短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」十三



―わたし、
 寝込んでいる場合では無いのに。
 …どうしてこんな大事なときに熱なんて出してしまうの?

 起きて大に伝えなければ。
 孫策さまは、志を懐かれる方なのだと。
 その支えになって欲しいと。
―でないと、わたし。
 ほんとうに、なにも出来ない、ただの…

 喬は眠りについていながら、知らず涙を流していた。
この場合、眠ると言うよりは意識を失うと言った方が正しいのであろうか。
熱は無駄に脳から放出され、次第に彼女の体温の均衡を奪っていた。
そのため、頭が割れそうな程に痛くて、
肩から下の身体は凍える様に寒いと思った。
そして既に薬湯を受け入れなくなっていた喉だけは焼けるようで、
そんな中で声などますます出せる筈もなく。

(…たすけて…)
自分の弱さを情けないと思いながらも、喬は声にならぬ声で暫く助けを求めた。
底の無い闇の中で。

 今が一体時刻にしていつ頃なのかは分からなかった。
ただ、外でずっと降り続く雨音が白んでゆく空の中で次第に静かになって行った事だけ。
彼女はそんな事を薄ら感じられるような浅い夢と、何も覚えない様な闇の中での深い夢を延々と
繰り返した。

 その何巡目だったろうか。
寝台で横になっていた自分の胸の上に、予告なく重量感のある何か、得体の知れぬものが
覆い被さって来たと思った。
(……あったかい…)
掛け布の上から来ていたと思われるそれは、不思議と人肌の温もりがあった。
そう感じた瞬間、喬は恐らく、初めてまともに眠りに就いた。


 その同時刻の夜が明ける前の丁夜と五更の挟間、西の方角皖では喬の妹、小喬が一瞬だけ
目を覚ました。
 目が覚めても楽しい夢がまだ続いていると思ったらしかった。
「…お姉ちゃん」
しかしそう一言だけ呟いた後、その対象が矢張り居ないと分かると今度は持ち前の可愛らしい顔を
ぐしゃぐしゃにした。
どうやらこれが初めてではなさそうで。
何月も大好きな姉に逢えないものだから、夢にまで出て来るようになった。
そして最近、その夢に出てくる姉の覚え顔が段々と不安になった。
「…お姉ちゃん…早く…帰って来てよォ…。あたし、…お姉ちゃんの顔忘れちゃいそうだよぅ」

 姉が旅立つ前に直接は言わなかったが、当時若い娘にとっては別の州に行くのはあたかも
別大陸の外国・大袈裟に言えば宇宙に行くようなもので、小喬は事のほか、夜に目が覚めると
孤独に苛まれた様な気分になって嫌だった。
べそをかいてみたが、宥(なだ)めてくれる相手も居ない事を知っていて、直ぐに無駄だと分かった。
「…嘘だもん。顔、ぜったい忘れないもん」
小喬は顔を二三回左右に振った後、傍にあった人形を何人か寝台に引きずり込んで団子の様に
丸くなった。
「………
…今度は周瑜さまに出て来てもらうもん」
彼は、この小喬の中で勝手に公子(おうじさま)化されていた。
そう言った後瞬時に寝に入った様で、それ以上は何も続かなかった。

(―起きなければ)
 喬は、眠り過ぎて重くなっていた瞼を開こうとした。
しかしまだ身体が言う事を聞かないので、せめて今がどれ位の刻なのか、まずそれだけでも
知らなければと思った。

―おそらく、空は白くて陽は出たばかりの様であまり見覚えの無い方向に傾いて居たので、
明け方である事を知った。
雨は霧雨に変わっており、湿気を含んだ様な温い空気が、紙で出来た出窓から漏れている気がした。
が目を覚ましたのは、その緩い空気が彼女の頬を撫でたからであった。
 意識が遠のいていた時はあんなに寒いと感じて居たのに、矢張り先程から胸の上が温かい。
何となく掛け布の上から何かその部分に重たいものが乗っかっている様な。
身動きが出来ない程に。

