短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」十


―その心地の良い瞬間というのは予告無く訪れた。
 頭のてっぺん辺りが何だか、ふわふわして軽くなった。
 気が付いて顔を上げて見たら目の前に、自分が小さい頃見知っていた風景が広がっていた。
 “懐かしい”という感情の前に、その時は誰かを必死に捜していたみたいで、
黍(きび)畑の間の畔道を疲れるという感覚も持たずに、ただ只管(ひたすら)走り続けていた。
今こうやって走っているのは紛れも無く自分の筈なのに、
 横に広がる黄金色の黍たちの丈が恐ろしく高く、
 見上げようとした柑橘色の混じった様な青空は、見付ける迄に遠く。

―小さくなっている。
正にあの頃の、子どもの頃に戻ったような自分。
(―…何だか俺、ガキになってねえ?)
 そういうぼんやりした事を考えてみるも一向に走るのが止まらないところを見ると、
今ここで自分がやっている諸々の事は、恐らく現実でなく。
それ以外は何も分からない。

 そのまま続けて走っていると、目の前の道を自分より更に小さい4、5歳くらいの男の子が
父親と思われる男に手を引かれ、ゆっくりと歩いている。
仲良さそうに、交互に歌を詠みながら進んで行く。
後ろから追いかけて来た自分は捜していた誰かを見付けたようで嬉しそうににっこり笑い、
「親父!」と叫んで背中から驚かしてやろうかと一瞬思ったが、前の二人が詠んでいた歌が
面白かったらしく、そのまま黙って付いて行きながら耳を澄まして聞いていた。

  曰 遂 古 之 初  /曰く 遂古(すいこ)の初(はじめ)
  誰 傳 道 之    /誰(たれ)か之れを伝え道(い)える。
  上 下 未 形    /上下(しょうか) 未だ形(かたち)あらずと、
  何 由 考 之    /何に由(よ)ってか之れを考えし。
∴そもそも天地開闢以前の太古の大昔の事など、何処の誰が一体言い伝えたのだろう?
 天と地とがまだはっきりと形を成して分かれていなかった、など何を根拠にして考えたのだろう?

 今から何百年か前の、紀元前四世紀頃の最初にして当時最高の詩人、屈原の作で恐らく
「天問」と思われた。
 全部で九十五節もあるが、前の二人は文人でもないから印象のある節を恐らく部分的に、
飛び飛びにしか頭の記憶には無い。
覚えていた節を適当に詠んでいる様だった。
 正確である必要は無く、父親の一節を一緒に歩いている子どもが楽しそうに続ける。
―自分の弟。
 言葉もやっと覚え出したような子どもなのに流暢に聞こえて来たのは、彼が幾分か賢いのと、
先程も言った様に恐らく、この今の世界が「現実でないから」だと思われた。
そもそも、先日死んだ筈の父親がこうやって目の先で生きていると云う事自体がおかしいから。

  圜 則 九 重    /圜(まる)くして九重(きゅうちょう)に、
  孰 營 度 之    /孰(だれ)か之れを営み度(はか)れる。
  惟 茲 何 功    /惟(こ)れは茲(こ)れ何の功ぞ、
  孰 初 作 之    /孰(だれ)か初めて之れを作れる。
∴天はまるい形をして九つの層に重なっているというけれど、誰が一体それを設計したの?
 その九つの天は、一体どうやって工事して組み立てたの?
 そして、最初にそれを作ったのは誰なの?

 父親はそれを微笑しながら聞いた後、「そうら。」と言って、自分の弟らしき男の子を
肩の上に担ぎ上げた。
 肩車された弟は「わぁ」と一言驚いた後に表情は嬉しそうになり、ふと振り返った
その目線が後から付いて来ていた自分に気が付き、手を振った。
「あにうえ」
 父親は、気付いたというよりは既に後ろから自分が付いて来ていたのを知っていたかの様に
体をこちらに向け、破顔一笑した。
「伯符お前、…小便にしては長いぞ」
「…ま、待っててくれって言ったじゃねえかよ!親父」
自然と返事が口から出ていた。
 子どもに戻っていたが、やはりこれは自分なのだ。
恐らく、最初は三人で歩いていて、途中で自分が用を足したくなって、長かったので何となく二人が
ぶらぶらと先に行っていた。
―ここまでの話の一連は本当に些細で、くだらなかった。

