193(初平四)年秋、樹木の葉の色の移り変わりが目立つ頃、廬江の地を治める男は横からのただならぬ圧力を感じていた。
この年、曹操が海沿い徐州の牧・陶謙を攻め、その地の十余の城を攻め落とした。 自分の治める地の真上をすり抜けてその先の地で領民十万人が抹殺されたという話を耳に入れ、如何なる妙技をするとこの短期間でそんな事が出来るのだ、と背が泡立つような思いだった。 考え事をしていたこの日の宵に夜鶯(ナイチンゲール)が美しい声で時を告げた時、実は書斎で肘を突いてうとうとしていたが我に返った。 彼の背に毛布をかけた男がそばに居る気配を感じ取った。 男、というよりは少年。しかも、血の繋がりさえ感じる存在といえる。 「diedie(父さん)、根を詰めて床に入るのさえ忘れては風邪をひきます」 「…阿議、か。すまんな」 正確には我が子ではなく、亡き実兄の息子である。 幼くして両親を相次いで失った少年を、この廬江太守(知事)は引取ってこの日まで、まるで我が子のように養ったのである。 名は議というが、当時子どもに対してはその漢字一字名の頭に「阿」を付けた。 “阿議”は、物静かながら聡明に成長し、更に幼い養父の息子や、自分の弟、そしてこの養父を常に思いやった。 加えて目を見張ったのが、この年齢にして国土の情勢を知りたがる勉欲の高さだった。 自分が広げたまま放り出していた書物を確かめながら直している少年にそれとなく聞いた。 「阿議よ。…お前、今年で歳は幾つになるんだったか。十二か」 「ええ。数え年で十二です、多分。…私も誕生日は分かりませんので」 そう言いながら彼は静かに笑みを見せた。 「。公紀と子璋は今日もいい子でしたよ、文字を20ぐらい覚えました」 「…すまんな。お前がしっかりちび達の面倒見てくれるので有難い」 公紀は名を績、この男の幼い実子。そして子璋は瑁、議の弟である。 「、明日もお早いのではないのですか?」 そう少年に言われて、男は何かを思い出した。 廬江の北淮南郡の都、寿春の袁術という男が、曹操と同じく徐州の攻略を見計らったらしく、自分に兵糧米三万石の供出を求めたのだった。 それと時を同じくして、最近東隣の揚州・丹陽郡の太守に任ぜられた呉景という男が、同じく兵糧の援助を依頼してきた。 明日の朝までに考えを決めてしまおうと思っていたら、考えたまま眠ってしまっていた。 しかも後者の呉景は、“数日中に返答を伺う使者をこちらに遣わす”とまで文書で伝えてきた。 決断に急を要する事に変わりは無かった。 「…阿議、」 何です、と言わんばかりに振り返る少年に男は口を開いた。 「聞くが、お前は、北の大きな山と、東の新しい山。…どちらが好きだ?」 「私ですか」 少年の視線が目先の書棚から高い天井に移った。 「…私は」 何気ないような内容に聞こえつつも、それを問う養父には深い含みがあった。 しかし、返答は即だった。 「、私はどちらでもありません」 その目先は、壁に開けられた風口から見える夜景に繋がっていた。 「私はこの家の目の前の、紅葉で真っ赤になった山がいちばん好きです。私がここに来たばかりの時…確か丁度この季節、が連れて回ってくれたでしょ。今だに覚えてます」 この歳で、知的で聡明に終始しているに見せておいて、やはり純粋である。 彼が子どもっぽくはにかむので、男も何か昔の思い出し笑いをしてしまった。 「…そうか、阿議よ。お前はどちらでもない、か」 「ええ。どちらでもないです」 太守というのは子どもの声だけで決断が出来るものではないが、少なくとも今迫ってくる二つの勢力、どちらにも屈する必要は無いのかもしれないと男は思った。 男は漸く重い腰を上げた。 ようやっと人間の生活に戻る気になったらしい。 