短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」十二


 宵から予告無く降り始めた雨は、耳に触るか触らないかの音を立て、数日広陵の乾いた土を
濡らした。
 先日孫策が張紘を訪ねたのを前後して風邪をこじらせた喬は熱が上がったり下がったりを
繰り返しながら床に就いていた。
 熱は微熱で左程不安を要さなかったが、長く続く咳が彼女の体力を奪い、この日に到っては遂に
声が出なくなった。
 張紘は四ノ更(真夜中3時過ぎ)に薬湯を煎じたが、部屋に入ってみると喬はこの時間になって
ようやっと眠りに就く事が出来た様子だったので、起こさずに傍にそれを置いて部屋を後にした。
「…大分、見えぬところでも無理をさせていたのやもしれんな」
 部屋の外で不安気に待って居た夫人にぼつり、と呟いた。
 広陵は、喬の住む盧江とは幾らか気候の変化の仕方が異なっていた。
そして知らぬ場所での生活に加えて張紘の母親の死の間際まで共に寄り添い、自室で就寝する事は
無かった。
 更に今日に到るその後のひと月、張紘夫妻に生気を取り戻させたのは何を隠そうこの
少女だったのだ。
「玉蝶は…優しい娘(こ)ですから、ついわたくしも甘えてしまっておりました」
 張紘は力無く視線を部屋の戸に送る夫人の肩にそっと手を置いた。
「私とて同じ…いや、それ以上だった。我らの娘ではないのだと云う事を忘れてしまう様な。
…しかし、喪を明かして皖の喬公殿の元へ送り届けようかと思っておったが…一刻でも早めた方が
良さそうだ」
 彼は、喬の風邪が癒えたら共に皖に向かう事を決めた。
そう心に決めた時、一瞬、白昼の寝床から声にもならないような声で「大」と健気に呼びかける
の姿が思い出された。

 “玉蝶”の徴(しるし)を語るは、もう庭の池に咲く小さな蓮の花たちだけになってしまうのだ、
と思うと淋しくもあった。
 今回はたまたま運のめぐり合わせが宜しかっただけで、今の時代の様に逢いたければ逢えると
いうわけでもなく、曹操の北からの圧力が炎となれば戦となり、さらに人間は散り散りばらばらで
逢う事はますます叶わなくなってしまう。
 力を持たぬ人間にとり、この時代での一旦の別れは半永久的なそれに等しい。
近く広陵を離れる腹もあった張紘は、そんな別れはいずれ来ようと分かっては居たが、
こんな思いをしている人間がまだ蟻の様に居るのだろうと思うと、虚しさを噛み潰さずに
居られなかった。
を“玉蝶”と呼ぶ事に楽しさを覚えて間も無かった。


―時を同じくして、広陵の臨市にあたる江都では人と会う約束の為の出立を明朝に控えた男、
孫策が床の上で無防備に大の字になり、寝返りも打たずに熟睡していた。

「……ふッ…」
 鼾すらかかずに仰向けになって薄笑い、この姿を不眠症の輩が見たらさぞや腹立たしく思える
のではないかと余計に危惧してしまう程だったが。
「……ん?げっ、げふっ!」
 その時、急に腹の上に与えられた圧迫感に咽(むせ)てしまい、思わず薄目を明け半身を起こすと
同時に、彼は一瞬で不機嫌になった。
「あぁん…!?ちっ、ンだよ…お前かよ…」
 彼の弟の、孫権が以前周瑜から貰った仔兎が「また」自分の腹の上に、優雅にのさばって居た。
子どもの兎とはいえ、既に肥大化したそれは孫策の腹と腰を覆ってもまだ余りある身の丈だった。
「ったく…腹蹴んじゃねえよ…起きちまったじゃねえかよ…」
そいつの名前を呼んでやる気は毛頭無かった。
右手で掴んでそれを半ば強引に引き摺り下ろしたが、その兎は先程の自分と変わらぬ仰向けの
姿になって翻り、動物特有の早い呼吸をしながら一向に起きる様子を見せなかった。
動物特有の体臭が何故か殆ど無かったのが彼以外の家族全員に気に入られ、家の中で飼われた事が
災いした。
「くっそー…オヤジくせえ座布団だぜ。縛っとけよ仲謀…」
 その兎のどうでもいい恰好を見て、自分だけ起こされてしまった孫策は一層腹が立ったのか
再び舌打ちをし、無駄に独り言を吐いた後にそれとは反対の方を向いて寝転がった。
しかし二度寝しようとした努力は無駄に終わり、彼は半目開いて口を尖らせた。
(……何つってたか…、忘れちまったじゃねえかよ)
 彼が、夜中に起こされた事を必要以上に悔やんだのは理由があったようだった。