「しかしこの辺りからならば、お前もひとりで歩いて帰った事があるだろ?」
 現実じゃないのでどこに向かう途中だったのか分からないが、恐らく自分達の家にこのまま
戻っている途中なのだと思われた。
 今の会話で恥ずかしくなり耳を赤くした自分をよそに、父親は先程の屈原の「天問」を続ける。

  出 自 暘 谷    /暘谷(ようこく)より出でて、
  次 于 蒙     /蒙(もうし)に次(やど)る。
  自 明 及 晦    /明(あした)より晦(くれ)に及び、
  所 行 幾 里    /行く所 幾里ぞ。
∴太陽は東方から出て西方に泊まるというが、朝から夕方にかけてのその道のりは
 さて一体、どれ程あるのだろう?

 そうやって語る父の声は自分よりも、肩に担いでいる弟よりも一瞬だけ幼く聞こえ。
しかし、見詰めて来る視線は矢張りあの父親で。

 彼が太陽の節を思い出して読むと、今度は自分の弟が続けた。
対になる、月の節を思い出した様子だった。

  夜 光 何 徳    /夜光は何の徳ありて、
  死 則 又 育    /死して又育(い)くるや。
  厥 利 維 何    /厥(そ)の利 維(こ)れ何ぞ、
  而 顧 菟 在 腹  /顧菟(こと)腹に在るは。
∴お月さまにはどういうはたらきがあって、死んでは又生き返る(欠けてはまた満ちる)の?
 どういう御利益があって、うさぎさんをお腹の中に住まわせているの?

―何となく思い出した。
過去にこれと、かなり似た場面があった。
 武人の父が戦続きで、家にたまにしか戻れなかった時に弟と何処かに連れて行ってもらって、
そこから家に帰る途中だ。
何処に連れて行ってもらったのか思い出せないが、そんな事は別にどうでも良い。
しかし過去の場面とは言っても、そう考えている自分の時間も戻り、姿も幼くなっている。
―それじゃあ、これは“過去”ではないのか?
―“今”なのか?
「…はて、どうだったか…二十六節が思い出せぬわ。」
 何をどう考えて良いか分からなくなった自分をよそに、父はそんな事を呟きながら
肩車していた弟を下ろして兄である自分の背に半ば無理矢理担がせた。
無理矢理でも弟が自分にも背負えたのは、何度も言うようにこれが現実ではないから。
「伯符。すまんが、仲謀を連れて先に行っておれ。」
「―親父!?」
どうしたんだ、とでも言いたそうな顔を向けた自分に対し、父親は片腕を組んで遙か遠い空を
見上げている。
 もう一方の手を顎に当てたままその場から動かず、天問の第二十六節を思い出そうとして。
気が付くと先程の晴れた秋空が何時の間にか夕さりに見る見るうちに変わっていた。
瞬時に夕景色が落ちて来たのは、矢張りそれが非現実であるから。
「おぃ、親父!日が暮れるぜ」

 振り返って叫んでみると、その自分の声がつい先刻までの回想の子どもの声では無くなって居た。
今最も新しく知っている、17、8歳位の低げな青年、自分の声で。
「…あれっ、」
 見上げて居た黍の丈が、気が付くと簡単に見下ろせるようになっていた。
 背負わされた弟も、自分に比例して10歳くらいに歳が戻っている。
しかも焦っている自分をよそに、担がれて気持ちが良いのかすやすやと寝入っている。

(―じゃあ、親父は?)
慌てて後に目を凝らすと、その父はその場に突っ立ったままこちらを見ていた。
「…ああ、そうだそうだ。二十六節を思い出したぞ、伯符」
そう言うと、例えればまるで初めて歌を空んじる事が出来た子どもであるかのように、
嬉しそうな表情を自分に向けて来て。

  雄  九 首    /雄(ゆうき)九首、
  倏 忽 焉 在    /倏忽(しゅくこつ)として焉(いずこ)に在るや。
  何 所 不 死    /何(いず)れの所ぞ不死は。
  長 人 何 守    /長人は何(いずこ)を守れる。
∴頭が九つもあるという雄の大蛇が目にも止まらぬ速さで遊動しているそうだが、
 それは一体何処に居るのだろうか?
 不死の国というのはさて、何処にあるのだろう?
 まぼろしの長人国はさて、一体全体何処にあるのだろう?

