隠すし」
 彼が小喬からそう聞いて、それがまさか『もしかしてあの玉璽』、などと連想する事はまず無い。
「まるで戦にでも行ってるみたいだな大喬…さーて…何の病気かねえ」
「恋の病」
 小喬のその一言で魯粛は含んだ茶を思い切り噴出し、慌てて左右を見やる。
「お前、もっと小さい声で…!直球過ぎるよ!叔父さんに聞こえてたらどうするの」
「父様に聞こえてたら、何よ?」
 彼の気兼ねなどもろともせず、思うところを率直に告げる。
 その発言の思い切りの良さが妹の長所だったりする。
「お姉ちゃん、凄いと思うの。今だって多分『戦なんて大嫌い』とか思ってる筈なのに…大事な人の為に、戦の事を知ろうとしてる」
「小喬。君はそうじゃないの?」
 想う人の為に、何かを。
 その言葉に大きめな瞳を見開いて笑い返す。
「あたしは…どうなんだろう。どうしたらいいか、…分かんない」
 自分の想う相手は、あまりにも理想に近くて、あまりにも素晴らしい人で。
 あまりにも完璧過ぎて、近くに感じることが出来る事があっても、やはりあまりに遠い。
 自分と対極の空で煌く星の様に見えて。
 
 それを聞き終わった魯粛が、片肘付いたままにんまりと笑う。
「じゃあ、今日の今から行動に移すんだね」
 逆に小喬は困り顔で。
「粛兄様、簡単にそうやって言うけど…」
 魯粛の言い分によると、気分転換から始めたら、と。
 
「おぉ、小喬や。さて昼寝は終わったか?」
 そんな折、喬公が通りかかり、傍の歩廊から魯粛を呼ぶ。
「どうしました?叔父さん」
 小喬は、二人が今晩喬家で催すらしい宴について話しているんだろう、というのは分かったが、それ以上のことを知ろうと云う気は無かった。
 何やら今日は楽曲も演奏されるらしく、その詳細の一連を紙で確認した瞬間、自分の方に顔を向ける。
「…へえ。小喬、ねえ。君も今晩の宴には是非顔を出すべきだよ。」
 魯粛が、何故そんなに嬉しそうに言って来るのかが分からない。
 ただでさえ、姉と違い今年の夏場は何もやる気が起きてないというのに。
「…あたしはいいよう…」
 彼は喬公に接待の手伝いを頼まれたらしく、足を進めながらもまだ顔は小喬に向いている。
「いや、こんな名演奏はめったに聴けない。本当に。特に小喬、君は今晩のは一目だけでも覗くべきだ。特に最後辺り。私は多言しない。刻六ツ半だ!いいね?」
 彼らの足音が尾を引いた後遠のく。
「その時間まで起きてればね…」
 いまひとつ気合の入らない表情で呟いた後、小喬は庭の違う方向に視線をやった。
 父の拘りか庭師の好みか、八重咲きの薄紅色立葵の花が目立つ。
 今日に限って、その花が水遣りを放っておかれている様に見えてきた。
 それとも土の乾きが早かったか、雲ひとつ無い天気なので無理もない。
「お水でもあげようかな…」
 運良く桶も井戸近くに据えてある。
 急に思い立って一番近い井戸から水を汲み上げていた途中、花の向こうから水を柄杓で投げているかのような似た音がする。
 庭師が気付いてあちら側から水遣りをしてくれていたのだろうか。
「なんだぁ。ねえ、庭師さーん。じゃあこっちもお願…」
 小喬は、この日に限って何故か自分の邸の間取りをすっかり忘れていた。

 この庭が、垣根を隔てて喬家来賓を宿泊させる部屋庭へと繋がっていた事を。

 立葵の生え際を分けて半身を乗り出し、彼女が話しかけた相手は庭師ではなかった。

 しかも相手のその姿は背中を向けており、よくいう“行水”の最中であった。
 最初の話しかけが聞こえていない。
 昼下がりに庭で水を浴びる事など、この真夏日であればよく見られる風景である。
 後姿だけでその相手が誰なのか分かった時、小喬は声を上げる事を忘れた。
 背は高く肩は広くて大きいのに、浴びていた水が滞り無く滑って行く綺麗な男性の背中。
 長く伸びた頭髪は腰まで張り付き、思わず指を伸ばしたくなる程に艶を伴う。
「……えっ、」
 漸く背後の気配に気が付いた様で、最初顔だけをこちらに向けて瞬きする。
「―小喬小姐…」
『どうしてこんな所に』と同時に思ったに違いない。
 彼の方は一向に穏やかなものだが、逆に覗いてしまった側の面は一変する。
「しゅ、周瑜さま…!ごごごごめんなさい!ホントにごめんなさい!あたしったら」
 いい終わらぬうちに足早に去ろうとした小喬の細腕はするり、とさらわれる。

