短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」十一


 現在の位置で言えば海沿いの江蘇省辺り、江水の大いなる流れはこの徐州から始まる。
 これから数百年下った後に隋の煬帝がこの内の海の玄関都市南京・蘇州・揚州といった一帯に
大運河の要塞を築き上げるのだが、その数百年前のこの漢末の時代でも、この地方は既に運河の街・
水の都として「地上之天堂」或るいは「魚米之郷」と呼ばれ、物産の豊富さで江南地方の
商業の中心を担っていた。
 街中でも郊外にも大小の運河が文字通り細い網目の様に四通八達し、黒い瓦と白い壁という
その江南という土地の民家特有の鮮やかな対照(コントラスト)が水面に映え、水墨画の様な
風景を創り出していた。
 喬は、今まさにその徐州・江水の入口の都市である広陵に居た。
 彼女の父親の友人で、気も穏やかで才も名士であったが、昔からいささか放浪癖のある張紘という
男の邸で過ごし始めてから幾月が経ち、既に春から季節が変わろうとしていた。
 そもそも徐州に喬が向かったのは、臥せって危篤の容態であった張紘の母親に“再び逢いたい”
という、ひた向きな一心からであった。
その後、相当に高齢というのもあったが、その母親は妙薬による延命などを行わずに、ひと月前の
明朝頃、静かに息を引き取った。
 喬が広陵に到着するまでは意識も戻らない昏睡状態であったが、彼女が来訪して直ぐに
その手を取って細い声で呼び掛けたところ、奇跡的にその眸(ひとみ)を開いた。
その後は起き上がって喬や張紘の奥方と会話が出来るほどにまで快復したが、それは恐らく
高齢ゆえ、呼ばれが近い者たちに天から与えられた安らぎであったのだろう。
 喬の手を取って安らかに逝ったその最期は、まるで眠るようであった。

 その死を悼み悲しんだが、張紘は当時の様に実母に対して、実の孫であるかのように接してくれた
に心底から感謝した。
張紘の奥方も、彼女の存在が如何程この時期に自分を支えて穏やかにさせてくれたのか
はかり知れなかった。
―喬公が“自分の命より大切な娘たち”、と常に詠んでいたその故が分かる様な気がした。
 そして、母の喪が明けたら喬を皖に居る彼女の父親の元へ送ってゆく事にし、その旨を
書で伝えた。
 当時であれば喜ぶべきことなのだが、独立した我が子たちは皆男で、幾らか華やかさに欠ける
家庭を築いて物足りぬ思いをしていた張紘には、花よ蝶よと喩えられそうな喬を親元に戻すと
云う事を実は名残惜しいと思いながら。
 それを口に出してしまうと喬が気を遣ってしまうのではと思った彼は、せめて彼女が今回家から
持って来て自ら庭の浅池に種を蒔いて育ててくれた小さい蓮の花を、自分の夫人と「娘のように
今後大切に育てよう」と話した。
 その小蓮は、種類の中でも径の大きさが最も小さい類に入るらしく、おまけにその花付きもあまり
良くないと来ていたが、喬が水をまいて数日すると、もれなく丸みのある非常に愛らしい花を
開かせ、まさしく「天上の花」と呼ぶに相応しく。
 また亡くなる前に床から半身を起こしその庭池の蓮を嬉しそうに眺めて居た生前の母親の幻影も
その水面(みなも)に映る様であった。
 その花の姿が、育つたびに日々非常に喬のそれと重なったので先日、理由は告げずその蓮の名に
ついて何となく訊ね聞いたところ、目線を水面に描く其の方にやって、静かにこう言う。
「―“玉蝶(ユーティエ)”というそうですわ、大(おじさま)。」
その名も正に“最初からこの娘の為に付けられたのではないのか”と張紘は一瞬思ってしまった。
 こんな狭い庭の泥池の濁りに染まる事も無く、清らかで可憐な花を咲かせる姿。
『この“天上の花”に手が届く快漢はさあ、果たして何処かにいるのだろうか?』なんて俗な事を
五十路の男が考える余裕が今だに持てるほど、広陵では比較的穏やかな日々が続いた。
 しかし、海沿いでは政乱の波風はまだ余り感じられなかったものの、この徐州西北部の州との
境の泗水流域や豫州境の彭城といったような政治都市では、徐々に曹操からの攻撃という名の圧力が
始まる、という緊張感が走っていたらしい。

