短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」十五


 194(興平元)年二月末、曲阿。
 寒梅もまだ蕾の芯しか現れないが、この日は何故か風が無いので寒くはない。
 そして馬や鶏は戊更(明け方四時過ぎ)には目を覚ますというが、この日はそれより早く目を覚ました者が居たらしい。
 家畜の世話をするにしてもまだそれらは夢の中で、動き出してもいない。
 どうやらその為に起き上がったのではないらしく、厩を通り過ぎ、気持ちに重い物を引き摺っているかのような表情で家の塀と道の間の叢の間に出来ている窪みに座り込んだ。
 その姿は少年で、「起きなければ」という様な義務感などで目を覚ました、というわけでも無く。
 孫権だった。
 思い詰めた表情で暫く下を向いて。
 生まれ持った顔立ちに反して、気は年中穏やかだったが、今この時だけは様子が違う。
 前日誰かに怒られたという事も無く、悪戯もしていないというのに。
 折角実兄がつかの間とはいえ、久し振りに家に戻って来たというのに。
 彼の兄孫策は父親亡き後に一時期母親の弟で丹陽太守・呉景のもとに身を寄せ、機縁を掴んでは江南で人材を集めていた。
 しかし、元々父との兼ね合いも有り、その兄を嫌っているふしの有った徐州牧・陶謙が、最近になって呉景とも微妙に亀裂が入ったらしい。
 そこで呉景は事を荒立てぬ様、彼が亡き孫堅の部下の殆どが身を寄せていた寿春・袁術を頼って行く事を許した。
 江都や丹陽を転々としていた孫権らが、父の墓の有る曲阿に戻って来れたのはこの兄のお陰でもあった。
 袁術の配下に入った孫策は懐義校尉の肩書を与えられ、しょっぱな丹陽の賊徒頭・祖郎を征伐に行かせてみるとそれを捕え、堂々凱旋して戻った。
 (しかもこの祖郎、後そのまま彼に仕える事を選択したらしい)
 これに気を良くした袁術は、孫策を傍に置くと『使える』と思ったのか、至極彼の事を気に入ったらしく、今後も活躍の場を保証してやる、と言ってのけた。
 
 兄はまだ戦の傷も癒えぬようなこの忙しい合間を縫って、つかの間の休息を曲阿で家族と過ごすことを選んだ。
 孫権はその事を家族の他の誰よりも負けず喜んでいたので、今こんな沈んだ表情になるのはおかしい事。
 「………」
 膝をぎゅうと抱え込んでその中に顔を沈ませようとしたが、背後からの声でそれは阻止された。
 「お前、今日は馬の世話にしては起きるの早くね?」
 声の主は分かっていたが、見上げると更にその上から顔が覗き込んでいる。
 曲阿の新家は寝台が少ないので、先程まで団子状態になって隣で一緒に眠っていた孫策だった。
 「…あの。兄上も今日はお早いのですね」
 「いや?」
 孫策は弟のそれを聞くなり鼻で笑った。
 「だってお前、夜の便所にしちゃあ長えんだもん」
 この兄は、こういう場合“お前が戻らないから”だの“心配して”だのといったような直接的な表現は一切使わない。
 孫権にはそんな兄の言葉遣いを昔から心地よく感じていた。
 「私、兄上を起こしてしまいましたか、…すみません」
 凱旋したとはいえ戦帰りで身体的に疲弊していたであろう、そんな兄の気をもませたのではないかと危惧したから。
 それに対しての返答は無かった。
 今のところ弟に自分の事を気遣ってもらうなど眼中に無かったから。
 「…仲謀お前、何考え込んでる?」
 彼は背中から自分を抱き締めてくれていた。
 仕草ははっきり言って兄の方が幼いが、そうしてもらった事で少しばかり気が安らいだ。
 実は、先程から孫権は我が身を抱き締めたりしていたが、自分で自分を抱え込んでも気休めにしかなっていなかったから。
 「あの…怖い夢を見て仕舞ったので、また眠るのが怖くなって…」
 「うん、そっか。どんな…?」
 