「さあ。私達ももう眠ろうか、阿議」 この少年の前では晴れやかでいることが出来た。 一日中ずっと座っていたので、膝が痛かったが。 明けて早朝から、廬江の屋台街からは活気良く湯気が上がっていた。 行商人が行き交うその或る一角で、男二人が背を丸くして揚げ麩と白粥を啜っていた。 「しっかし、やっぱ食いモンがうめえなココは。水がイイのかな?」 ふたりとも地元人ではないらしい。 見た目、若い方が飯をがっついていて、年輩の方が食べ方は大人しかった。 「…そんなに違いますか。まあ…廬江は川沿いですから…」 「おう、違うって。違う違う。飯から違う。あー…伯海。俺、おかわりしてもいいかな」 そう言うが先か、先に話し掛けた方が碗を屋台の旦那に引き取らせ、嬉しそうに人差し指を立てた。 もう一杯くれ、とでも意味したかったのだろうか。 「駄目だとか言ってもきかないでしょう、貴方は」 「良く知ってんじゃねえか」 伯海、と字で呼ばれた方が年輩らしかったが、若い方に敬語を使っていた。 「肝が据わってると申しますか…若は良く飯が入りますな。これから廬江太守の御所に参じるというのに」 言った方のこの男は姓と名を兪河といった。 そして目の前で飯を貪り食っている男は、この朱治が彼がかつて長く仕えていた将軍の息子。 その将軍が自分をかつて字で呼んでいたのであったが、その父の傍で見ていた彼にも呼び方がそのまま伝染ってしまった。 “あの”孫策だった。 何故か、孫策がこの日廬江にいた。 「お前、食う?」 揚げ麩の残りを目の前に突き出されたが、どうやら兪河は緊張で胃が縮まっているらしかった。 「…い、いえ。私はもう」 返事を聞く前にバリバリ音を立てて食べ始めていた。 兪河は垂れ落ちた長い前髪を一遍かき上げた。 二人の課題は同じ筈なのに、深刻加減は両極端だった。 「…それにしても、若と私が直接赴いたところで陸康殿が兵糧援助に応じるかどうか」 「ダイジョブじゃねえかな?今確か廬江は戦やってねえし」 相変わらず楽天的に食べ続ける若造を前に失笑した。 「いえ…そういう問題ではないのですよ」 その直後、孫策の食べる口が止まった。 注がれた茶を勢い良く飲み込んだ後、今度は正面に食って掛かった。 「…じゃあよ、呉舅舅(おじさん)はどういうつもりでこの俺を遣わしたわけ?」 新しい獲物を見つけた虎の目線に似ていた。 彼の一度捕らえたら逃さないそれを受け入れつつも、兪河は慣れた様に笑った。 かつての主君に良く似ていると思いながら。 「若の、万が一の可能性に賭けたんでしょ」 そういえば、出立する前思い当たる節があった。 「はぁーん…面白ぇ」 孫策は一瞬眉を顰めたが、余裕で笑い返して立ち上がった。 「行こうぜ。…まあ、結果はどうだろうが、少なくとも陸康て人物を見極める事ぐらいなら出来るだろ」 兪河は頷いた後、馬に乗ろうとする孫策の背に問うた。 宿はどうするかと。 要件を済ませたら廬江を離れて、戻るか。それとも。 「そうだな…今日借りた宿があんだろ。あそこ、もう一日だけ借りとこうや」 同じ廬江省の首都より下った皖では先日から祝いの品が途絶えなかった。 名家・喬氏の箱入り娘の一人が数日後に一つ歳を重ねるとあっては、近郊の士が黙ってはいない。 しかし、名家の娘が齢17、8になる頃には、常に慎ましく振る舞い、人前に顔をむやみに出す事は許されなかった。 当時名があって男の前に顔を出せる年頃の女と言えば、舞妓ぐらいである。 歳十七を迎える喬もその例外ではなかった。 喬家の娘である以上、数日後には忍んでもみない限りは、陽の当たる街中には出られなくなる。 雅表現で言い替えると「虫篭の中の胡蝶」。 整然とした部屋の中に運ばれて来た品の送り主の誰とも顔を合わせないままだった。 