「―待って、小姐」
 指はしなやかで長く、しかし掌は大きい。
 小喬の方は、彼の顔をまともに見られず、再び口を開くまでの間少しだけ時が止まった。
「しゅ…周瑜さま、あの、どうしてここに…」
 彼の方は見た目、依然として冷静である。
 心中までは分からなかったが。
「ああ、僕は廬江舒県の音楽同好たちと久々に会えたのでね…県令殿の屋敷で昨日、一日限りで隊を組んで演奏会を開いたんだ」
彼が言うには、その折に賓客でたまたま同席していた喬公が『隊を解散される前に、是非明日は自分の家でも』と呼びつけたらしい。
 そして、これが終わったら暫く廬江を離れる、とも。
 理由までは言わなかった。
 
 小喬も以前より、喬公が様々な分野の文化人を招いて懇談するのを好んでいる事は知っていたが、流石にこの周瑜までとは思わなかった。
「周瑜さま…あの、早く服…」
「構わない。こっちを向いて、小姐。」
 恥ずかしいのかこちらに向けようとしない小顔をもう一方の手で包み込む。
 彼からも何か言いたげだったが、扉の奥から彼の名を呼ぶ者がいる。
 恐らく、音楽仲間の一人であろう。
「ああ、今行く」
 その手は漸く小喬から離れたが、その代わりその涼やかな瞳が捉える。
「今晩の宴は、良かったら…君も参席して欲しい。この周公瑾、君の為に奏でる」
 そう言われても、その時は直ぐに返事が出来なかった。

 憧れだけで倖せだった相手に、更に近づいていく事が怖かったから。


 同じ日の数刻後、再び寿春。
 町は静まり返っていたが、袁術の高殿からだけは明かりが煌々と焚かれている。
 
 主宴会場から離れた通行口の壁際にもたれ掛り、独り離れて酒にも酔わず、かといって代わりに己の殊勲に酔い痴れる事でもなく座り込んでいる者が居る。
 真上の月を見上げ、気の抜けた猫の様にぼやく。
「帰りてぇー…」
 孫策だった。
 袁術の話によると今日は自分が主役の筈だが、酒など飲む気になどとてもなれなかった。

「若。お独りで酔い覚ましですか」
 その声に呼ばれてみると、年配だが父の古来の幕僚だった由縁で昔から馴染みのある顔。
 武芸も達者だったが学問の肌も持ち合わせ、以前から彼が一目置いて慕っていた漢。
「徳さん」
 程普、字(あざな)は徳謀。
 孫策の表情は相変わらず晴れていなかったが、心なしか彼と面を合わせ幾らか解れた様にも見える。
 父が亡くなって軍勢が袁術に吸収された後、面と合わせるのは久し振りだ。
「今日は若が主役なのでしょう?酒も馳走も伴わずに何故このような所で」
「…徳さんこそ、何で是処に」
 程普は、横で胡坐をかく。
「いや、私は…酔い覚ましですよ」
 恐らく今此処で『嘘だろ』と聞いたりすると、九割方嘘である。
 ふうん、と返しただけで再び黙り込んでいる孫策を彼は既に見抜いている。
「…若。何かしら独りで抱え込んだり、心中で嘆いたりなさらぬよう。この程徳謀で宜しければ聞き手に」
 年の功には見透かされてしまうらしい。
 少し静寂があった後、独り言のように返って来た。
「なあ、徳さん。親父が俺の歳の頃にはさ…もう自分の軍を持ってたんだよな。なのに俺ってこんなトコで居候なんかして何やってんだろ、とか思ってみたら」
―ふがいない。
「大殿の頃と今とでは世情も違う。人の下に就いて忍べばならぬ時もある…若、あまり気負いなされませぬよう」

「でもさ、…いつまでも袁術んトコで下積みだけってのはいけねえよな」
「いけないわけではありませぬが、…まあ、若の今後の為にはなりませぬな」
 その言葉は、この地に留まるべきでもない、とも取れる。
 直後、孫策が程普を見据えると皮肉っぽく笑っている。
「っへへ…なんか徳さんには、俺が何をしたがってるのか見抜かれてるみたいだぜ」
「私のみでなく、恐らく公覆、義公…他の面子も同じ事を申しましょう」
 黄蓋や韓当、次々に懐かしい名将・そして戦友の字を口にする。