 夢の中で、彼は緑の草叢に寝転がって更に夢を見て居た。
(寝ているくせに寝ている自分の姿を見る事が出来たのは今考えると可笑しいが、矢張り
それは夢であったからだ)
 目を覚ますとそばには誰も居なかったが右手に何故か、貴婦人が正装時に肩から飾る
薄い領巾(ひれ)を握っていた。
勿論、誰の物なのかは最初見当すらつかなかった。
(………?)
 何も考えずに彼がその領巾を広げるとそれは光を通し、淡い浅葱色と紅の綾が横風に煽られて
空に舞った。
 一瞬、それは実物は無いにせよ仮の天女の姿にも見えた。
(…胡蝶の模様…か)
孫策がぼんやりとそんな事を頭によぎらせた瞬間、彼は握っていた手を緩めてしまい、その領巾は
風にさらわれた。
「あ…やべぇ、」
 高く上がったその持ち主も解し得ぬ綾に視線を送ったが、手を伸ばしても届く筈は無かった。
そしてその姿たるやみるみるうちに陽光を纏い、丘の方へ風の間を滑る様にして飛んで
行こうとするではないか。
(…何処に行きやがる!)
心には思ったが、声には出なかった。
 その領巾が化けた光る物体に、弄ばれているのか導かれているのかは分からなかったが、彼は
それを追いかけて取り敢えず幾らかの距離を走った。
 すると目の上を飛び続けていたそれは発光しながら更に形を変え、先程の領巾と同じ浅葱色をした
一頭の胡蝶となった。
(…何だ?)
その可憐な姿はその変じた瞬間から徐々に高さを落とし、再び孫策の元に降りて来た。
一連の不可思議な現象に泳がされつつ、結局は自分の元に落ちようとした羽虫を彼はうまく
掌で拾おうとして腕を伸ばしてみると、それは近づく度に更に光を放ち、それまでの何十倍も
大きな姿に変化した。
その薄い翅膀から白くて細い腕が生え、身の下の方から足首が生え、頭の方から漆黒で艶かかな
長い黒髪が生え。
―今度変じたのは人間だった。
―天女かと見紛うばかりの。
「―うわッ!」
彼の真上で予告無しに胡蝶が人間の姿になって落ちて来たので、夢とはいえ孫策は動揺した。
夢と気付く事はそれから覚めるまで無かったけれども。
 しかし、生まれつきと日頃培った反射神経で彼は、その変化した体躯を両腕で抱き止めた。
その姿は恐ろしく軽かったが、薄衣を通して体温が伝わって来た。
矢張り『天女』が降って来たのか、それとも胡蝶が変じた姿なので胡蝶の精なのか。
 大丈夫か、みたいな事を話しかけようとしたが、眠っているかのようにあったので寸出のところで
飲み込んだ。
 彼はまだまともに、その顔を睫毛の先から下を見る事が出来なかった。
―目覚めぬそれが美しかったからだ。
珍しく『どうしよう』なんて思ってしまい、変じた胡蝶を草叢に下ろす事も忘れ、抱きかかえたまま
暫く固まっていた。
 時間が飛んで、何刻か経ったのだろうか。
「……んっ…、」
その時、両腕の中に居た存在が、まるで蕾から花咲かせるかのようにその眸を開いた。
目を合わせた時、いやその前から孫策は「その存在を知っていた」。
「…孫策さま」
相手も自分の事を知っていた。
だからその『胡蝶の精か天女さまか』とした仮の姿も、彼の顔に安堵して体を委ねて居た。
辺りの薫風に消し飛ばされそうな柔らかい声で名を呼ばれた。
「…喬…?」
先程無理に起こされる直前に薄ら笑って居たのは、恐らくこの時に彼女に微笑みかけられたからだ。
「…お、おう。何だ…喬…へへ、そっか。やっぱ、お前だったのか。ッはは」
何故“やっぱり”なのか良く分からないが、兎に角彼は夢の中で彼女にそう言った覚えは有った。
無駄に笑いながら。
そこまでは覚えていた。
「――――――」
しかし、
それに続けて喬が彼に語りかけた言葉が思い出せない。
というか、聞き取ったのに直後、記憶から消された。
 不恰好の兎に蹴り起こされた、なんて思い直すと腹が立つので、記憶が残ってない原因は
考えない事にした。
今の彼の実際では絶対に見られないような場面を妨害されたなんて思うと、八つ当たりに近い
仕返しと称して、そいつを何十倍も蹴り返しそうだったからだった。
(しかし…こんな時にまさか、あいつが夢に出ちまうなんて…。)
孫策は、自分の妄想に勝手に出演させてしまった事を喬に詫びたくなった。
しかも幾ら夢とはいえ、勝手に胡蝶の精か天女だか何だか知らないが、化けさせてしまっていたし。
惹かれていたにせよ二度しか逢った事が無い相手に幾ら夢の中とはいえ“やっぱりお前だったのか”
は無いと思った。
 今はもう、喬と逢う事も叶わず、姿や気持ちを確かめる術なども最早存在しないのは
無理にでも理解せねばならず、今となっては雑念としかみなされなかった。
(…莫迦か、俺は?…ナニ考えてんだこんな時に…)
日が明ければ、彼は文士張紘の教えを請いに、再び隣市の広陵に向かわねばならないのだ。
あと三刻は有ると確信した孫策は、布団を被りもう一度無理矢理寝る事にした。