この数日は自室の灯を赤い燈篭で覆うのが地方特有の慣わしらしく、家の者とも戸口越しにしか言葉を交わさない。 妹の小喬が一日に何度か部屋に入ってくる事はあったが、合わせる顔と言えば彼女くらいだった。 喬はその中のどれにも手をつけることも無く、ただ静かに二胡を奏でていた。 彼女が広陵の張紘の元よりこちらに戻ってから、かなりの日々が過ぎた。 正確にどの位の時期が通り過ぎて行ったのか、この静かな生活の中では知る必要もなくなってしまった。 ただ前に“あの男”と最後に逢ったのが、広陵で夏になる前の大雨が降っていた頃で、 そして今は紅葉が絶えず降っているから秋なんだろう、と。 奇しくも、広陵で自分の“心の中の一番大切な部分”を奪って行ったあの男は、あれから行方が知れなかった。 寿春か丹陽のどちらかだろう、と喬はここ最近でおぼろげには考えた。 (…孫策さま) 声を出して呼ぶ事も今はままならなかった。 もう、自分がどれだけもう一度逢いたいと願っても、それは叶えるべき事ではないのだ。 ―彼はいくさ人であるから。 自分と立場が違う、結ばれてもいない男を想うだけで胸が締め付けられるなど周りにとっては笑い種に等しいのだ。 確かに、自分からは一方的にあちらに結びついて離れてくれないとは思ったが。 しかしそうなったのは孫策が文士ではなく武人であり、自分が何度もか弱い状況に侵された時に“強さ”で守ってくれたからだ。 そう思い返すと、また喬は胸が痛くなった。 その時、女中が外から呼んだ。 「お嬢様。魯兄殿がお越しくださいました」 後ろを振り返ると、ゆったりした足取りが戸口の前で止まった。 魯粛特有の。 彼女の部屋には入らず、矢張り敷居を間にして話す。 「大喬。いっとくが今私は何も持って来ていないけど、君の誕生日の贈り物は一足早く叔父さんに預けたんだからね?」 彼の余計な先走りが余計な笑いを呼んだらしく、喬を微笑ませた。 「いいえ。そんな私、お気持ちだけで充分です。ありがとう粛兄様」 魯粛はいつもの様に笑ったあと、戸越しに視線をずらした。 「大喬。私は今日君のお祝いに来たものあるけど、これだけは伝えておこうかと思って」 「……?」 喬が寄った後、思いがけないというか、実は待ちわびていたというか、久し振りに第三者から彼の名前を聞いた。 「前に舒で逢った孫策殿だが、…まだ覚えているか?」 その名を聞いた後の、彼女の秘めたる胸の高鳴りなど魯粛には聞こえない。 「いま廬江に来てるそうだ。…私の予想だけど、今は恐らく親戚筋の丹陽太守呉景殿についているんじゃないかな?」 一筋縄では行かない様だが、いくさ場に出る事も多くなったそうだと言う。 しかも、今日街中に宿を取ってるそうだから、後で会いに行くと言う。 「どうだ、君も来るか?私から叔父さんに頼んでもいいし。誕生日前の最後の遠出、って事でさ」 だが喬は小さく首を振った。 この動作は今の彼女の本意に則してはいない。 「…粛兄様、私。……すみません」 しかし、男の顔が見たいというだけで未婚の女性が外出するのは、恐らく当時の世の本意に反する。 「気が乗らないか…まあ、別に気にかけなくていいよ。いや、君も孫策殿を覚えているだろうと思ったんで一応声かけてみただけなんだ。じゃ」 魯粛は笑いながらあっさりとそう言い流して、彼女の部屋を離れて行った。 喬はこの直後、“どうして自分は女に生まれたのだろう”、と思った。 「―待って、粛兄様!」 その直後、珍しく彼女が声を上げていきなり魯粛を呼び止めたので、彼は引き返して来た。 「―お、どうした?もしかして一緒に行く気になったか?」 「い、いえ…違うんです」 調子をつけて聞いて来たが、彼女は違う事を言って来た。 