―この時孫権は思い出した。
 かなり昔の、下の弟たちが生まれていない頃になるが、今と同じように兄が背中を抱き締めてくれた事があったのを。
 親に内緒で可愛がっていた野良の仔犬が死んだ時に、その小さな墓の前で。
 尻から根でも生えたかのようにその場に座り込んでいた彼が、取りとめも無く淡々と話し続ける何ら面白みの無い思い出話を、孫策は背中を暖めながら黙って聞いていた。
 それこそ、孫権自身が話し続ける事を厭きるまで。

 話が終わった後、先程の“彼の尻から生えていた根”は自ずと地上から離れた。
 孫権はその時初めて死んだ仔犬を思い出として受け入れる事が出来た。

 何も語らず昔の回想なんてしていたら夜が明け始めた。
―あの頃から私は、何も成長していないのか。
 情け無いと思う反面、もう少し兄に背を温めてもらおうと思った。
 「いいから。怖い夢、俺に話しちまえよ仲謀…な?」
 孫策はその後暫く待ってみたが彼が一向に言い出さないので、今度は“どんな夢を見たのか当ててやる”と言った。
 言い出さないのは弟の性格上我侭ではないとは分かっていたし、大体の見当もついていた。
 恐らく悪い夢だろうと。
 人が善いもんだから話そうとせず、話さなければ恐らくこの弟は今晩も眠ろうとしない。
 目を合わせようとしないので大体察しがついた。
 「んじゃあ、…俺が怪我でもしちまう、とかな?」
 その次の瞬間、孫権が氷水でもかけられたかの様な驚いた表情でこちらを振り返った。
 共有出来たので彼は少し安堵した。
 「へへ…当たらずとも遠からず、か」
 「…兄上。あの、どうして」
 聞くより早く、彼は弟の肩の上に顔を乗っけて来た。
 「そんなん分かるって。俺たち、何年一緒にいたと思ってんだ」
 察されて、孫権は洗い浚い話し始めた。
 彼の先程の夢の中では孫策の右肩が弓で射られ、気を失いその場に倒れたらしい。
 「私こんな、兄上にとって縁起の悪い事…すいません」
 しかし、それを聞いても夢の中で縁起の悪い事に成る予定の本人は別段気にする様子も見せない。
 当の本人には、目の前でしょげられている方が縁起が悪いらしく。
 「仲謀、イイ事を教えてやるぜ」
 何やらその耳元で一言二言呟いた直後、孫権の表情が急に明るくなった。
 「え…本当に!?」
 「おぅ、だから全然悪い事じゃねえ。逆にお前は俺さまにいい事をした。安心したろ?」
 これでまた自分も弟も思う存分二度寝が出来るだろう、と安心したのも束の間。
孫策はこの場に居合わせたお陰で、次々に起き始めた馬の世話を始めた孫権を手伝う羽目になった。
 
 別に孫権に大した事は言っていない。
 ただ、 ―“悪い夢は直ぐに人に話してしまえば実現しない。
楽しかった夢は三日三晩秘密にして、それから人に話せば実現する”と一言だけ。