そんな事を言う父は、あたかも幼な子に御伽噺でも聞かせているかのようで面持ちで、今まで
彼が見知っていた頑固とした武人のそれとは別のものであった。
「行け、伯符。」
第二十六節を言い終えた父、孫堅は振り返ってこっちをぼんやり見て居た孫策に向けて、
前方を指で示した。
「振り返らず、行け。」
「はァ!?…何言ってんだ親父」
不可解な彼の表情に対し、父は相変わらず微笑みかけている。
一緒に家に帰っていた途中だった筈なのに、何だか妙に不安になった。
父がいきなり、忽然と消えてしまいそうな気がしたのだ。
「案ずる事は無い、ただ真っ直ぐ行けばいいだけの事。…なあに、俺も直ぐ後から行く」
(―嘘だ!)
親父は来ない。
 彼がそう思った瞬間、先程からこちらを見詰め立ち尽くして動こうとしていなかった
父親の姿が、みるみるうちに白んで行くではないか。
父が、消えてしまう。
「親父、待て!待ってくれ親父!」
―聞きたい話も、話したかった事もまだ、あんなにあったのに。
―俺はまだ、アンタに親孝行なんて何一つ出来ていないのに。

消えて行く父の残影に向かって走って行こうとしたが、足が後方に動こうとしない。

「―親父!」
 最後に叫んだ彼の声は、自分自身を元の世界に戻したのだった。
 疲れは無い。
 しかし、心臓の鼓動だけがいつもの倍以上の速さになっていて、孫策は二、三遍程
荒い呼吸をした。
結構な時間が過ぎていた様子だった。
 辺りは既に彼が父孫堅の埋葬場所を訪れて数刻経ち、昼晴れていた為にその空は
夕曉で赤く染まった上から金粉でも蒔かれたような芸術品を造り上げていて。
今、彼の目の前にはその墓碑だけが静かにこちらを向いて居座っている。
全て、夢だったのだ。
(―寝てたのか、俺…。)
確かに、後から考えると武人の父が屈原の詩を詠んでみたり、自分が小さくなったり
大きくなったりする事など、夢の中でしか有り得ない。
(…しっかし、妙な夢だったぜ…。)
 髪を掻き揚げて頭を抱えてじっとしていると、一気に懐かしさと、虚無感とが
襲いかかって来た様だった。
まだ目も良く開いていないし、頭が完全に覚めてないまま懐辺りを見下ろしてみると、
兄に胸を貸されてここ数日ぶりにやっと寝入る事が出来た孫権が、静かに蹲(うずくま)っていた。
 涙を拭う事も覚えず寝息を立てて居たその小さげな顔を、起こしてしまわぬ様に掌で触れた。

その時だった。
「―痛つっ…!」
先日の襄陽で左腰に受けて仕舞った斬られ傷が痺れる様に再び痛み出し、孫策は顔を歪めて
その場所を押さえた。
(厄介なトコをヤられたモンだ…ったく)
思わず額から脂汗が吹き出たが、体勢を変えたら落ち着いたらしく直ぐに引いた。