家の近くをゆっくり散歩したいから、自分の父に伝えて来て欲しいと言う。 今自分は家の中でも離れの方にいたので、父とは向こうから自分に逢いに来る以外は逢えなかった。 喬にとって魯粛は義理の兄に近いので、気軽にそんな事を頼む事が出来た。 実は今回が初めてではなく、以前小喬と買い物に行きたくなった時にかれに伝言を頼んだ事もある。 小喬に至っては恐らく、彼を義理の兄というよりは遊び相手と考えているだろう。 「いいよ?叔父さんに帰り際挨拶する時にでも、君が散歩するって言ってたって伝言しとくよ。いいんじゃない?今景色も佳いし」 「…助かります、有難う粛兄様。お願いします」 微笑んだ先の先、彩を変えて落ちて行く窓の外は喬を待っているかのようだった。 彼女が向かおうと秘めた先はあったが、まだ漠然としていたので誰にも伝えなかった。 秋の風景が見られる場所であればどこでも良かったが。 一方この日、朝早く廬江の中心から馬を走らせていた二つの影が漸く林道を抜けた。 「…結構、思っていたより距離がありましたね」 兪河が、前を行く背中に語り掛けた。 「おう。…しっかしここの太守ってよ、なんで街に住まねえのかな?よりによって何でこんな林ん中の郊外によ…」 顔半分だけこちらに向けて来た孫策は大雑把な疑問符を彼に投げかけた。 「恐らくこの、御所をこの場所に“最初に”建てて住み始めた太守殿の方針だったのでしょう」 後耳で聞いてふぅん、と鼻を鳴らした。 「確かに、中を知る為に外から知るってのは効果的らしいけどな。良くわかんねえが…しっかし住むトコまで外にするたぁな。面白い」 そうつぶやきながら直後、彼がいきなり「あれっ」とか呟いたので兪河、いささか焦った。 「若…どうなされました」 「マジかよ。…おい、あれ。見ろよ」 彼の示す方向に視線を送った後、朱治も一瞬目を見開いた。 今、彼らの目の前にある建物は廬江太守陸康の御所の筈で、その手前の高さのある門は正門の筈で、通常であれこの広さの建物はだと少なくとも5、6名は門番が立っている筈である。 しかし、今この門前には人ひとりも、猫一匹すらも見当たらなかった。 それどころか、門番が立っていた形跡も無い。 「一体どうしたのか……旗も立っていない。不可解ですね」 思わず兪河は疑問符を口にした。 「なあ。…ここ、本当に太守の御所かよ?」 来る前の確信は消え失せ、そんな事を聞かれて久方ぶりに冷や汗をかいた。 「その筈ですが…いささか自信がなくなってきました」 孫策は背後からの呟きをきいた後、腕組みをした格好のまま何遍か門の上を見上げ一声揚げた。 「丹陽太守・呉景の使者として参った者だ!お目通り願いたい!」 返事は無かった。 使者としての用件を務めれば良いだけのつもりが思うようには行かず舌打ちをした。 しかし“誰も住んでいない”とあっさり考えるには納得がいかないらしく、彼はもう一度呼んだ。 「おい、誰かいんのか!?」 「いま参ります」 何秒かして、門越しに緩やかな声が僅かに聞こえた。 しかも、その声は成人のそれではないように感じられた。 数秒後、外で待っていた二人は一礼した相手に目を疑った。 「何か?」 それまでに聞こえてきた大人らしからぬ足音に不安は感じてはいたが。 漸く少し開いた門の間から姿を現したのは、年端も行かない少年だったのだ。 孫策は自分の弟と年齢的に変わらないようなその姿に目を疑った。 何故太守の館の客の出迎えを、こんな子どもにさせているのかと。 何か言おうかと思ったが、それは相手の方が早かったようだ。 「何か御用でしょうか?」 一瞬何を聞くか忘れてしまいそうだった。 