 向かいの家の鶏が甲高く鳴いて朝を告げた頃、張紘が喬の部屋に新しい薬湯を運んで来た。
矢張りあれから少しばかり寝た後完全には休めなかったらしく、彼女はこの時間まで長く
微熱にうなされつつ、うつらうつらとしていた。
 咳は止まりかけていたが、それは喉が腫れあがって咳どころか息をするのがやっとになっていた
という単純な理由だった。
「…玉蝶。落ち付いたらこれを飲みなさい。熱病に凄く効くそうだよ。いいね」
張紘がこうやってニ刻毎に温かい薬湯を取り替えてくれたが、その薬は市で買うと高価に
なる事を喬は知っていた。
 最早こうなると、時間はかかるが昔ながらの自然治癒に任せるしかなかった。
 張紘も自力では湯を通せない程に彼女が喉を痛めていた事を知ってはいたし、薬も無駄になる事は
承知であったが、一時の親代わりとしてそうせずにはいられなかった。
(大…ごめんなさい、ごめんなさい…私の為に)
静かに部屋を後にする張紘の背中にそう呼びかけたが、唇の動きだけでは届く筈も無かった。
一瞬泣いてみたくなったが、張紘や夫人に要らぬ心配はさせたくないと思うと、
不思議と堪えられた。
 少しすると部屋の外で、先程出て行った張紘と奥方が何やら話していた。
「(…薬湯は喉が焼ける。無理な様だったら後で白湯だけでも飲ませてやってくれ。)」
「(…分かりました。…貴方、どちらまで?)」
 喬は微熱で意識が少しばかりぼやけていたが、張紘がこれから出かけるか
何かしているのだろう、と何となく察した。
そして、尚も自分の事を案じてもらっている事に心が痛んだ。
「(ああ。…これから、ちょっとな。虎に会って来るのだ)」
「(…まあ…。貴方、虎に会うだなんて、その様な普通の恰好で)」
「(っはは。…なに、例えに過ぎんよ。虎は虎だが勢いあっても常識が有る。食らい付きは
せんだろうよ)」
戸の外からの淡々とした会話だけでは、喬も意味が掴めなかった。
「(けど…貴方、その虎をどうするおつもりなのですか?…売るのですか、まさか、飼うとでも)」
恐らく、彼と会話している夫人もあまり彼の言葉の意味が分かっていない。
「(…いや、恐らく人に飼われる様な器ではない。私も実親の喪が明けぬうちから大事は出来ぬ
からな。取り敢えず門前で話を聞くだけだよ…済んだら帰ってもらう。)」
彼は出向く前から既に肚を据えていた様だった。
夫人は相変わらず本物の虎に会うのか?と不思議に思っていた。
 