 その同じ頃廬江の御所一角で、“阿議”こと陸議は執務室に呼ばれる様な胸騒ぎがした。
 「、…今日は早いんですね」
  戸を開けると、陸康の机卓の上に一つだけ書巻が置いてある。
 先日までは見る目も覆うほどに部屋全体散らかっていたというのに、他は一切合切書棚にきちんと納められて。
 陸康はこの一室の中央の机に着き、心浄らかにして瞑想に耽っている。
 「、どうしたんですか」
 何遍か呼びかけられ、男はやっと眸を開いた。
 「…あぁ。阿議か、早安」
 「朝からどうしたんです、目なんて閉じちゃって。…私は朝の挨拶の前にそれをお聞きしたいんですけど?」
 陸議が机の上に手を置いて、小憎らしく覗き込んで目を合わせた瞬間、驚いた。
 養父と長く過ごした中、彼のこんなに穏やかな表情は見たことが無かったから。
 「なに、今までの日を振り返っていたのだよ。今日の日まで執務に感(かま)けたのを理由にして昔なんて、思い起こす事も無かったからね。」
 「過去だなんて…仕事一徹のらしくないですね」
 目で微笑した後、陸康は職務やらに全く関係の無い話をとりとめも無くし始めた。
 「…少しばかり後悔もしているよ。お前が小さい頃や公紀、子璋ともっと遊ぶ時間を作れば良かった、とね。…大きくなってからこのような事を考えても、もう遅いんだがね」
 陸議は彼の思い出話に頷きながら、心もと段々不安になって行った。
 過去をつらつらと思い起こすなんてまるで寓話の“別れの場面”みたいじゃないか、と。
 話の境にしじまが出来た時に窓際を見ると、養父が飼っていた筈の夜鶯が居なくなって篭だけになっている事に気がついた。
―逃がしたんだろうか。
 陸議は、次に陸康が話す台詞が一層怖くなった。
 「―阿議、」
 はい、と返事するだけが精一杯だった。
 陸康は目の前の少年の掌に、先程大事そうに据えてあった一巻の書を無理矢理握らせた。
 「お前なら、家族と陸家を守れるな?」
 続きは声で聞かなくとも。
 この先、私に何事かあったら。
 私が居なくなったとしても。
 議の頭に、この同時に鈍痛が走った。
―何て事を言っているんだ、とも思った。
 「、やめて下さいよ…そんなさみしい事」
 陸康にはその見詰め返す陸議の視線に、これまでとは違う力強さのようなものを感じた。
 大人の世界に関わって行ける年齢ではないが、世相を義父の側面から見ていた彼は何も知らぬ子どもでもない。
 義父の何らかの力になって行きたいと思えるようになった矢先であった。
 
 しかし陸康は、淮南・寿春の袁術との中立関係を維持する事がこれ以上は困難、しかも攻撃を仕掛けられることも懸念していた。
  少し前袁術が南陽郡に就いたばかりの頃は民に重税を取り立てたと聞くが、成金にのしあがった上にそこそこ話の分かる人脈も付いて来た現在、彼の欲するは土地と経済復興、故に廬江の民の生活はそのまま保証される。
 廬江太守の自分と、その家の者を除いて。
 それを覚悟した故に陸議には一族の元の故郷・呉郡呉県に、廬江に居る自分以外の一族を率いて向かうように、と告げた。
   息子の幼い績よりも年長の議の方がその役に相応しかった。
 しかもそこらの大人よりも、この少年は世の動きに精通している。
 「なに…汲々の話ではないのだ。ただそうなる可能性があるやもしれないから一応頭に入れておいて欲しい、というだけだよ」
 従祖父はそう微笑を含んで話すが、言われた本人は言葉のつまりを聞き取ってしまい煮え切らない思いだった。
 いずれにせよ、義父とはいずれ悲しい別れをせねばならないかもしれないのだ。
 陸康を心安らかにさせる様聞き分け良く眸で頷いたが、
 その後、陸議は部屋に戻る途中独りで泣いた。
…。何故、今は乱世なのでしょうか。