太守の使者だと叫んだ相手に“何か用ですか”はないだろう、と孫策は思ったが、事を荒立てる必要もないと感じたので、取り敢えず呉景から預かっていた書簡を示して要件だけ告げようとした。 すると、少年はその紙を見るなり微笑して言ってのけた。 「今、廬江太守は病気で臥せっていますから会えません。私は主簿(事務次官)ですが、書簡は私に見せても分かりませんので、意味が無いです」 「……は?」 思わず孫策の口からずれた声が出た。 太守の主簿であると、こんな11、2歳ぐらいの少年が真顔で言うのか。 「すまない。聞くが…今君の他に、陸康殿に話が通じる方は…」 兪河が横から口を挟んだ。 「申し訳無いのですが、いません」 即座に言い放った少年は相変わらず穏やかな目をしていた。 赤の他人、しかも少年に「嘘をつくな」とも言えないし、疑う理由も問い詰める権利も無い。 「(…どうするよ?)」 後方を振り返った孫策の表情は明らかに歪んでいた。 その声にならぬ問いに兪河が首を振ったのを見て、彼自身も話を続けようとしても無駄だと感じた。 「…駄目だ伯海。帰ろうや。」 恐らく今の孫策の力でなら、目の前の少年を突き飛ばし門を蹴り壊し、病気だと臥せっているらしい陸康のもとまで突進して胸倉を掴み詰め寄る事も出来た。 しかし行動に移せなかったのは、今の彼にその動作が出来る体力は持ち合わせていても、それを“赦す力”は持っていないからなわけだ。 「遠路来訪すみませんでしたが、今回はそうしてください」 少年は最初から相変わらず笑みに近いような穏やかな表情で、その口調には良くも悪くも一切の無駄と余韻が無かった。 「お前さん、名前は?」 「貴方のお名前は?」 お互い名を名乗らぬまま、二人は礼を終わらせてしまった。 「っはは!…悪ぃな坊ちゃん。俺の名前か?はいはい。孫伯符ってんだ」 “先に名乗ってください”と直接言われるよりも棘はないのに、彼には威圧に近いものを与えられたらしい。 しかも少し虫が好かなかったが、聞き流したふりをした。 少年は微笑をたたえた表情を変えぬまま、孫策が差し出して来た手を力強く握り返した。 「私の姓は陸、名は、議。陸伯言です」 午前に用件を終わらせるつもりだったのが、終わらせるどころか半煮えになってしまい、秋空にすっかり日が昇ってしまった。 「なあ、伯海。…廬江って大丈夫なのかな?」 兪河は、馬を歩かせながら呟く孫策の背中を見た。 「この地…穏やかにして私には少々、得体が知れぬように映りましたが」 孫策もそれは感じていた。 この地は、良くも悪くもまるであの少年の様だ、と。 確かに使者を太守に会わせられず年端も行かぬ者に応対をさせるなど、役所で行われる尋常な事ではない。 こんな状態で陸康の人物を見極めるなど不可能に等しかった。 市政は安泰しているようにあったので、尚更底面が見えなかった。 「まあ、しゃあねえか。今こんなトコで、無い頭で考えてもどうしようもねえ。呉舅舅の動きを待とうぜ」 使命を負った筈の本人からあっけらかんとした態度で締められたので、元々考え込む性格の兪河も持ち直す事が出来た。 「若。…では、我々このまま丹陽に戻りますか」 朝方孫策に言われて取った宿をどうするのか聞きたかったらしい。 「あー…伯海、悪ィ。お前だけ先に丹陽に戻っといてくれるか?俺さ、ちょっと行っときたいトコがあんだ」 今朝、あと一日だけ取った宿も使うと言って来たので御意、と頭を下げた。 「…若。どこに行かれるのか訊ねたら、矢張り野暮ですか」 「はは、ンなんじゃねえって。前に通った石亭の関所の風景が春だったからよ、秋はどうなってんのか見とこうかな、ってそんだけ」 そこに行ったら明日にでも、自分も追って丹陽に戻ると告げ、二人はその先の道で別れた。 