 この日も張紘は数日前に徐州太守陶謙の出張先に召し出されて、白昼前に邸に帰って来た。
徐州中心部が緊迫している事を聞かされ、この地の政治的傘下に入らないかと遠回しに懇願されたの
はさあこれで何度目か、数え直すのも面倒になって来た。
 本当であれば母の喪が完全に明けるまで外で動きたくは無かったのだが、この地方の上の者たちは
政治的理由を軸に自分達の都合で人間を動かすため、我侭を言ってみる気も失せた。
 こうなったら、彼は機会があれば徐州を逃げ出して南に楽郊を求めてやろうか、なんて
考えたりもした。
 実際、ここ最近北方では大なり小なりの戦乱が続き、民衆は次々に南へ南へと移動していたのを
張紘は知っていたからである。
 彼自身が分かる範囲で調べを入れただけでも関中から荊州に動いた民の戸数はざっと見て
十万戸を数えた。
 それは揚州、つまり江東地区にも同じ事が言え、ここより北部の青州済南・東莱、またここ徐州を
海岸から西南西の方角に斜めに丁度真っ二つの部分で横切っている淮水流域の下地域の人々が
その方向に避難・移住しているという事も知っていたが、それに関しては彼も具体的な記録の数字を
得る事は出来なかった。
 しかし、幾つか人づての噂で聞いただけで、前者に劣らない相当なものなのだろうと大方の見当が
ついた。
 こんな事を考えている張紘の目先は既に、覚えずとも南に向いて居た。
比較的平和地点である荊州はここ最近知識人が多く集まっているという事だったが、張紘は
文士としてそういう者たちと同じ様につられて荊州に移ってしまうのは、何故か少しばかり
面白くないと思ったのか、気が向かなかった。
 彼の人間的部分の一部は、誰も気にしないようなそういう、どうでも良い部分で変わっていた。
(―ならば、江東か?…しかし…。那里(あそこ)は後に一体、誰が得て治めるのか…?)
同時に数名の人物が頭をよぎったが、その名は彼の中で一瞬と持たなかった。

そんな事をぶつぶつ考えていると、何時の間にか乗せられていた馬車が自宅に着いた。
 別段広々とはしていないが、丁寧な造りをしている門戸を慣れた様に珍しげも無くくぐると、
路地の左右にこれ又小さげな蓮池。
 その路地の真中で、幾つかの花の開きを見守っていた喬が居た。
自分の帰りを待っていてくれたのだろうか。
 態々(わざわざ)気配を示さずとも彼女は直ぐに張紘に気が付き、微笑みながら歩み寄った。
「―お帰りなさい、大。」
周りの小蓮が咲頃であった所為か、彼は見慣れた筈のその少女の姿を正面にし、再度息を呑んだ。
親しい知人の娘だからという驕りではない。矢張り可憐なのだ。
―正に天上楽土に咲き踊る花と、その上方を舞う可憐な胡蝶の姿を一人の人間に形容させた様な。
「―玉蝶…」
「えっ…大…?」
思わず蓮の名をつぶやいてしまった張紘の顔を、喬が下から不思議そうに見上げた。
「…ああ!すまないね。ははは…。私とした事が、いつも以上にぼんやりしていた様だ。いや、
それにしても大喬。私には君の呼び名が、昔から“玉蝶”だったのではないか、といつも思って
しまうのだよ。」
「まあ。玉蝶…私がそんな名を持てていたなら、どんなに素敵でしょう。私…自分の名前は
“大喬”としか呼ばれた事が…」
無いんです、と笑って続けようとした。
しかし途中でその言葉は止まり、喬は顔を色に染めてうつむいてしまった。
―違った。
 たった一人、自分の事を本当の名で呼ぶ男がこの世界に居る事を思い出した。
(……孫策さま)
その男の名と姿を頭中によぎらせた途端、外からは見えない胸の一部分が急に締め付けられたような
気分になった。
自分の中でほんの淡い思い出とし、年を重ねればきっと自然と小さくなり断片のみが残る。
憧憬の思い出とはその様なものなのだろう、とかなり前に柔らかく納める事が出来たつもりだった。
―違っていた。
 最初に出逢ったのは真冬であった筈なのに、当時の事を思い出そうとすると何故かその
場面の中を初夏の青嵐が吹き抜け、彼女の記憶をこれでもかと云うくらいに狂わせるのだ。
 しかしそんな記憶の中でも彼の姿だけは間違わずに存在し、自分の事を護ってくれていた
ような気がした。
今でも、耳には自分の名を呼んでくれた彼の心地よく低い声が鮮明に残っている。