 張紘の邸(やしき)の前には正面に続く太い道と、それを横切る細い道が十字に交差しており、
その中心は移動に使う馬と物資を運ぶ牛が通る以外の時は時間を変えて人が集まった。
行商に使われる事もあれば、或いは自治会の会合に使われ、或いはその一帯に住む子どもたちの
遊び場になる事もある。
 今まさにその場所では、遊ぶのが仕事なのだ、でも言って来そうな子どもたちが数人、団子になって 押し合っていた。
 …遊んでいたというよりは、彼らの中心に標的があった。
「お前、気に入らねんだよ!」
子どもの一人が銅鑼声を挙げた。
「父ちゃんが金持ちか何なんだか知らねえけど、こんなんくれるとか何とか言って、ただの
自慢じゃねえかよ!」
そう言って地べたに叩き付けたのは、裕福な家の子どもしか持っていないような、
動物の模型がついた木製の玩具だった。
わざわざ金を払って玩具など手に入れない庶民には信じられない程の贅沢品である。
「…ち、違うんだ、その…ぼくは」
真中で罵声を受け続けていたのは、身も小さくて気が弱そうではあったが、着ている物からして
恐らく父親が役職を持つ家の子どもである様だった。
喋る言葉遣いも何処と無く違う。
「うるせえ、喋(しゃべ)んじゃねえや!」
前者の弁解を聞こうとしたが、終わるのを待てずに責める側の図体の大きい一人が勝手に
腹を立てて殴りかかろうとした。
「やめな、」
子ども同志の事だとは思ったが、それ以上は見逃せなかった男が背後からその拳を一瞬で掴んだ。
 第三者の大人に調子を壊されてつんのめった先程の大将が「何すんだよ!」と、
勢い付いて背後を振り返ったが、其処に居たのは小言を言うだけの大人ではなく、大人とは言え
どちらかというと自分に世代の近い、喧嘩が好きそうな男だった。
「何だよ、何で止めんだよ!大哥(兄ちゃん)だって、そんな立派な鎧着てるし喧嘩が好きそうじゃ
ないか!」
それを聞いて余裕でにやりと笑い返したかと思うと、その子どもを後ろから抱きかかえる様にして
男は今度は耳元で話し始めた。
「おう、俺も喧嘩上等、すげえ好きだぜ?…でもよ、俺が好きなのは同等かそれ以上に強い奴と
喧嘩する事だ。…しかしだなあ、コレは喧嘩じゃねえだろ?寄ってたかって大勢でひとりを
イジめんのは本気で強い奴がする事じゃねえ」
次に、目の前に居た先程の標的の色白な子どもが目に入った。
「…お前もさ、多分余所から来たんで、ただ新しいダチが欲しかっただけだろ?」
見た目は大柄で何をされるのか分からない程の威厳を持って居たが、予想外に人懐っこく
話し掛けて来たので、素直に頷いた。
 男の見てくれは苛める子どもの側だったが、少年の頃過ごした環境は反対の方だった。
 彼の父親は太守で、いざ戦ともなれば先頭に立ち大軍を率いる将軍であった。
学問は好きではなかったが、好きなだけ学問や武術を精練する自由があった。
毎日食べて行くのが精一杯で、家屋は雨露を防げれば良い方だ、とされたのが一般人とすれば
彼が子どもの頃過ごした社会は先程苛められていた裕福な家の子どもと合致する。
「…じゃあ、どうしよう、大哥」
先程拳を上げた子どもの方がぼそりと呟いたが、向いた男の方は相変わらず笑っている。
「ナニ、簡単だ。お前等が組めばイイじゃねえか。そうすりゃ、もっと強ぇ奴と喧嘩出来るぜ?」
―大概、こういう場で争い事を止めさせるのは平和主義者である。
しかし、今回そうさせたのは喧嘩を好み戦と聞いて血を騒がせる合理主義者であった。
静では決して無く、極限まで動の世界で生気を燃やす事に生き甲斐を感じるのだ。