 同時に、背後から聞き慣れた様な蹄(ひづめ)の音がしたので顔だけそっちに向けると、
父孫堅の片腕の四天王と呼ばれた者達の一人で、彼の挙兵以降付き従っていた
宿将の黄蓋という体躯の良い男だった。
 停戦後程普・韓当等と共に曲阿まで孫策に従って同行したが、その孫策が家族と
暫く単独行動する事を望んだ為、残りの将達と数日後に袁術郡の本拠地、寿春に
先に移る事になっていた。
「…若。この黄蓋、もしやと思うて居りましたが…矢張り、腹に手負いが」
 黄蓋は孫堅が太守を務めた長沙郡の比較的近くの南の零陵軍泉陵県の出身で、
その頃にお互い知り合ったのではないかと考えられる。
 今となっては武勇で名を挙げているが、元々は幼い頃に父を亡くして
貧困の中でも向学心を持ち続け薪拾いをしながら勉学に励んだ、という
真面目な履歴を持つ男だった。
 世代が自分よりも、父よりも上であったが、孫策はこの力持ちで予想以上に几帳面な
一面を持つ黄蓋に親近感を抱き、以前父親が布陣して不在の折などは良くこの黄蓋に
稽古を付けてもらっていた。
感覚的に言えば、『自分の父より相当に歳上な自分の兄貴分』といった感じか。
 しかし黄蓋にしてみれば孫策は長年使えた主君の長子であり、後継ぎである。
矢張り、どんなに親しくしていても黄蓋は孫策の事を敬意を込め『若』と呼び、
同様に弟の孫権は『坊ちゃん』と呼んだ。
それも密かな彼のこだわりであった。
「…若しや袁術殿の旗下に御自分だけ直ぐにお入りにならぬというのも、」
誰にも気付かれないようにしていたつもりだったが、あと一歩というところで
怪我をしている事を知られてしまったので孫策は痛みに耐えながらも失笑した。
「黄蓋、…見られちまったか。まあ…お前ならいいや。ああ、…まだこんなだから
防具がまともに着けられねえみたいだしな。それにしてもお前、…いつから其処に居た?」
「儂ですか。…なあに、たった今来たんですぁ」
 その気兼ねせずに言い放った黄蓋の目線の先に、兄の体に預けて眠っている
幼い孫権が居た。
「坊ちゃん…実は儂も若干気に懸けとったんですが、やっとお休みになれましたか」
ああ、と頷いて孫策も黄蓋の方を見上げた。
「…多分、こん位の歳の頃が一番辛いんだろうな。…しかもコイツ、人一倍気ィ遣うから」
それを聞いて居た黄蓋の目線は、その孫権を支える孫策の方に移っていた。
「…若は」
「俺…!?」
 自分を案じてもらうなんて今迄全く考えていなかった彼は、分が悪そうに苦笑した。
「俺か?ああ、何。俺は…大丈夫。心配ねえ」
―多分。
 そこで長引かずに話を紛らせてしまおうと、弟を先に家に連れて戻る様に黄蓋に告げた。
黄蓋は孫権を片手で抱え、自分が連れて来た馬に乗せた。
「若。…儂や程普らは、明日…」
彼は一足早く、この若い将に出立の礼を述べに来たのだ。
続きはもう不要と言わんばかりに、孫策は頷いた。
―曲阿を発つ。
「お前等には親父も俺も、凄ぇ世話になった。うん。…元気でな。」
「―若、」
何か言いたげな黄蓋をよそに、孫策は握手でもしようと一方的に右手を出して来た。
「まあ、俺も遠からず袁術陣営に顔出すと思う。だから機会があれば黄蓋、きっとお前等にも
近い内に又逢えるだろ。」
 それを聞いた黄蓋がにやりと笑って握手の右手より早く彼の前に差し出したのは、
丁寧に折り畳まれた書状だった。
「なぁに。若、…“きっと”じゃありませんぜ。」
“きっと”では無いというのは、『そんなに曖昧でない』という事なのか。
黄蓋が彼をここまで捜しに来たのは、これが理由だった。
覚えにアタリの全く無いそれを受け取った孫策は、微妙な表情をした。
「へっ。おい…何だこれ?見ていいのか…俺が」
黄蓋が頷いたので書状を広げた瞬間、彼の全身には電流が走ったかの様な波が襲った。
孫堅軍の中で大中部隊を率いて居た武将、十数名の署名と、自らの血による血判がその中に
連ねてあるではないか。
(こりゃ、血判状だ…!)
持つ手が震える。
元々烏合の軍ではなかったので数で言えば大人数というわけでもないが、『孫家に我が命を
懸けての忠節』を誓い合った粒揃いの精鋭たちがその中に名を挙げていたのだった。
これを目に入れた孫策は声を挙げずとも静かに興奮して、その血が沸いた。
父孫堅が死んだ事により、自軍は散り散りになり部隊は解散した事を受け入れた
筈で、彼もとっくの昔にそうなったのだと思っていた。
しかし、父孫堅の軍の旗下で豪の者達は少しずつ固い結束をし、大きくなっていたのだ。
「こりゃあ…すげえ。頼もしいぜ。けどよ…黄蓋。親父は、もう」
―あんた等が仕えた孫堅は、もう。
何となく続きを言い辛そうにしている彼に、黄蓋は迷い無く答える。
「若。…儂等は、生涯“孫家”に心身共懸ける事を望んどります。大殿(孫堅)が抱かれた大志は、
若に確実に引継がれた、と思うとります。儂等は今から袁術軍に下りますが、…それはただ、
戦場に慣れる事を終始忘れぬが為。近い将来、若がお立ちあそばされた折は真っ先に
孫呉に下る所存。その血判状はその事を身に刻む為」
(…親父はやっぱ、すげえや…)
志半ばにして無念にも逝った父が自分に残してくれたものは、とても大きかった。
そして彼等の意思が恐らく、強大では無くとも堅固なものが今、何の曇りも無く
自分に委ねられている事を知った。
その圧力が、逆に今はありがたく感じられた。
「…ンなら。俺は信じてるぜ」
その繋がりが少しでも強く続く事を信じ、ふたりは強く拳を握り合った。