 程普は細かく語らずとも、孫策に再び悟らせた。
 間もなく成人し、時が熟そうとしている。
 父の遺志を継ぎ、独り立ちするべきだと。
 征った先で民衆はずっとその時を待っているのだと。

「徳さん。聞くけど…もし俺が」
「私は若の通り道中で陣取る賊を平らげ、目的地の到着点でお待ち申し上げましょう」
 彼は、此処を出るとすればどうする?と聞きたかったのだが。
 言い終わる前に返事が返って来た。
 さすが話が分かる、と背中を叩くと程普は更に何か続けて言いたげである。
「若。…やはり呉景殿の居られる江東に」
「ああ。妥当だろうな」

 一方宴会場では、袁術の独り舞台な浮かれ咲きを、途中退出した孫策の代わりに粛々と見守りながら酒を飲む兪河が居た。
 退出時、浮かない表情だった主人を気に掛けながら。
 明日この一部始終を報告すべく、袁術やら側近の戯言を耳に入れていたが、黙って飲み続けていたので流石に若干の酔いを感じたので茶に切り替えようとした。
「…あ、どうも…」
 茶を注いでくれた隣の男に何気に目をやると、これがまた孫策とあまり歳変わらぬ若者。
 漆黒の長い髪は後ろで束ねられ、伸ばした背筋を曲げる事はない。
 どうやら酒は一滴も口にしていないらしい。
 兪河が名乗ると、とうの昔に存じ上げていると言う。
「貴公、袁術殿の」
 頷いたので名を問うと、汝南細陽出身の呂範、字は子衡という。
 切れ長の目先を見ると、真正面に酔い潰れてもとの顔色を忘れた袁術。
「孫策殿も哀れなお方だ…あんな男の下では本来の力一分も振るえまい」
 ぼそりと吐いたその呟きを兪河は聞き逃さなかった。
 周りに悟られぬ様、目線はそのままで両の手を合わせ問う。
「呂範殿。突然申し訳ない…尋ねるが、貴公はその方を率直にどう思われる」
「今申した通り。愚者に飼われて仕舞ったが為に、暫し伏せるを余儀なくされる猛虎」
 虎は檻の外に出るべきだ、と。
 兪河は我が耳を疑った。
 てっきり袁術に心酔とばかり思っていた男が、我が主孫策の大局を読み上げている。
 宴会たけなわが幸いし、二者の会話が漏れる事は無い。
「…では呂範殿。虎を檻から出す術をご存知か」
 頷きはしなかったが、一度茶を含んで口を開いた。
「まず私の部下の100人余の壮丁、ご希望ならお貸しします。あとは孫将軍の亡父、孫堅殿の兵が袁術殿の下にあるので、それも借り受ける…三千にもなれば独立遊軍となれましょう」
 それは彼が以前より孫策の人物を評価し、従うを望んでいる事を示した、
「呂範殿の兵が若に…有難い。しかし、袁術殿から簡単に兵を譲り受けられるものでしょうか…」
「…まあ、あの男はそう簡単には兵を手放さんでしょう。そこで質草で目を眩ませる」
 彼の案は妥当だが、兪河は、果たして孫策が袁術に抵当に出せる程のものを所持していただろうか…と考えを巡らせた。

「…あ、」
 何か思い当たるものがあったらしい。
 その表情を横目で見て、呂範は微笑する。
 
 この晩孫策が程普と談合した後に帰宅すると、弟は待ちきれずに既に机で寝に入っていた。
「(……ごめんな)」
 薄い布を掛けてやった後にもう一度戸を開けて外に出ると、月明かりが光を増している。
 ふと、生前の父と出陣中に見上げたのも似たような月の大きさだった、と思い出す。
 あれから驚くほど早く時が過ぎてしまったかのような気がするのに、空だけは変わらない。
「…親父」
 返事をする事もないのに呼びかける。
 すると後ろに小さな人影を感じた。
 何刻にも関わらずお帰りなさい、と声を掛ける。