(―!?)
目線を動かしてその正体に気が付いた次の瞬間、喬は驚きで息が詰まりそうになった。

 あの男が横で椅子に座った状態で、上半身だけ自分の寝床に放り出した様に倒れ込んで
眠っているではないか。
恐らく最初眠る気は無かったのに、ついうっかり居眠りしてしまったように思えた。
先程感じた胸の温かさは、それまでのさばっていた彼の重さだったのである。

 目の前のそれが、本物である事が実はまだ信じられなかった。
雨の中で見た彼の姿は、熱に魘されて見てしまった幻ではなかったのか?
それとも、まだ私は夢の続きを見ているのか。
「(…孫策さま…!?)」
こちらを向いて静かに寝息を立てていたその表情は、普段のいくさ人とは思えぬ程に小さい
犬か猫の様に無防備で、無邪気だった。

あの時身に付けていたと思われる鎧は、張紘の邸の余所の部屋に置いて来た様だった。
(……)
 喬は次の行動に困りながらもその姿を暫く見詰めたまま動かずにいた。
もしかすると自分を看取ってくれていたのだろうかとか、自分が動いたら目を覚ましてしまうのでは
ないだろうか、というようなあらゆる考えを頭中に廻らせながら。
 こんなに近くで男の顔を見たのは初めてだったので、相手に気付かれぬ様に幾らか恥らってみた。
どうしよう、なんて思ってみた。
 
「………ん?」
 そう彼女が思った次の一瞬、
目の前で寝に入っていた孫策の眉根が寄ったかと思うと、その瞼が覚めぬまま半分程開いた。

彼のその瞳の色は、今まで見て来た彼女の周りの常人のそれとは異なっていた。
 例えてみると、翡翠、鳥のカワセミの翼の色に良く似ているような。
(―ああ、)
何日か振りに綺麗で温かみのあるものを見て、喬はこの時理由も無く泣きたくなった。

「俺…、もしかして…寝てた?」
 自分の行動の一過に気が付いた孫策は、鈍い動作で身体を起こした後喬の方を見た後に
分が悪そうに苦笑いした。
「悪りィ…」
自分の上にのさばって寝ていた事を詫びている彼に首を振って応えようとしたが、熱で関節の自由が
利かなくなっていた。
声も喉が千切れているか腫れているかで出せなかった。
(孫策さま)
伝える術が無く、ただ見詰め返す事しか出来なかった喬に、彼は何の気無しに
子どもの様に話しかけた。
「信じてくれるかどうか分かんねえけど…俺、ついさっきまで起きてたんだぜ?生まれて初めて
徹夜出来たかと思ったんだがなー…あーあ。やっぱ、無理か…」
(孫策さま…私なんかを…看取って)
 本当は、見知らぬ土地に来て初対面の賢師を訪ねる彼の方が大変な立場の筈だった。
しかし喬には、彼が自身の事よりも病人で何も出来ない自分の方を慮っている様に思えた。
そんな表情を微塵にも出さなかったので、尚更心が大きく揺さぶられた。
(…すみません)
彼女が泣くのを堪えて何回も呼びかけた声にもならない声は、孫策には届かなかった。
でも、どうしてもこの時言わずにはおれなかった。
「熱…どうだ?」
が一方的に抱いていた虚しさと別に、孫策は彼女の熱がどうなったか気になっていた様で、
自分の掌を顔に伸ばして来た。
額にゆっくり触れて来たそれは、雨後の外の湿気とは比例せず意外にもさらさらして、大きかった。
「やっぱ…まだ、少しあるか」
少し難しそうな表情をした彼は、その手を彼女の右の頬を包み込む様に触れると、今度は困った様に
笑った。
「お前、顔…ちっせえな」
確かにこの時高熱が出ていたが、顔まで火照っていたのはこの所為では無く、
―別の熱だった。
彼は、今までにこの喬がされた事がない様な事をして、
まるで口から心臓が出て来てしまいそうな事を言う。
「…知らねえ土地で、知ってるヤツに逢える事ほど、有難え事はねえな…」
若しかすると自分の事を差しているのか。
触れられて鼓動の昂揚に気付いているのか否かは分からなかったが、最初孫策は正面下方の装飾壁の染みを見てるような目線だったが、徐々に彼女の方へと移して淡淡と喋った。
「親父が死んじまってから…俺、一体これからどうすりゃイイんだ、って…はっきり分かんねえまんま今迄、我武者羅に動いてた。自分の行動には一応自信あったけど、独り善がりのまんま右往左往してた。だから是所に来る時も…実はすげえ不安だった」
はこの時、張紘と孫策があれからどうなったのか、その事が何よりも気になっていた事を
思い出した。
彼の“あの”父親が亡くなったという事も、この時初めて知った。
そして同時に、彼の意外な表情を見た気がした。
勢いの中に秘められていた、思わぬ脆さを。
「…張紘殿、俺の話聞いてくれた」
(大が…)
目線の返事しか待っていなかった事を見ると、彼は喬が喉を痛め、声が出なくなっていた事に気がついていた様だった。
「今度からの示唆もしてもらった。俺これから、いちど揚州の寿春てとこに行って…
それから丹陽に向かう。」
激しさこそ感じられなかったが、その声に漠然としながらも大きな決意が垣間見られた。
恐らく、彼女が目を覚ます前に孫策は張紘に自分の抱く雄図を語り、また張紘も彼のその言辞に
心打たれ、大いに弁をふるったのだろう。
―少なくとも彼は、今迄よりも前向きに動き始めたのだ。
「…お前にも感謝しないとな」
その時、余りにも恐れ多い、と思った。
(なにも。わたしは、ぜんぜん、なにも…)