「ほう―孫策殿。子どもがお好きなのですな。」
呼びかけられたのでしゃがんで子どもを抱えたまま後ろを向くと、初老の男が居た。
どうやらその男と先約がある様子だった。
「…ええ。昔からガキと遊んでばっかでした。俺のきょうだい、皆歳が離れてるんで」
「張大!この大哥を知ってるの?」
彼は働きに出ている親が多いこの一帯の集落の子どもたちの親代わりか取り纏め役になり、張大と呼ばれ何時の間にか慕われて居た。
「まあ、…かなり前から知らなくも無いようだが」
話し掛けて来た声に耳を傾け、微笑を絶えずゆっくりと天を仰いで話しかける。
「皆、空を御覧…間もなく一雨来る。傘の無い子は家に帰りなさい。」
それが号令だったのか、子どもたちは先程の喧騒やら何やらも何事も無かったかの様に紛らし、
思い思いに返事して八方に散らばって行った。
その中の一人が後ろを振り返りつつ、先程中心で苛められていた子どもに何気無く話し掛けた。
「…ねえあの人、全然恰好が違うけど…こないだの大根売りの大哥?」

(…虎が…言葉を話すの…?)
先程張紘に謎解きのようなものをかけられた喬は、先程から病床で一人よがりにあれこれと
考えを巡らせたが熱やら咳に魘(うな)されている頭ではめぼしい答えが思い付く筈も無く。
 そして結局謎解きをする前に、その謎自体を見たくなってしまった。
二、三日寝台から起き上がれなかった所為もあり目線が安定しない上足元がおぼつかなかったが、
屋外が見渡せる円窓に上半身を投げ出す様にして力な無く持たれかかると門の端から
張紘が見えた。

「(…えっ…!)」
―その次の瞬間、喬は『まぼろし』を見たのだと思った。
張紘と取り込んで居た人物が、それまでの自分の頭中に何十回も、何百回も現れて来た
存在の姿と重なってしまったのだ。
きっと、病んだ熱の所為で。
思わず両手で口を覆ってしまった。
―“あの”孫策が、この徐州の土地に居るはず無いではないか。
続けて身体が足からその場に崩れて行きそうになったが、震えつつも持ち堪えた。
しかも今こんなに近くで見る事は、幾ら偶然でも絶対考えられなかった。
だから今、目の前に居るあの方は『まぼろし』なのだ。
(―確か大…さっき虎に会う、って…)
 喬は朦朧とした頭で思いを巡らせた。
 ではあの姿は、その虎が変じて姿を異にしているのだろうと。
しかしそうなのだと勝手に解釈しても、彼女の足は自然と邸の中庭から門外に向かい、
二人、いやひとりを目指して進もうとしていた。
「……ん…さく…さま…」
今の喬にとり、その姿は例え幻影でも構わなかった。
ただもう一度、彼の姿を眸に焼き付けたいと願った。
恐らく立っているだけでも目が眩み立ってはいられぬ状態だったが、それでも足は前へと
進んで居た。
遂にはその歩みさえも速め、走り出した。
門までの距離が、この時ばかりは恐ろしく長く感じられた。