 寿春の辺りは後漢末は九江郡と呼ばれ、新しくは淮南とか、口語では今も九江と呼ぶ者も居る。
 その寿春の街が一望出来る、都市特有の幾つもの直線的に交差する路の中心に袁術の高殿がある。
 当然の話だが、元々袁術のものでもなく、彼が指令した建造物でもない。
 もと揚州刺史(知事)の陳温を倒してそこに居座っただけの話。
 しかも九江郡に来たそもそもの理由も、曹操の持っていた陳留の地を攻撃したら、反撃されて敗走した後に選んだ地だった、というだけである。
 更にその前は北西の人口数百万の豊かな都南陽郡に居て、そこでは重税を取り立てて民を貧困に落とし込んだ。
 もっと遡ると、その南陽郡に来たのは当時皇帝廃位を企てた董卓と関わり合うのを避けるためであり、南陽郡の刺史・張咨が、当時北上途中だった孫堅が討ち取られたばかりでその座に空きがあったからである、と逆に見ていってみるとこの男には都合の良い事ばかりが重なっている様にも思える。
 「…若。一体、あの方をどうお考えなのですか」
 「…袁術のことか?」
 孫策は呼ばれた方に一瞬だけ目線を向けた。
 兪河は、孫策が『あの』袁術に妙に可愛がられているのが面白くもあり、少しばかり不安でもあった。
 何故なら。
 袁術と云う男の、孫策の様な若く精悍な若者を見る時の目付きに、いささか男色のきらいを感じていたからである。
 それは兪河だけでなく、周りの者達からの目にもそう映った。
 例えば彼が以前務の事後報告にと謁見に赴いてみると、あの男は台座に近付いて来るのを目に入れるなり狂喜して立ち上がって抱き着いてみたり、腕やら顔やら、臀部やらを執拗に撫で回した。
 『吾輩、伯符の様な男が傍に居って呉れれば、何時死んでも悔いは無いのだ』
 そんな事を言いでもした場合でも側近に「御子息としてですか」などと補注を付けられて一応納まってはいるが、何度申してもあの男は独りで事を興すには危険であった。
 加えて腹の裏で何かしら自分に都合の良い事を企んでいる様にも見えるし、従兄弟の袁紹と仲違いしていたのも引っかかった。
 「…まあ、はっきり言ってヘンだし、気持ち悪ィけどな。なんだが、完全に悪人てワケでもねんだろうぜ」
 そんな男に興味を向けられる当の本人は余り深く考え込んでいる様子も無かった。
 御都合主義な面や我侭な部分もある事はある程度見抜いてはいたが。
 彼にとっては好事家だろうが世間的に悪だろうが何だろうが、自分に悪意を向けてくるとみなされる生物以外は簡単に嫌いにはなれなかった。
 
 「私ならば恐らく従わない…寛大なお方ですね、若は」
 「…え、悪ィ。何か言ったか?聞こえね…」
 馬の蹄の音は、このような静かな宮殿などでは必要以上に大きい場合がある。
 「いえ、何も」
 若がその様にお考えであれば構わないのですが、と兪河は心の中で付け足した。
 
   
 袁術は彼が戻って謁見に来たと聞き、今度は広間の入口まで出向いて待っていた。
 「嗚呼伯符!吾輩、今日はそなたが来てくれて何も食べずとも良い」
 先程まで“気持ち悪い”など言っていたが一変、穏やかな微笑で顔を合わせる技を孫策はここ最近で覚えた。
 「…我が頭首。今回から通行証提示免除にまでさせてくれるたあ思わなかった。感謝します、荷物が軽くなったぜ」
 そんな嬉しいらしい事を言われたものだから益々袁術は上機嫌になって、一礼する彼の拳を握って頬擦りした。
 周りの側近やらの引く目も気にせず。
 兪河などにはそれが滑稽にも見えた。
 
 「で、頭首。今日俺を呼んだのはまた指令のひとつでもくれるわけで?」
 孫策も呼ばれた要件だけは先に済ませようと思ったので率直に聞いたところ、彼より背の低い袁術は色目で商売する女の様な仕草で顔を見上げて来た。
 「西隣、廬江の陸康。あれが少し目障り」
 囁かれたのは知っている名前だった。
 「…陸康?」
 眉根を寄せたその顔に『知っておるのか』と袁術は聞く。
 「あの男、この袁術の徐州攻略にちぃとも加担せぬ。あれを除いてくれれば吾輩、伯符を廬江太守に置きたいと希望するが、どうか?」
―廬江太守。
 今まで期待などしていなかった男から思わぬ言葉が出た。
 「…廬江…」
 