「喬…お前、泣いたのか」
その時孫策に名前を呼んでもらえたと思ったら、眠りに就く前に熱で魘された折に流した涙の跡に気付かれた様だった。
当の本人は、目尻に彼の指先が触れるまで、泣いた事など記憶の彼方だったようで。
「―さっき、熱すげえ高かったからな…。まぁ、あと暫くキツイけどよ、多分もう大丈夫だ」
そう言った後、彼は傍に置いてあった磁器の碗を持って「薬が飲めるか」、と聞いた。
 張紘が、眠る前にまた煎じ直してくれた薬湯の事だろう。
何とかして身体を起こそうとしたが、そうする前に孫策が抱き上げてくれていた。
「…多分、喉が炎症起こしてんな…」
 この時喬は、無理にでもこの薬湯を飲み込まなければならないと思った。
今、彼がこうしてくれている時にこれを口に入れなければ、一生治らないと。
しかし、ただでさえ焼け付くようだった細い喉にそんな水薬を含んだものだから、更に細かい鋭利な刃で切られてゆく様な激痛が走り、思わずきつく目を閉じた。
 (―!)
声が出せないのが勿体無いくらいだった。
 飲み込めず見苦しくもそれを吐き出しそうになると思ったとき、
もう一度自分の顔の上から彼の声が聞こえた。
「…目、閉じてな」

 それは逆立っていた神経を撫で鎮める様な、安心する声だった。
が思わず肩の力を抜いた次の瞬間、枯渇していた身体の中に薬湯が入って行くのが分かった。

―彼が口唇を重ね、それが喉を通せなかった自分の代わりに流し込んでくれたから。

 鼻同士が何回か触れた。
 顔を離すまでの間、少しばかり余韻があった気がした。
徐々に、錆び付いていた血の廻りが甦って来る。
抱きかかえられて自分の背中を支えていた腕から孫策の体温を感じた時、再び彼女の瞳から
零れるものがあった。

 これまでに接した人達が与えてくれたものとは違う。
 父親から触れた広い慈しみとも違う。
―こんなにも大きく、力強い優しさを与えられたのは初めてだったからだ。
 そして、ほんの少しだけぎこちな無くて。