「、呉景殿の使者の方はお帰りになりました」 門口で客人の応対を済ませて来た“阿議”は、廬江太守陸康の部屋に入って来た。 先程彼は『陸康は病気だ』と言っていたが、いまこの書斎に座る陸康に病気であるという様子は垣間見れなかった。 「すまないね、阿議」 陸康は彼の手を握り締めた。 元々は誰も居ないように見せかけるつもりだったが、高窓から孫策達の様子を見ていた“阿議”が『私が応対して来ます』といきなり告げて門口に走ったのだった。 半分ほど演技だったらしい。 「の考えは的確だと思います。呉景殿と袁術殿。今回、どちらにも兵糧援助しないに越した事は無いですよ。双方には申し訳無いのですが」 「…それでは寿春の袁術殿には」 阿議、いや陸議には然程問題でもない様子だった。 「廬江の山間部の水稲が不作だったから、他省を援助するだけの量が用意出来ないとでも伝えるのが良いでしょう」 不作ではないにしても今年の夏、大雨が降り続き日照時間が云々でというのは事実で、陸康も同筋の事は考えていた。 「それは私も考えていた事だよ、阿議」 似た事が閃くのは同じ血が流れているからであろうか、と一瞬よぎった。 陸議は実はこの日、この瞬間まで彼なりに緊張していた様子で、今やっと表情が先程より柔らかくなった。 見た目は変わらなかったが。 「、私は公紀と子璋を起こして来ます」 どうやらいつも通り昼寝をさせていたらしく。 廬江の街に戻った孫策は、宿屋の主人から客が見えていると聞かされた。 二階から降りてみると、待っていたその人物と顔が合うか合わないかの前に、孫策は一声上げて握手を交わしていた。 「魯粛、久方振りじゃねえか!すげえ、何で俺がこっち来てるって分かった?」 彼が相変わらずだったので、魯粛の方も嬉しくなった。 恐らく表に見えぬ部分は成長して立派になっているのだろうとは思われたが。 「こちらに見えている、と云う事は存じ上げてはいたんですがね。ただ、どこに宿を取られているかが分からなくて。しらみ潰しに探そうと思っていたら運良く三軒目で見つかりました…」 孫策は、そう言って鼻で笑う彼に取りとめも無く話し掛けた。 「でもよ、俺が廬江来てるって分かったのは…何で?」 「ええ、それは周瑜殿が」 宿屋の待合場に設置してある座席に大雑把に座り込んだ。 「へ…そういやあ俺、あいつの手紙にそんな事書いてたっけ。忘れてたぜ」 肩肘を付いたまま苦笑いを始めた孫策に、相変わらず誰が聞いても分かる口調で話を続けた。 「実は大喬に今回一緒に来るか、って冗談飛ばしてみたんですがね。“最後の遠出”って事で」 一瞬、彼の頭に喬の顔がよぎった。 「最後…ってどういう意味で?」 思わず魯粛にそんな事を聞いていた。 「それが、『おんなの世界』は複雑みたいでしてね。あの年頃の娘さんが誕生日を迎えてしまうと…特に名家の場合なんですが、好きに外出する事が許されなくなるんですよ。だから、最後にどうかなと聞いてはみたんですが」 「……」 娘という存在が親から可愛がられているのは分かるが、好きに動く事が出来なくなるのは可哀想な気がした。 「そういえば、一方的に話して済みませんでしたが…前に一度逢っただけですが、まだ覚えています?大喬」 聞かれて一遍頷いた。 魯粛は一度と言ったが、二度逢ったのはふたりの秘密になっていた様だった。 「優しいったら無いですよあの娘(こ)は。気遣い上手で、しかも花か蝶かの様に愛らしい。うちのに何遍“見習え”って言った事か」 自分の妹のような喬と、自分のそれらしい相手になる予定の女性は見目性格がかなり反比例している様で。 「…そっか、まあ。元気でいんだな」 思わずそんな言葉を口にした。 少し安心したらしい。 前に広陵で逢って以来、またあっちに戻って身体壊していたりしていないだろうか、とたまに思い起こす事があったからだ。 