 世の動きには全く関係の無い私情だが、孫策が以前からあの地に思いを馳せているのは事実である。
 喬が居る。
   今では“廬江”という字を見かけたり仕事で聞いたりするだけで、他の地とは違う感情を抱く。
 その廬江が、冗談か本気か分からぬが現太守陸康を除く事で自分に一歩近付く。

 「…しかし頭首。前、俺を九江太守にして下さるっておっしゃったの、あれチャラに
されましたよね」
 以前、幾つかの功績をあげた孫策に袁術は九江郡の太守の座を約束したが、それを別の配下陳紀に明渡し、反古にした事があった。
 「だってあやつ、九江南丹陽出身で執念深い。後々伯符に要らぬ妬きが回ったら可哀想に思うて」
 「あー…はいはい。解りました」
 取り繕った言い訳が聞きたいわけではなかったので聞き流し、孫策は早々に話を進めてこの場を立ち去った。
 
 (…場所的にあそこ、大人しかったしな。普通に攻め込むか…)
 仮屋に戻る途中、前に廬江太守の御所で自分を穏やかに門前払いした、あの少年のことをぼんやりと思い出しながら。



 “廬江で、魯粛に会った。元気そうだった”
 孫策が昨年末頃に書いたたった一文の書簡が、この日やっと周瑜の元に着いた。
 値の張る紙を態々買って書く気も無いらしく、欅の木の板に墨で走り書きしてあった。
 しかも伝令や伝書係というような正当なルートで渡って来た物ではない様で、最初この書簡もどきは何故か魯粛の所に行ったらしく、魯粛が補注を書いてその紙で包んである。
   それが続けて丹陽の役人の宿舎まで荷を運ぶ予定の商人に渡って、その商人がその場所まで行けたは良いが、間違えて同じ『周』と云う姓の違う人に渡してしまい、今日やっと周瑜の手に渡った。
 こんなにぼろぼろになって巡り巡って何故捨てられもせず自分の元に渡るのか、彼は不思議でしょうがなかった。
 今年に入ってから書いたらしい孫権からの書簡の方が随分と早かったので余計に可笑しかった。
 (廬江か…)
 孫策からの文では彼が廬江に行って魯粛に会った、というだけのことが分かった。
 更に魯粛からの便りでは、孫策が袁術の元に直行せず呉景の元に居た事を知った。
 そして孫権からの書簡で、彼が袁術に身を寄せて戦功を挙げているという事を。
 
 袁術は恐らく、今後廬江を標的の一つに入れて行くだろうと周瑜には大方察しがついた。
 (一遍、近いうちに魯粛殿や孫策に会っていた方が良さそうだな)
 実はお互い直ぐに返事を出す性格というのが功を奏したのか、孫権とはまめに手紙のやり取りをしていたので、次に彼の兄の事を書いたら喜ぶだろうと思ったから。

 周瑜は取り敢えず、最初に魯粛に返事を書く事にした。

 皖の時間は午後を回っていた。
 「しっかしこんなの書簡に折り込むなんて、粋な事するねえ」
 魯粛は独り言のようなのを呟きつつ、従姉妹の部屋の戸を叩いた。
 「はぁい?」
 目の前に丁度花が開いた寒梅の枝を差し出され、小喬は大喜びした。
 「うわあ、粛兄様びっくりした!もう咲いてた!?きれー」
 「…いや、うちの庭のが咲くのは、まだ10日ぐらい先かな」
 予想外の答が返って来たので、渡された枝をきょとんとして見詰める。
 「え、じゃあこれどこの…でも咲いてるよ?」
 「丹陽だよ。君の部屋の一輪挿しに差しておやり」
 早速薄紅色が加わった黄色い一輪挿しを窓際に移動させて振り返りながら笑った。
 「粛兄様って、お友達がいっぱいいていいよねー。こんなお花もくれるし」
 丹陽、という地名を言っただけでは贈り主に気付かないらしい。
 「君のお友達でもあるけど?」
 「えぇ?…兄様の友達で、あたしの友達…」
 小喬は『そんな人いたっけ』と言いそうになったが、思い当たって大慌てで顔を袖で隠した。
 「一本しか入ってなかったんだけどさ、君が前に周瑜殿に何か覚えてないけどあげてたから…大喬には後で言っといてよ」
 部屋から遠ざかって行く魯粛の背中から慌てて声をかけた。
 「そうだ、粛兄様!さっきからお父様が捜してるんだった!」
 「私をかい?わかった。有難う」
 