「もう、大丈夫だからよ…安心して眠りな」
彼はそう言ったが、喬は再び眠りたくは無かった。
奇跡の様な偶然の中で折角また逢えた事が、泡の様な夢となって失ってしまわれるのが
恐かったから。
知らず、男の上衣の端をきゅっと掴んでしまっていた。
普段の彼女からは、そんな行動は考えの端も及ばない事である。
 孫策は一遍笑って、その掴まれている手を握り返した。
「…心配すんな。熱が引くまでここに居るから」

 それは同時に、熱が引いたら彼はこの場所から居なくなってしまう事を示していた。
(…孫策さま)
―行かないで。
声が出なかったので、せめて心の中でその言葉を何遍も、何遍も繰り返した。
しかし、
若し声が普通に出せたところで、果たして彼女にそんな科白が言えたのかどうか。

涙で霞んだ瞳を開こうとすると、見詰め返す翡翠色が見えた。
(綺麗な色…)
こんなに近くで、彼の顔を見られる事など、今後もう無いだろう。
そう思った。

自分で言い聞かせて、長い睫毛を伏せた。
は、矢張りこれは夢なのかもしれないと感じた。
今眠るためには、これが夢だと思わねばならなかった。
あの瞳の、翡翠色が余りにも綺麗過ぎて。
今、涙腺に触れて涙を拭う彼の指先も優し過ぎて。
そしてきっと、今こうして包み込んでくれている温かさも夢なのだと。

だからせめて、
この時が一瞬でも長く続く事を祈った。


 これが夢だと思っていたので、喬は目覚めるまで夢を見なかった。
ただ、後に張紘の奥方が回想するに“目を覚ますのが勿体無い位に幸せそうな寝顔をしていた”と。
「玉蝶…玉蝶!」
明日、長い眠りから覚めて再び瞼を開いた彼女に最初に呼びかけたのは、奥方の丸くて
優しい声だった。
握ってくれていたのは、若い男の固い大きい手では無く、自分と同じ大きさくらいの、年季を重ねた
柔らかい掌だった。
夢は終わってしまっていたが、新たなる母性のそれがとても嬉しかった。
「阿姨(おばさま)…」
この時、喬は声が出せる様になっていた事に気がついた。
もう身体も直ぐに起こせそうなほどに軽い。
違う角度を見上げると、張紘が安堵していた。
「大…わたし、もう大丈夫です。御心配おかけして…」
また蓮花の如き微笑みが甦ったのだと分かっただけで、彼は嬉しそうであった。
「恐らくあの薬湯が効いたのだろう。頑張って飲んだのだね…玉蝶」
傍の碗を見ると、その薬湯が減っていた。
「…えっ、」
薬湯は確かあの時、飲もうとして腫れた喉を通す事が出来ずに吐き出しそうになった筈だ。
―もしかして、
(…孫策さま…!)
彼の名を思い出した瞬間、あの時に重ねられた口唇の感触が朧げに甦った。
 それは勿論『男女の情から来たものでは無い』と自分で言い聞かせてはみたが。
それを思い直した瞬間、
は顔を真赤にして寝床の底に顔を隠した。
あの時の孫策は。
―夢でなどは、なかったのだ。

「…どうした、玉蝶?今日は晴れたからさっき、戸の敷居を干す為に外したからね…
まぶしいのかい?」
「…い、いいえ大!…え…えぇと…いいえ、ええ、そう、そうなの!」
返事が妙だったので、張紘は苦笑しながら首を傾げた。
「まあ、元気になったしね。良しとしようか。…そうだ玉蝶。私は間もなく、まあ、少し先になると思うが…この広陵を離れる事にしたよ。」