先程から白んで居た雲は、徐々に黒く澱(よど)みながらいつの間にか空の大部分を埋め尽くした。
再会を果たした二人は一瞬空気を固まらせて暫く見合っていたが、孫策の方から口を開いた。
「…張紘殿。まさか門外まで出向いて頂けるとは思わなかった。御足労お掛けしました。」
そう言って敬礼する男は、顔こそ同じだったが先日の初見とは品も態度も違うものに見えた。
「前の物売りも、あれはあれで良かったがやはり、君は正に描いた様な武人だ…見違えた。」
自分では既に全く感じていなかった事に感銘されたので、彼は失笑した。
「…でも前回“それ相応の恰好”とおっしゃったのは…アンタ、張紘殿だぜ?」
孫策は今度は馬を連れ、鎧を纏って正装をして来たのだ。
一級の言士に会うのだという敬意を払い。
「…この間、君は腰を庇っている様に私には見えた。隠していたって分かってしまったが…
本当はまだ、鎧が着れぬ程には怪我が癒えていないのだろ?」
張紘は戦人ではないが、年の功で沢山の怪我人を見て来たので。部分が見えずともそう悟った。
痛みこそ顔に出していなかったが、孫策は張紘に向けて余裕で笑みを見せた。
「…貴方が俺にとってそうすべき、それ程の人物なんだ、と俺が見込んでいるんです」
そう毅然として言い放つ彼の目線は、正面の男の喉笛に食らい付いて放さない。
「孫策殿。君は…若いのになにゆえ其処までしてこの歳を得た私、張紘と繋がりを作ろうとする?」

普段から言葉を急ぐ性格ではなかったが、本心で得た答えをゆっくりと返して来た。
「…繋がりか、何なんだか俺には分からねえが…」
其の時ひと欠けの雷光が轟いたかと思うと、豪雨を予感させる水滴が、不気味なまでに
間隔を持ちながら幾つか落ちて来た。
「そう云うのは、俺だけが“作る”モンじゃねえ。アンタと俺との間で“出来る”モンだ」

これと同時の瞬間、この緊張した空気を縦に切り裂く様な激しい雨が堰を切って降り始めた。
前回、勢いがありそうに思ったので先程奥方の前で虎やら何やら、と仮定してみたものの
その一言を耳に入れた時、張紘はこの時本気で『孫伯符という名の虎に食われそうだ』と思った。
それは良い意味でもあった。
勿論、今までに見知っていた中央や地方の権力者と大雑把に比べると、孫策は若すぎるその歳や
いくさ場の経験数からして、他に及ばぬ事甚だしい。
―だが『未知数』だ、と思った。
知略を巡らせても到底探り得ぬ部分を持ち合わせるその若さに魅力に近いものを感じたのだ。

それは孫策の前出の欠点を補ってまだ余りあるものであった。
しかし、張紘の決心はまだ決まらなかった。

 その時、邸の門外まで走り出た喬は、数歩先の橡の木影で見合っている二人を見付けた。
やはり先程張紘と相並んで見えたのは紛れも無く孫策だった。
滝の様な雨の御陰で気配を消す事が出来た彼女は、熱で消されそうな意識に足を取られながら
目の前の二人の会話を必死に聞こうとした。
言い争っているわけでもなかったが表情も真剣で様子が尋常ではない、と思ったからだった。
…もしかして孫策が名士と知られている張紘の玉言を求めに来たのか、とも。
しかし今の喬は具体的な思考が出来る状態ではなかったので、恐らく断片的な概念である。
自らの気配を殺している彼女の存在に気付かない張紘と孫策の会話は、徐々にではあったが
終末に向かおうとしていた。
張紘は孫策の存在に魅力を感じてはいたが、今のところは助力しようと思うまでは到らずにいた。