 喬公の部屋に言ってみると、彼はその通り魯粛に話したい事があったらしく、急いで寄って来た。
 「叔父さん。何かありましたか?」
 聞くとこの地、廬江の太守が今日捕えられた、と。
 通常ならばこの事実の方が大なのだが、直接政に関わらぬ喬公はそれを単なる節目のひとつの様に思っているらしく、次の話の方が重要らしい。
 「郡の臨時公安から依頼があってな。その戦で負傷した兵が何人か動けぬ様で、太守御所に近い私の物資蔵庫に空きがあったので、敵味方区別がつかぬ状態だったがそこに暫定的に移したらしい。近日救護班を派遣する、と」
 臨時の場所として提供を求められるのは当時、広い土地や施設を持つ豪族の性である。
 街に負傷兵があぶれて治安が乱れぬ様、行政部の苦肉の策のようでもあった。
 「御殿で命令する者は戦には出ない。兵士が多く傷つくのを知らない…悲しい話ですね」
 魯粛は同時に、太守が不在となり“廬江が荒れる”とおぼろげに感じ取った。
 しかし、世の流れを見る前に先にしなければならぬ事があると知っている。
 「叔父さん。その公安派遣の救護班が来るまで荒療治ですが、私が負傷兵を看ましょう」
 
 そう言って喬公の部屋を出ようとした魯粛の目の前に、誕生日を過ぎて少しばかり落ち着いて艶の出た喬が、戸を開けて入って来た。
 褐色の小さい壷を抱きかかえて。
 「おぉ大喬、あったか!丁度良い、粛に渡してくれ」
 話がまだ分からない魯粛の手に、喬はその壷を手渡した。
「私が前買った傷薬です、粛兄様。何回か使ったんだけれど凄く良く効くみたい。…持って行って」
 「へえ。そういえば大喬はこういうのに詳しいんだったね」
 遠慮無く厚意を受け取った魯粛は、部屋を出る直前に喬公にある事を聞いた。
 「叔父さん。廬江太守殿を捕えたのはどなたか、公安から伺ってますか」
 その辺りはあまり感心を込めて聞いていなかったらしく、申し訳無さそうに首を傾げた。
 「すまん…正確には誰か聞いておらんが、確か寿春の袁術配下の者だと」

 (まさか…)
   声にもならぬような呟きをした後、魯粛は喬公の方を振り返った。
 「叔父さん。大喬をお供に連れて行って良いですか」
 喬はただ薬を提供しただけであったつもりが思わぬ事を言われてどきりとした。
 何故、と聞く喬公に苦笑して答える。
 「私、部屋で本呼んでばかりなので怪我したことがあまり無くて、湿布の仕方知らないんですよ」
 「いや、それであったら連れて行くのは、別に大喬でなくても」
 喬は魯粛が急に自分を同行させたがる様になったのか分からなかったが、負傷兵の手当てをする事は悪くないと思った。
 彼は尚も喬公に説得を続ける。
 「叔父さん、ここの家の使用の皆さんは赤の他人の手当てなんてしたがりませんよ。しかも薬の扱いは大喬に聞いた方が詳しい」
 「しかし…血腥い場に年頃の娘をやるのは、なあ」
 そう言ってちらっと娘の顔を見たが、同意を得るどころか逆の反応をされた。
 「あの…お父様、私は大丈夫です。小喬の転び傷の手当ては私がしていましたから」
 そして直ぐに消毒液と包帯を準備すると、早々に馬車に乗り込んだ。
 小喬が転んだなどという些細な傷など今回とは比べ物にならないだろうが、喬公が反対する場は既に何処にも無かった。
 「お姉ちゃん」
 馬を走らせようとした直前に事情を知った小喬が走って来たので、身を乗り出した。
 「小喬。わたし、負傷兵の方の手当てに行って来るから。淋しくさせちゃうけど…
お留守番頼むわね」