この時を境に、孫策はまだその歳を若くして、一介の武将としての道を進むことになった。
そして、その最初静かであった火種は後激しくなり江水を軸にして炎となる事になるが、
それはまだあと数年先の話になる。

家に先に送り届ける為孫権を乗せて馬に跨った黄蓋を見上げ、孫策は彼に暫しの別れを告げた。
その時に黄蓋が『これから何処に居を移すのか』と訊ねた時、彼はいつも通り笑った。
「ああ。俺は怪我が癒える迄…少しの間だが、北に渡って世間を見て来る。
今迄学問なんか全然興味無かったが…多分今が、与えられたちょうどイイ機会なんだろ。
噂じゃあ、徐州には才人が多く居るというからな。江都とか、その辺アタってみる」
「ほー、気がお早い。次の官僚探しですかい?」
「…へへ、其処まで行けるもんかな?わかんねえ」
そんな会話を交わして、二人はお互いが見えなくなるまで手を振った。
乱世の真っ只中に在ったが少しばかりの希望の灯が見える、悲しくない別れだった。


黄蓋を見送った後、孫策は単騎で黄海沿いに出た。
若しかすると、海を臨む事が今後御無沙汰になってしまうかもしれないと思った為であった。
そんな事を考えていると、彼は何だか発作的に、父から授かって懐に入れていた“伝国の玉璽”を
金色に反射する海の中に放り投げて沈めてやろうかと思ってしまったが、投げる振りをして
思いとどまった。
(―まあしかし、…ココにも又来るだろ。)
再び玉璽を元に戻し、先に行った黄蓋を追って駈けて行った。

 盧江ではこの日を前後して、魯粛を訪ねた周瑜が明け方に皖を発ち、丹陽に戻る事に
なった。
 役人並に仕事の予定が詰まっている彼に、見送りに来た魯粛が残念そうに笑う。
「残念だ…もう少し日程が許せば良いんだがね」
しかし、周瑜は仕事の機会が許す限り僕が足を運べば良いだけ、と余裕すら見せて来る。
「それにしても…魯粛殿。今回更に実感したんだけれども。貴方は実に話をし易い方だ。
魯粛殿とは、些細な話題でも何刻でも話していられる。周りの皆がそうおっしゃら
ないか?」
 今朝だって、別れの挨拶だけのつもりが門前で無駄話に花が咲いてしまった。
「…話し易い…?そうですかな」
彼は思いあたるふしを頭中で回しながら、一瞬目線だけ上に上げてみた。
「ああ。言われた事は有りますな。…でもそう言ってくれたのは貴方と、あの小喬だけですよ。
ははは…あの娘(こ)が言うに、私は“無駄話が出来る”と」
いかにも小喬の言いそうだった事だから面白いのか、それとも魯粛の話し方自体が
面白いのか。周瑜はこの皖に来て、少しばかり笑う事が多かった気がした。
「ははは、無駄話とは…流石、小喬小姐…」
しかし、その笑い方にも悔しい事に品があり、更に魅力を増してしまうのがこの周瑜公瑾という
男の持つ本質であった。
「小喬小姐に御挨拶出来なくて残念だが…魯粛殿、後で宜しく言って頂きたい。」
(…朝早かったからな、…起きれなかったか小喬…まあ、仕方が無いか)
そんな事を頭でよぎらせた後に魯粛は苦笑いし、旅立つ周瑜に向けて頭を下げた。
「ええ。では、私からは小喬の代わりに貴方に宜しく、と」
そう言った直後だった。