「…孫策殿。しかし私は、今はまだ宿り木を定める時期では無いのだ」
というより彼は、まだ時期的には外海に飛び出す事は許されない、と自分で自分を戒めて居た。
其の時には、先程から振り出した雨は豪雨というに相応しい量になった。
その激しさは空気の空白を遮り、張紘を打ちつけ、孫策を打ちつけ。
会話も遮り、近くで耳をそばだてなければ聞こえぬ程であった。
「俺が…若過ぎるからですか」
彼は表情を変えなかった。
そして、それ以上なにも言おうとはしなかった。
「いや…そう云うわけではないが、…」

その時、雨天の空に胡蝶が舞った。
「…大…」
張紘の背後から声になりきれていない弱々しい言葉があった。
彼女には、国の情勢やら戦の事などは何一つも分からなかった。
恐らく目の前の二人が居るのはごく一部の、限られた男にしか理解し得ない世界だった。
きっと、孫策も其処に居るのだと思った。
しかし、
自分が其処に立ち入ろうとしても恐らく無駄なのだと分かっていたが、今の喬はそうせずには
居られなかった。
その時、初めて気配に気付いた張紘は、腰も抜けんばかりの様子で目を見開いた。
病床に就いていた娘のような存在が、豪雨降り頻る中に這い出て来てただずんで居たのだ。
「…玉蝶!どうしたのだ!…お前、そんな身体で」
驚かない方が可笑しかった。
「…えっ」
孫策の方は、彼女の方を見やったまま少しばかりの間動作を行うのを完全に忘れていた。
瞬きもせず。
彼の方こそ、この時は本気で彼女の存在が幻影に見えた。
「…喬…!?…何で…お前が…こんなトコに」
先日見た夢の残像が、昇華出来ずに現れてしまったのかと思った。
そして、張紘の奥方が今やっと状況に気付き、タイミングをずらして外に飛び出して来た。

「……」
言葉にしようとした喬の息は喉を震わせる事もなく、虚しく外に流れた。
(…声が、出ない…)
『大、どうか孫策さまの御力になって差し上げて下さい』
―その一言さえ言えれば良かったのに。
故に張紘には、その言葉の唇の動きの断片しか伝わり切れなかったと彼女は思った。
(…孫策さま…どうか…)
その次の瞬間、喬の意識は完全に宙に飛び、失われた。
ぐらり、と音でも出しそうな程に傾き、肩から地に倒れ込みそうなったその果敢なげな身体を
横から飛び出して咄嗟に支えたのは孫策だった。

「…―すげえ熱」
微熱がいつの間にか生命を脅かす高熱に変じていた。
掌で額に振れた瞬間彼は表情が一変し、着込んで居た外套を雨がかからぬ様に上から被せた。
総じて本能的な行動であった。
言葉をかけたり彼女の名を呼んでみたりする事も忘れてしまっている程に真剣になっていた。
その姿を見た時、張紘は喬を抱き上げて屈んで居た孫策に目線を合わせた。
「…孫策殿。頼みだ。…玉蝶を…このまま私の邸内に運んで下さらぬか」
先程まで門前で追い返されそうな気配を感じていた孫策は、思わずふいと彼の顔を見た。
「…それは構わねえが…なあ、張紘殿。…俺を…面識知らねえヤツを、御屋敷ン中に入れても
イイのかよ?」
「急を要する上、私は腰が悪くてな…。恥ずかしい事にこういう場面で絵にならんのだよ。
…それに」
「…それに?」
聞かれて、張紘は静かに言った。
何か境地でも得たかのように、微笑さえ浮かべて。
「君こそがその役に相応しい、と思ったのだ。…そして後で、存分に語ろうではないか、雄図を。
君と、この私の」
この時、二人の耳に雨音は存在しなかった。