 行く場所が場所なだけに、『一緒に連れて行って』とは言えなかった。
―お姉ちゃん、やっぱりあたしなんかよりも、ずっとしっかりしてる…。

 「思ってたよりも結構落ち着いてるか…」
 半刻ほど走っただろうか。
 収容所と化した場所に着いた魯粛は、見渡した後少々安堵した。
 そこには大した重傷者も居ない様子で、腕やらに包帯をした兵士が四、五人井戸から運ばれた水を飲んでいた。
 恐らく、鎧を見る限りは袁術軍と陸康軍の護衛兵が半々。
 談笑なんてしている。
 「怪我人は、貴方方だけかい?」
 その中のひとりが、この場所にいる負傷した兵は我々だけです、と比較的元気そうに話した。
 「…こりゃ、救護班必要無いな。じゃあ…えぇと、済まないが叔父さんに先にそれだけ伝えに走ってくれないかな」
 別の馬で来た魯粛の付き添いにその伝令を渡し、早馬で先に帰らせる。
 喬が薬で手当てしてやると元気になったらしく、もう間も無くこの場から出立する予定だ、と話した。
 袁術軍は寿春に戻り、陸康軍の兵は一旦郡の公安部に集められるらしい。
 魯粛が喬公の慌て振りを思い出し笑い始めた時、その中の一人が付け加えた。
 「ただ、廬江太守の御所の中にまだ…」
 「若しかして、いるのかい?怪我人が」
 「いや、一人だけ…」
 傍で聞きながら喬はまだ負傷兵が居る事に胸を痛めた。
 「と申しますか、袁術軍側の総大将の姿を見た者がいないのです。先に戻ったかもしれないとも聞いたし、太守連行に同行したのではと言う者もいるし、或いは大怪我をして其処から動けないらしいという話も聞くし」
 総大将が見当たらないとはどういう事か。
 「なもんで儂等、戦終わっても大将見てねえし、戦自体終わった感じがまだしねえんです」
 「我々下っ端は人伝で未確認の話しか聞けませんので、何とも…」
 全て曖昧だった。
 話を聞き尽くした後、魯粛が難しい表情になった。
 この場の負傷兵たちは無事で話は一件落着と思っていたが、更に続きがあったとは。
   「…一度太守殿に行ってみるか…、動けないような怪我人が転がってるかもしれない」
 喬も同行を選んでいた。

 もと廬江太守の御所に行ってみると、尚更ひと気は無かった。
 しかし、馬から下りて番さえいない門をくぐろうとした魯粛の前の方から、少年が歩いて来るのを見た。
 誰か来るのを待っていたらしい。
 門口の隣を見ると、荷を一つ二つぶら提げた馬が繋いである。
 「…えっと、君は…」
 魯粛がその少年と目を合わせようとすると、彼は目の前で止まって一礼した。
 頬に泣いた跡がある。
 「私ですか。前廬江太守・陸康の養子(むすこ)です」
 陸議だった。
 そう言ってそのまますれ違おうとしたが、それを聞いた魯粛が慌てて彼の腕を掴んだ。
 そのまま何かを聞こうとしたが、掴まれた方から先に、簡潔に話した。
 「袁術軍の総大将のかたが腕を毒矢に射られ、倒れています。私が奥の間の床台に寝かせ、応急を施しました。私も急ぐので、すいません…後はお願いします」
 事実を聞いた魯粛は力のやり場に迷い、握る手が強くなった。
 尚も少年は一方的に話し続けた。
 「可笑しな話ですよ。最初義父が捕えられたので、総大将を名乗っていた彼に斬り付けようかと思ったんです。でも“弟に歳が近いような、お前みたいなガキと闘う意味が無い。そんな事をやらかす武器の予備が無い”とか言って…。私は、あの方に殺される価値も無かったらしいです」
 魯粛には返す言葉が無かった。
 陸議の立場だけを考えると、例え殺されても構わない覚悟で勝負を挑んで拒否されたのは、屈辱以外の何ものでもない。
 しかし、無闇に人を斬り付けることが許されるわけでもない事を通用させれば、総大将という男の逃げ方もある意味人道的手段である。
 相手の年が若ければ尚更。
 陸議はそれが分かっていたので、一層やり切れない思いだった。