―今、あの方は一体何処に居るのだろう。
いくさ人とされる男達がどういう場所でどの様な生活を送っているかなど、まさしく庭の
温室で愛で育てられたような喬には想像が付かなかった。
 ただ、皮肉ればその様な周りの俗事と接点の無い環境で暮らしていた彼女がこの様な
いくさ人について思考をするのが出来る様になった事自体が恐ろしい成長であり、変化で
あったのだ。
孫策とあの時に逢っていなければ、それこそ完全な“天上の花”として一生を過ごしていたのかも
しれなかった。

ただ今は、どんな姿になっていても構わないから。
―簡単にはもう逢えないと分かっているから。
―男女の関係ではないという事も分かっているし、憧憬のみで良いという事も重々刻み込んでいる
つもりだから。

だから、あの男にもう一度逢いたかった。

「……どうしたのかい、大喬」
知らぬ間に思い詰めた表情になっていた喬に、何も知らぬ張紘が心配そうに声をかけた。
「―えっ!…ご、…御免なさい大…私ったら考え事をしてしまって、」
顔を赤らめた彼女を不思議そうに見た後、張紘はゆっくりと言った。
「いや、いいんだ大喬…いや、玉蝶。」
 その時、自分の事を初めて花の名前で呼ばれた喬は少し新鮮に驚いた様子で張紘を見上げた。
「実は少し前から妻と話して居たんだがね。君が皖に戻るまで…恐らく残り僅かだと思うが、
私と妻は君の事を“玉蝶”と呼ばせて欲しいのだが…どうだろう」
 それを聞き入れた瞬間、彼女の面が更にぱっと明るくなり、嬉しそうに張紘の袖に触れた。
 まるで美しい歌姫のひとりになった様な気分だった。
 家に新しい花がもう一つ咲いた様で、張紘も思わず笑みがこぼれた。
「えっ、玉蝶…!私が…大、すてき!嬉しい…何だかまるで胡蝶が舞っているみたい…」
その時、“胡蝶”と自分で言ってみた瞬間喬は、以前孫策が自分の名前を胡蝶の名の一つ
だと、彼の友人の周瑜に例えて不器用に誤魔化していた事を思い出してしまい、再び赤面した。
「おや、…今度はどうしたのかい」
 再度張紘に聞かれてしまったので、「いいえ何も」と慌てて返事しようとしたら声が少しだけ
かすれて来た様に感じた。
数日前に風邪をひいて喉を悪くしていた事を彼女はすっかり忘れて居たらしく、一つ咳もした。
「風邪が完全に治ってなかったようだね。…今日はもう横になりなさい、玉蝶」
そう告げて喬と共に張紘も戻ろうとしたが、背後の門の所に一人の小さい客人が走って来た。
どうやら近所の子ども集団の一人らしく。
「張大!こないだの売東西的小人(物売りのお兄ちゃん)がまた来たよ!」
 どうやら最近、水運が中心のこの辺りの地域では稀少らしい、生きの良い野菜を隣の町から売りに
来る男が居るらしい。
 そういえば喬もこの頃、張紘の奥方が作ってくれる夕餉に野菜が増えて夜が楽しみになっていた
気がした。
 子どもからそれを聞いた張紘は、待っていましたとでも言わんばかりに手を捏ね合わせた。
「おぉ、おお。江都の大根が又食える!…どぅら、じゃあ少し見て来るかな。
…玉蝶、私は晩の肴を買ってくるから、君は先に内に戻ってゆっくり休んでいなさい。良いね?」
 余程に大根が食いたかったのか、飛び跳ねる様に遠ざかって行った張紘の後姿にはい、と聞こえる
か聞こえないかという様な返事をして邸に戻ろうとしたところ、まだ門のところに先程の子どもが、
ずっとこちらを向いて立っている事に気が付いた。
「…あら。どうしたの?」
 その手を見ると大きな柘榴(ざくろ)の実を枝ごと握り、足はそわそわしていた。
 喬が不思議に思って近づくと、その子どもはおもむろにその柘榴を彼女の前に差し出した。
「うわあ、大きい…若しかして、これ…くれるの?」
 手渡されたものを示しながら目線を合わせて聞いてみると、勢い良くその子どもは二回程頷いた。
「いいの?本当に?嬉しい…ありがとう!私、小さい頃から柘榴大好きなの」
 彼女に頭を撫でられたその子どもは、顔をまるで茹で上げたかのように赤くした後、勢い良く外に走って行った。
―何時の間にか、子どもからも気にされる存在になっていたらしい。