「待って、待ってください!周瑜さま!」
向こうから、何か風呂敷包みを抱えて小喬が走って来た。
周瑜はその時、『走る乙女』というのを初めて見た気がした。
こんな時代である。そんな彼女が彼には、実は新鮮に見えたりもした。
「―小喬小姐!?危ない、走らなくてもいいから」
周瑜がそう言って馬から下りた直後、小喬は思い切り転んだ。
「!い…痛い…。」
そうボソッと呟いて膝を起こそうとすると、周瑜が彼女の目の前で高さを合わせ、
心配そうに見詰めている。
「…大丈夫?」
その優し過ぎて綺麗な目線が、再びこの小喬から一瞬ことばというものを奪いそうになった。
だが小喬は、笑って先程転びながらも天地を死守した包みを周瑜に差し出した。
そこまで彼女を先日から奮い上げさせたのは、一体何だったのか。
「周瑜さま…!これ、あたしが作ったの。…途中で食べてください」
「…えっ…これ、」
それは見た目、『一体何だろう』と思ってしまう程の大きさであった。
魯粛は、その包みと外形の大きさと形に見覚えがあった。
「小喬。それ、弁当にしては何というか…でか過ぎやしないか?途中で、って
ひとり分だろ?どう見てもそれ、十人分はあるよ」
その魯粛の笑い混じりの一言を聞いた時、周瑜は絶句した。
「べっ…弁当!?」
「ああ、周瑜殿。大丈夫ですよ?小喬は料理が結構得意なんです」
魯粛がそう言ってくれたが、彼には一体何が大丈夫なのか分からなかった。
更に小喬は、そんな彼を気にして居ない様子で。
「周瑜さま。あ…あの!美味しそうなトコだけ食べて下さい」
小喬は笑いを取っている積もりは無かったのだが、周瑜には今日彼女に会ってから
弁当を貰うまでの一連がたまらなく可笑しかった様だった。
今では、小喬が自分に与えてくれる全てが新鮮だった。
「そうだ、小喬小姐。僕も昨日、市場で良い物を見つけたんだった…」
そう言いながら彼が布袋を探って取り出したのは、少し前に小喬の好物だ、と
以前魯粛が話して居た、小振りで蓋付きの白い壷に入った『杏の砂糖煮』であった。
実は、そもそもこれは高級料理に添えられるものらしく稀少な物であり、小喬に
とってもかなり贅沢品であった。
いっぱしの好漢が、市場でこんな物を求める光景はさぞかし滑稽だったろう。
だが、それと代償に彼女の瞳が、まるで国中で一番大きな宝石を見付けたかの様に
きらきらと輝いている。
「ああっ!…これ!これ!あたしの大好きな」
「うん。君にあげるよ、小姐。…どうかな。さっきの弁当とか、そう…“色々なお礼”にね。
君に今日、逢えたら渡したいと思っていた。…良かった。逢えて」

実は、渡せなかったら手元に置いてずっと小喬の事を思い出そうと思って居たのは、周瑜が
誰にも言えなかった秘密である。

「―良かったじゃないか、」
周瑜の後姿を二人で見送りながら、魯粛が小喬にぼそっ、と呟いた。
「粛兄さま。…あたしね。周瑜さまに何か出来るのって、今だけだと
思ったから…。今しか出来ないと思ったから。だから今は、あたしとても幸せ。」

「…そうだねえ。」
恐らく今のところは俗に言う、恋愛というものにはこの二人、到っておらぬのだろう。
しかしこのままでも良いのかもしれない、と魯粛はこの時ぼんやりと考えたりした。