 そして後この総大将は、陸議を狙った自軍の弓兵の毒矢をかばう様に受けて倒れた。
 しかもそれは袁術が後から刺客として送り込んだ弓兵で。
 そもそも今日の事を仕組んだのも、寿春の袁術という事も分かっている。
 だが袁術の様な小才など、最初から既にこの少年の眼中には居ない。


 「―私は貴方にそんな事をされて、一体誰を憎んだら佳いのですか!」
 激痛が回って気が遠のく中、絶叫に近い声が聞こえた。
 「…俺を…憎めばイイじゃねえか…」
 ようやっとそれだけ言って眸を開けようとすると、横で崩れて座り込んでいるあの少年が、ばらばらと涙を落としている。
「お前が…この先、力付けて強くなったら…俺を…殺しに来りゃイイじゃねえか…それが…お前の、生きてく糧になるんなら…」

 そう最後に言った後、男は意識を失ったらしい。


 陸議はこれから、元々の本家、呉郡呉県に戻ると言う。
 「恐らく…大事には至らない傷だと思います。介抱して助けてあげて下さい」
 彼はもう一度礼をして、傍の馬に跨った。
 「分かった。…でも、それは恨みのためかい?」
 「…分かりません。ですが、そんな感情的なものだけではないと思います」
 「そうか」
 魯粛は自分の懐に手を入れ、ジャラジャラ音のする小さい麻袋を取り出すと陸議に差し出した。
 「呉郡まで結構遠いしこれから大変だろうが、…頑張れよ」
 掌に触れさせると陸議は微笑した。
 その餞別に拒否はしなかった。
 「私一人でしたら絶対お断りするのですが、…実は先に義母と弟達、家族を待たせているので…使わせていただきます。
有難う御座います、礼はどのような形であれ、必ず」

 魯粛は遠く河を渡って行く陸議を見ながら、彼のような人間が廬江から離れるのを少し淋しく思いながら手を振った。


 先程馬車の中から二人のやりとりを見守っていた喬は、先に魯粛から“この御所の中の、一番奥の間に向かえ”と告げられて真っ直ぐ進んでいた。
 最初一人で行くのは躊躇したが、『眠ってるから大丈夫』と言われた。
 『薬を沢山塗ってやれ』とも言われた。
 建物の中は最初薄暗かったが、渡り廊下を隔てた先は柔らかい陽の光が差し込んでいた。
 穏やかな空気の中、時々誰のか知らぬ血痕が落ちているのが彼女には怖くもあった。
 (…ここ…)
 先ほど言われた通り奥の間に突き当たったのでその戸を開けた直後、喬は横たわっていたその姿を見た瞬間、抱きかかえていた薬壷を落とした。
 絨毯の上だったので壷は割れずにごろごろと転がり回り、何度も彼女の足元に戻って来る。
 眠っているその男の名を声にならぬような声で漏らし、その場に膝を折った。
 「…孫策さま…」
 彫刻の様な美しい身体に包帯を巻かれて横たわっていたのは、長く“逢いたい”と願っていた
あの男だったからだ。





---続---