 張紘が門を出た直ぐ近くの場所で、先程子どもから報告を受けた物売りの男が、
隣町から天秤棒と台車に山積みして運んで来たと思われる大根と早西瓜を筵(ムシロ)に並べて
売っていた。
「蘿 蔔 賽 梨 , 辣 了 換!」
  luo bo sai li ai, la le huan!
(この大根凄いぜ?梨より甘いよ!若し辛かったりしたら取り換えてやるよ!)
 しかも今回は更に盛況らしく、その男が一遍豪快に呼び声を上げるだけでそこら
近所の、野菜の質にこだわる大人達が多く群がって順に買い急いで行った。
 恐らく、隣町から態々綺麗な野菜を売りに来るのは季節の変わり目であったからである。
 張紘も主婦どもに負けじと人間団子の中に入り込み、良さそうな大根を2つ目星を付けて
買い上げた。
「…こりゃあ旨そうだ…。」
 早速それを抱き上げて立ち上がった直後その物売りの男は更に調子を上げたらしく、今度は
大き目の西瓜を持ち上げて歌文句の様な呼び声で再び張紘の足を止める。
「おっさん!今度は西瓜!(銅貨)二枚だぜ!おっさん見て御覧、戻って来て御覧ほら、頃合で喉が
甘くなるぜ、二枚だってば。氷砂糖の塊、砂糖の塊、八月十五日の月餅の餡子、頓馬な蜜蜂が
ここに蜜をためやがったんだ。二枚だぜ!」

「………」
 その直後気が付くと彼は、予定に無かった西瓜まで余計に抱えていた。
そんな張紘を尻目に、あの物売りの男というか青年は、この近所の熟女達と談笑まで
交わしながら運んで来たものを次々に売りさばいて行く。
「大哥!辛かったら取り換えてやるってアンタ、食べなきゃ分かんないじゃないか!」
「っはは、まァ、確かに新品と食い端は換えらんねえが、なぁに。阿姨(おばちゃん)の
口に入ったらどんなひねくれた大根も骨抜きになって甘くなるって。というかこの俺が
この目で選んで持って来たんだ!ハズレなんて有り得ねえ」
 物自体が良い物だったからまあ良いかというのもあったが、この物売りの青年にしてやられ
たというか、この青年が物を売るのがうま過ぎるというか。会話がうまいというか。