誰にも言っていなかったが実は“たまに”、ではなくて“しょっちゅう”なのかもしれなかった。 魯粛は横に置いていた手土産を渡し、そろそろ戻ると言って来た。 「え、なんだ。もう帰んのか?ここ泊まってけばいいじゃねえか」 「いえいえ、ぜひ貴方に一言ご挨拶しておきたかっただけでしたんでね」 前来た時と同じく、その場所には矢張り人影は無かった。 石亭の関所が街の近くだったので、そこまで魯粛を見送って来た。 相変わらずこの場所は人の気配が無く、緑から黄色に姿を変えた葉が引っ切り無しにはらはらと落ち、地面を敷き詰めていた。 孫策が、丹陽に戻る前に寄っておきたかったのは実はこの場所だった。 「…お見送り有難う御座います。では、これで」 「おぅ、こっちこそ。またどっかで会おうぜ。近いうちによ」 馬が緩やかに去っていくのを見送って、左右を見渡してみた。 「へえ。…結構綺麗なもんだ」 銀杏の一種であろうか、辺り一面鮮やかな黄色だった。 見上げると空に秋晴れの青の色は無くなっており、真っ白な間から葉の色と同じような光が差し込んでいて。 時間が過ぎるのを忘れ、彼は時折笑みさえ含んでその光景を見上げていた。 その後どれだけ時が過ぎたか。 耳を澄ますと、風に乗って繊細な音色が渡って来た。 (…二胡、か) 音のするその方へ目線をやった孫策は次の瞬間釘付けになった。 大木にたおやかな背を預け、静かにニ胡を奏でるその姿が。 あの少女を記憶から消す事など出来なかった。 馬から下りて思わず走った。 半透明だったので、それが幻影だという事は駆け寄る前に既に分かった。 分かっていた。 「喬。…お前だったのか」 しかし彼はその名を呼ばずにはいられなかった。 一度だけ幻影の少女は顔を上げたが、その後恥ずかしそうに下目がちになって俯いた。 ただ、表情は白蓮の花の様で。 「俺ガサツだから…お前がどう考えてんのか、分かったとか言い切ったら嘘になるけど」 薄い絹衣の上から、幻の肘の辺りをそっと掴んでみた。 奇跡的に少しだけ感触が残っていた。 しかし悲しい事に、それも段々と緩んで行くのが分かった。 矢張り、今までの僅かな思い出で作り上げた幻だったんだ、と知った。 「ただ俺は、…お前に逢いたかった」 それだけやっと言うと、彼は消し飛んでしまうのを承知で喬の幻影を抱き締めた。 数秒過ぎてほどいた孫策の腕の中には、もう何もなかった。 「…喬」 僅かに花の香りだけを残して。 孫策はもう一度振って来る秋葉を見上げた後、その場を去った。 次の日の朝早くには、もう丹陽に戻ったらしい。 「…お姉ちゃん…お姉ちゃん?」 小喬が姉に呼びかけていた。 自分の家の近くの少し上った丘で、喬は眠っていた。 腕には二胡を抱きかかえ、銀杏の木の根元にうずくまる様にして。 暫くはそれを奏でていた様子だったが、知らぬ間に瞼が閉じてしまったのだろう。 夢の中でも彼女は眠りについていたらしく、指先で頬を軽くつつかれて起こされたようだった。 (「―こんなトコで寝てたらいけねえぜ、喬」) 気がつくと彼が横に腰を下ろして、自分を覗き込んでいる。 慌てて名を呼んだようだったが、この時の夢の中の自分の声は響かず、自分に聞こえる事は無い。 それでも相手には通じたようで、目で笑うと羽織っていた上衣を架けてくれた。 通りがかりだったらしく、自分の持ち合わせで悪いなと笑いながら。 (「…もう、風邪ひくなよ」) 「起こすの、もういいや。待ってよっと」 小喬は、姉の寝顔を何度か覗き込んだ後に、腕に抱いていた二胡を取ってのんびり弾き始めた。 喬その表情は微笑んでいるようでもあったが、目元を見ると涙を流した跡も見えた。 ---続--- |