落ち着いてはいたが、隠遁を決め込んでいた彼の口からにしては意外甚だしい言葉だった。
「…大…?どうなさったの…離れる、って…」
「ああ、玉蝶…私も、やっとだ。やっと、仕えるべき主を見付けたのだよ。」
それを聞いて思わず、掛け布から色の引ききれぬ顔を出してしまった。
「主、って…」
張紘は寝床の前に座り込んで頷いた。
「ああ。その方は、まだ若い、こちらが不安になってしまう程若い。だがね玉蝶、あの男にはそんな屑も消し去ってしまう程の魅力がある。前途もある。だから、この張紘は初めて腹を割って語った。そしてその新しい主にこう言ってやったのだよ。」
はこの時初めて、張紘の賢師としての表情を見た気がした。
何と嬉しそうに語るのだろう。
「『御自身の初志を貫き呉と会稽の兵を結集なさって、荊州と揚州を統一し、漢王室を支えながら
長江に拠ってその恩徳と武威を存分にお奮いになれば、朝廷の外藩どころか、かつての
周王朝の権威が揺らいだ折に支えたという名士、斉の桓公・晋の文公にも匹敵するでしょう、
いやその二方をも凌ぐことが出来るでしょう』、と」

(…孫策さま…)
顔に血色が甦った張紘に自分の手を預け、喬は直接いくさには出る事の無い、関係の無い立場に
在ってはいるものの、話を聞きながら胸が一杯になった。
難しい事は分からなかったが、兎に角佳い方向に面舵が向いたのだろうと。
同時に、
 孫策という男の存在の、自分の中で占めている割合が益々大きくなっていた事。
―いくさは嫌いな筈だった。
―いや、今も嫌いだ。
 そして、いくさを起こすひとはもっと嫌いな筈だった。
しかし今、彼女はあの男が誰よりもいくさ人の気質を持つが故に惹かれて仕舞っているのだ。

(…どうしよう、…わたし、)
―孫策に。
あの男に、心を奪われてしまった。
これ迄逢った時の淡い憧憬とは違う、底からの想いだった。
でも、この事は多分誰にも言えない。
言ってはならない。
張紘は勿論、最も気の知れた妹、喬婉にも。
行き場を失った喬は、再び寝床に顔を隠してしまった。

張紘はその時、孫策と語った最初の晩の事を回想していた。
あの、会話の音が掻き消される程に大雨が降っていた夜の事を。
奥方が湯を喬の部屋に運んだり、行ったり来たりしている場を時折目で追って、密かに気にしている様子であった。
それとなく口を開いた。
「君は知っているかね。信じられぬ話だが、…北方では料理する肴が無ければ、自分の妻を料理して
賓客に食べさせるという。…だがしかし、東南では一転、女性の地位が重く見られているというが…
孫策殿。君の父上は、確か。生まれは」
「俺の親父ですか。生まれは…富春です。呉郡の」
「では…君も後者、か。」
孫策には張紘の話の意図が分からなかった。
「…何か」
「いや。君は玉蝶…いや、大喬小姐を前から御存知の様子だったが、…彼女と、君は」
張紘には、病の身体をおして“彼を支えて”と訴えかけていた喬の姿が瞼に焼き付いていた。
そして、あの豪雨から庇おうとしていた彼の必死の表情が忘れられなかった。
―若しや、好き合っているのか。
「…そんなんじゃありません」
彼が声に出してしまう前に、孫策から返事をして来た。
「ただ…完全に違う、と言い切ったら、嘘です」
いくさに関する意気込みに似合わず彼のそれは随分と遠回しで、慎重な返事だった。

『結局は気になってるのではないか』と言ってやりたくなったが、張紘は敢えて黙っていた。
野暮だと思ったので、それ以上は何も聞かなかった。

そしてそれを回想する今、『何年かして酒でも入ったらそれとなく聞いてやろう』と思った。


 孫策が丁度江都に戻った頃、雨雲が去って珍しく晴れ上がっていた。
空にはこの日、一点の迷いも見られず。
このたった数日の間に気候が変わってしまったらしい。
「なんだぁ?今日、すげえ暑ちぃ…」
失笑を露にしながら関所を通ろうとすると、遥か先から弟の孫権が走って来るのが分かった。
「へへ、おぅ、帰ったぜ仲謀!ここだ」
迎えに来てくれたのだろう、と手を振ってみたが、彼はそれを確認してからも、猶も大慌ての様子で
小走りに駈けて来た。
見ているこっちの方が危なっかしいと孫策は思った。
「…おぃ、急がなくてイイって!転ぶ…」
言い終わる前に、弟は叫びながら彼の目先で砂埃を上げて堂々と転んだ。
「…あーあ…」
可哀想だと思いながらも、たまにやらかす事だったので思わず鼻で笑ってしまった。