 その次々に物と金と人が入れ替わる光景を、何故か張紘は邸に戻らずにじっと見詰めていた。


それから暫く経たないうちに、初老の客が最後の大根を掴み、中腰の姿勢で帰って行った。
「大哥、またイイのがあったら宜しく頼むよ」
何時の間にか、その場所には座ったまま手を振っている物売りの男と、張紘のみが残された。
「っはは…へえ、広陵ってトコじゃあ野菜がすっげえ売れるんだな。」
独り言なのか張紘にも振っていたのか、男はそんな事を呟きながら筵を畳んでしまおうとして
立ち上がった。
どうやら、張紘がこの物売りの男に用事があったのだ。
「大哥…君は、」
その時、やっと口を開いた張紘の視線と、彼のそれが出会った。
男はじっと顔を向けたまま、返事はしなかった。
「大根やら西瓜でなく…私にもっと“売りたいもの”があるんじゃないのかい?…まあ、仮に
それを『我論』としておこうか。…若しくは君が、私からそれを“買いたかった”、か」
その張紘の言葉に一瞬だけ眉根を寄せたが、それでも男は黙っていた。
「君が売っていた物は…確かに旨そうだった、大根など本物以上、逸品だ。…しかし、それを
売っていた君自身のいつもの姿は果たして、“物売り”なのか?…この張紘から見れば
大哥、…君は物売りにしては幾分、体躯が良過ぎる様に思うんだが?」
そう言って微笑しながら張紘は、目前の男の鍛え上げた筋肉で太くなった二の腕を思い切り
鷲掴みにした。
「少なくとも野菜と西瓜を天秤棒で担ぐだけじゃあ、肩は幾らか頑丈にはなるかもしれんが
腕までこんなに立派にはなるまいて」

 目線は動いたが表情は変えず、その腕を掴まれたまま男の方も呟いた。
表情は変わらなかったものの自分の内の何かを察されて、少し驚いた様子だった。
「おっさん、アンタ、……いや、張紘殿はまさか、俺が若しかして“いくさ人”だとでも?」
「いかにも。何より、君はその目付きが違う。」
―戦乱の渦中に、今すぐにでも頭から飛び込んでしまいたそうな目をしている。
 距離が近くなったので張紘は、今ここで“いくさ人”と銘打った男を見上げた。
「確か…今から半年程前か。『荊州の襄陽で南の巨星が墜ちた』と聞いた。そして、その巨星の
倅のみが、父親の残軍と共に元仕えて居た寿春の袁術に加わらず現在行方不知だと。先日、
徐州の太守陶謙殿が境域内に『それらしき青年を見つけたら警戒し、洗いざらい構わず拘束せよ』と
陰にふれ渡したと聞くが…まさか。ここに居ます、とか言うんじゃないだろうね?」
 張紘にそう言い投げられた男は表情を相変わらず変えない。
「…だとしたらどうしますか」
―随分と買いかぶられたモンだな、と何だか面白く思ったりはしたが。
「どうもしないさ。…陶謙殿は私にとって黒でも白でもない。ただ、あの男単体は和を重んじるが
いかんせん下が良くない。陶謙殿が州に発令したものの七分八分は、その下の県令に行った辺りで
大袈裟に改竄されている」
実は、久々に他人と頭中に埋もれていた話をする事が出来て、張紘の声に幾らか艶が出て来た。
その表情を見て、次に顔を合わせて来たのは男の方だった。
「そういう頭のイイ奴等に限って裏の見えねえトコで血を流すんだ…陰鬱だぜ。戦の方がマシだ」
そう吐き棄てる様にぼやくと、再び張紘に対して男は敬語を使った。
「張紘殿。…今日、俺がこんな恰好をして広陵に来たのは、貴方が自然に周りに見せる“人となり”
を見たかった為です。」
「そうか。そうだろうと思ってたよ、…『孫策殿』。では、君が次に是処に来る理由は」
―張紘は、目前の男の名を既に知っていた。
「このバラけまくった時世にこれから、貴方と俺がどう対処するかを明確に識る為」
そう言うと、孫策と呼ばれた男は余裕さえ残しながらにやりと笑った。
「…では次は、“それに相応しい姿”をして来られるのが宜しかろうな。…まあしかし、もっとも
この張紘はまず“その話”に乗るも乗らないも申してはおらんが。」
それは、諾不諾の前にいくさ人らしく正装しこちらに赴く事である、と孫策は本能的に理解した。
「じゃあ、今…その御返答は貰えますか?張紘殿」
張紘は首を振った。
「…分からんなあ。実はまだ、実母の喪に服しておる身ですからな。返答は次回の時にこの私から
直接聞いて戴こうか。」