「仲謀…ただいま、って悪ィ。起こしちまったか…っはは」
 孫権にちゃんと晩飯は取ったか、と聞くと今晩は向かいの医者の爺さんがご馳走してくれたらしい。
「…私より兄上は、」
「俺か?いや、宴会つってもなんか場所が場所でさ、あんまりモノ食う気になれなかったぜ。なもんで今すげえ腹鳴って…まあ、明日たらふく食うわ」
 寝る、と言って家の中に入ろうとした孫策だったが、それを聞いて孫権は部屋の明かりを点け始める。
「え、何で明かり入れてんだ仲謀?もう寝るばっかだってのに」
 不思議がる孫策をよそに、孫権は竈(かまど)まで走り、黙々と何か混ぜている。
 運ばれた碗を覗くと、先程まで火が入っていた雑炊なのか、まだ温かい。
「兄上、お休みになる前に何かしら食べて、お薬飲まないと……」
 廬江から戻って以来、心なしか気疲れが続いていた今の彼にとっては、弟の心遣いが有難かった。
 自由が利く片腕で拝む。
「…うめ……!」
 腹が満たされて明るさを取り戻した兄を嬉しそうに見ていた孫権は、急に昼の出来事を思い出した。
「そういえば兄上、きょうお客様がうちに…これを持って」
 見てみると、仰々しい文の書かれた覚えの無い小さな紙袋。
「何だ、こりゃ」
 袋の口を広げ覗いてみると、薬草を丸く固めたような茶色いものが一つ転がっている。
 掌に開けて指先で触ってみたり、匂ってみたりするが、漢方の様な香りがする以外は何も特徴が無い。
 彼が今服用している傷薬は白い粉薬なので、その類でもない。
「仲謀…何だろうな、これ」
「…何でしょう…」
 孫策はやはり覚えが無いので、それを元に戻して孫権に向け首を傾げる。
「…やっぱわかんねえな…お前、そいつの名前聞いた?」
「あ。」
 聞いていなかったどころか、自分も名乗っていなかったことを思い出し口を開けたまま固まってしまった姿を見て、思わず笑みがこぼれた。
 あまり自分と歳の変わらない少年だった、とだけ。
「っへへ、まあ、いいや。仲謀これ、厠のついでに薬箱にでも入れといてくれ」
 孫権が厠に行ったのと入れ違いで、彼の怪我が再び疼き出す。
「…つっ、また」
 隠しているつもりは無いのだが、弟の前で怪我で痛がる表情はどうも見せる気になれない。
 寿春に戻って以降、魔物が棲みついてしまったかの様に、実は肩が全く上がらない。
 不思議なもので、廬江で喬の柔肌に触れていた時は負傷直後でも何とも無く腕の自由が利いていた事が今となっては信じられない。
 気分が冴えないのはその所為でもあった。
「ちくしょう…しっかし、痛ぇ…」
 思わず反対の掌を傷口に押さえつけた直後だった。
「…あれ」
 瞬時にして痺れていた肩が軽くなった。
 思わず幾重にも巻いていた包帯を毟り取る様に外してみると、たった今押さえた部分の赤みが、まるで掌をかたどったが如く引いている。
「え…何で」
 孫策は目の前の現象が信じられず、もう一度掌で怪我の箇所を抑えてみる。
 もう一度離すと、傷はもう跡形も無い。
 そして掌には、あの名前聞かずじまいだった少年がくれた漢方を転がした跡の粉。
「は…!?」
 慌ててまたその手で肩に触れる。
「兄上、如何なされました」
 厠から孫権が戻ってみると、兄が包帯を外して肩を押さえたまま驚いた表情をしている。
 そして耳を疑う事を言う。
「仲謀…なあ。俺の怪我、治っちまった…」
「…えっ!」
 驚いて手を外してみると、昨日まで、というか今の今まで完治しきれずに膿みかかっていた矢傷の跡が治りかけの黄ばみを残して綺麗に無くなっている。
 腕を真上に上げてみたりするが、以前の様に回す事が出来る。
 ほぼ完治した、といっても過言ではなかった。

 嬉しい事ではあるがまさか、あの謎の贈り物に触れただけで、というのか。
「仲謀…何でだろう」
「…何故でしょう…」

 顔を見合わせた時、今日来訪したらしい謎の人物を何となく想像だけで思い描いていたが、弟と歳が変わらない自分を知る12歳頃の少年が一人頭中をよぎっても、今回の事と結びつかないので彼は別の方向を見やった。
(…まさか、なあ)
 まさか、年齢は該当してもあの陸議ではあるまい、と。

 翌日から、孫策は武具を着用して出殿する事が可能になった。
 そして更にこの数日後、四診院を出ると同時に彼の一軍は『孫策軍』として袁術、そして寿春からも離れる事となる。






---続---