しかし、
 まだ距離があるもんだから、孫権はその場から立ち上がりまだ懲りずに走って来る。
「兄上、兄上!…くる!くる!来ます!」
「おぃ、来る…って、ナニが?」
「兄上!くる!」
「だからナニがだ!?」
 余りに急いでいたので、彼の口から最終的な事が言えたのは兄の目の前に着いてからだった。
 しかも無駄に叫んでいたので息も絶え絶えになり、膝から折れてしまった。
「…お前さあ、舌が縺れて言えねんだったら、結局ここに着いてから言やぁイイじゃねえかよ」
「あの、兄上…来る。来ます」
 一応ちゃんと聞いてやろうと思い、合わせてその場に座り込んだ。
「はい、何が来るんだ?」
「来ます…しゅ。周郎…周郎が」
「え…」
 久方振りにその幼馴染の名前を聞いて、孫策も表情を変えた。
「周瑜が?マジかよ…まさか、もう家に来てたりすんのか」
「あ。あの、あの、…まだです」
それを聞いて、思わず弟の頭を軽く突いた。
「あぁ!?ンだよ。なら、まだ急がなくてイイじゃねえかよ!じゃあなんだ、来るとか言って
手紙か何かよこして来たのか?」
「…いいえ。で…でも、兄上。来ます。周郎が」
孫策はそう言い放つ弟の顔を見た。
―“こいつの勘が。また”
ほんのたまにだったが、この孫権の神経には生まれ持った動物の様な一面があるらしく、時折思わぬ
預言をして的中する事がある。
これが続けば“商売として成り立つ”などと考える輩なんかも現れ始めるのだが、惜しい事に
彼のぼんやりした性格上、見逃す事の方が多いらしかった。
しかし、的中する時は周りの空気を読み取って恐ろしく的中する。

「仲謀。…周瑜は今から来んのか?」
まだ息を切らしながら頷いた。
「じゃあよ、どっちから来んだ?」
そう言いながら、弟の指差した方向に振り返った。


思わず声が出た。
「…っははは、すげえや!」
向こうから来るそれは本当に周瑜だった。
西関門の奥の方から馬に跨って走って来る、胡麻粒の様な小さい姿に気が付いた彼は思いがけず
吹き出してしまった。
まさに大当たりの周瑜の表情は、こちらに着いても無駄にむきになっている。
それもやけに可笑しかった。
「孫策!…何故笑う!」
久し振りに再会した親友同士の会話にしては、感動とかいう文字の端も無かった。

「いや、でもよ、逢えて嬉しいぜ周瑜。やっぱ俺たちって、どっかでそう云うすげえ図太い縁が」
当の本人は激務の間を縫って四方奔走して数月、やっとこの男に辿り着いたのだ。
普通に生活しているだけでは、先ず無理である。
しかも、少し時期がずれればまた逢えないところだった。
「縁だって?図太いだと…よく言うよ!僕がどれだけの時間をかけて君らを捜したと思ってる」

そう言いながら、段々と周瑜は、必死になり過ぎていた事に虚しさを感じ出した時だった。
「―分かってる、」
だらりと下ろしていた彼のその左の手を、孫策は両方で掬い上げた。
「…孫策…」
「信頼してる。…有難うな、周瑜」
屈託の無い彼のその表情を見ると、周瑜自身も今までの労力がどうでも良くなってしまい、
目を細めて笑った。
「君と云う奴は…本当に。仕方の無い」

この時節の昼下がりが描き出す人影は、驚く程短かった。
「なあ、今日は時間あんだろ?イイじゃねえか、家に泊まってけよ。」
「…弟くん達に遊ばれて、玩具にされそうだけどね」
「良かったら、うさぎさんともあそんであげてください」
あまり主語の無い会話が、次第に林の中に消えて行った。