 広陵の川岸では、周辺の都市に向かう商人達の渡し舟が犇(ひしめ)き合っており、時間を空けず
人やら物やらを乗せて頻繁に行き来していた。
「急げ仲謀、あれ!出るぞ!」
ほぼ陸を離れかかっていた隣街の江都行きの一艘を見つけ、小さい弟を担ぎ上げる様にして
飛び乗る兄弟が居た。
どうやら、弟の方が時間ぎりぎりまで市に入り浸っていた為に乗り遅れる寸前だったらしい。
先程の孫策と、市に用事が有ったらしく付いて行きたいと初めてごねてみた孫権だった。
「あ、あの、すいません兄上…」
流石に肩に弟と、左手に大袋とでは息が切れて仕舞っていたので弟は詫びて居たが、最終的に
乗る事には成功したので彼は笑っていた。
「…っへへ…なぁに、間に合ゃあイイって事よ。しっかしお前、…こんなに大量にナニ買った?」
ようやっと腰を下ろせたので、弟の戦利品らしい大袋を覗いてみた孫策は思わず絶句した。
「…うっわ!何だよこりゃ。全部クズ人参じゃねえか」
仔馬やら向けの、悪く言えば小さ過ぎる家畜の餌用の人参であった。
「だって、…貝貝(ベイベイ)が人参食べたそうだったから…。」
「おい仲謀…まさかよ、貝貝ってあの座布団の名前なのか?ッケー!ベイベイかペーペーだか
何だか知らねえけど可愛らしい名前付けやがって。あんなの座布団て呼びゃあイイじゃねえかよ」
孫策が以前、その“座布団”に夜中寝ていた時に乗っかられた厭な思い出があるらしく、
表情を露骨に歪ませた。
「兄上、貝貝は座布団じゃないです、うさぎです!」
孫権が自分と大きさが左程変わらない人参袋の口を必死にねじりながら苦しい弁明をした。
どうやら、以前舒に居た頃に周瑜が拾って来て孫権にくれた、あの仔兎の事を指している様だった。
それにはお構いなく、孫策は右掌を窄め勢い良く弟の前に差し出して来る。
「…ちゅうかアレって大きさ元々こん位だったじゃねえかよ。何であんなにでかくなるんだよ!?
確か周瑜だろアレくれたの。今度会ったら餌代せびってやろうぜ」
「兄上!周郎を責めないで下さい」


 隣接する江都行きの船の上で先程の仮の物売り男だった兄弟が無駄話を続けて居た頃、
広陵の名士張紘はあの後、自邸の庭池の小蓮を眺めつつ夕方頃まで外でぶらぶらと過ごした後
「今日は良い物が手に入ったよ」と奥方に話し、その間西瓜と大根を担いだままだったらしく
無駄に体力を使ったようだった。

その時喬は風邪の兆候を感じ始め既に横になっていたが、この日辺りから少しこじらせたらしく
微熱と咳が出始め、この後数日寝床から出られなくなった。