短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」九


―『南中原(ちゅうげん)の巨星孫堅、荊州襄陽に墜つ』
その地鳴の一つでも起こしかねない一行が司州献帝、州曹操、冀州袁紹、漢中郡張魯、益州劉璋と
伝わった頃、山山中で黄祖軍に引き取られた孫堅の遺骸と交換条件で、
孫策が戦中に本陣と襄陽山林周辺で生け捕りにした黄祖軍の親衛隊と思われる精鋭数名と兵卒、
併せて数十名を劉表軍に返還した為、荊州での孫堅軍と劉表軍の争いは一線を引き一時停戦と
なった。
 亡き総大将孫堅に代わり暫定的に兵を率いたのは孫堅が長沙で兵をあげた時から付き従っていた
孫賁(ほん)という青年で、彼は孫堅の兄・羌の長子であり、孫策より年上で従兄弟に当たる
間柄であった。
 その孫賁がこの襄陽での戦後、残りの将兵を率いて淮南郡寿春・袁術の保護下に入った為、
袁術はあらためて上表(君主に奉る意見書)を出し直し、孫賁を豫州(州南、揚州西北に隣接)刺史に
任命した。
 孫策も最初孫賁に従って共に寿春行きを勧められたが、彼は単独、一旦孫賁らと行動を別にし
以前より気の知れていた僅か数名の将達と共に呉郡・曲阿(現在の江蘇省近辺)に向かい
そこに母親呉夫人をはじめ、家族を皆呼び寄せた。
―呉の地に生を受けた父親・孫堅を埋葬し、再び呉の土に還す為であった。

 この当時の時代がどれ程遡っていようとも、一人の人間が亡くなったとなると、それも
年盛りの家長であったならば尚更、ただその骨を埋葬すれば長子孫策の役割は
それで終わりという訳では無く。
 以前父親が呉郡の役人だった若い頃に住んで居たらしいと言う理由で提供された
曲阿の仮邸には、どこで聞き付けたのか弔問の礼状やらが連日届き、新たに家長となった
彼に課せられた最初の役割は、それら全てに返礼を施す事だった。

 孫策が、埋葬されて碑となった父・孫堅に時間をかけて逢いに行けるようになったのは
既に曲阿に仮居を構えてから既に一星期(1周間)過ぎた頃であった。

 それ迄家務に慣れずに慌ただしく、急いでしか父に参られなかった事を詫び、陽が少しだけ
昇り始めた頃から家を出る事が出来たのでこの日の彼は少しばかり安堵した。
 埋葬された場所に向かい近くまで馬を歩かせていると、今進んでいるこの場所は
少しばかり高い崖道になっており、右側に黄海が広がっていたのだった。
 今迄の日々が余りにも目まぐるしかった為、落ち着いて辺りの風景など愉しむ余裕など
無かった所為もあり、その事を孫策はその方向から来る朝日に呼ばれるまで気付かなかった。
何となくそんな気がしたのでそっちに顔を向けてみると、陽の光の断片一つ一つが
目の前の静かに揺らいでいる波に呼応して反射を繰り返し、常人ならば思わず
馬の足を止めて見入ってしまうほどの絶景であった。

「…へえ。」
昨晩まで寝る事が出来たのが遅く、今日も今日で朝が早かったので頭がいささか呆けていた
孫策であったが、流石にこれには目を見張った。
しかもふとこの方向から右側の南東に視線を移せば、句章(今の寧波)辺りの
普陀山の群島まで見渡せる鮮明さではないか。
「ここ、イイ場所じゃねえか。…良かったな、親父」
―戦が終わったら、海に出たい。
確か前に、そんな事を言っていたなとぼんやり思い出した。
 父がこの地の出であり海事に通じて居た事は知っていたが、まさか埋葬する場所も
海に面した場所になるとは思ってもみなかった。
―自然と、そういう話の運びになったとはいえ。
(…海が、親父を呼んだんじゃねえのかな)

孫策の頭にそんな概念が横切ったが、或いはその逆かもしれなかった。

今はまだ花の盛る季節ではなかったので肌寒いような気がしたが、吹く風は温かったので
丘の上であっても寒さはそれ程でもなかった。
 孫堅の墓碑は、大きな槐(えんじゅ)の樹に半ば守られる様な姿で、前より向かって来る
息子を見据えていた。
先月まで圧倒的な威圧感を放ちながら軍を率いていたあの親父が、たったこれだけの
期間の間に、言葉何一つ語らぬ姿になってしまったのだ。
―生前は英雄豪傑でも所詮人間、いざ死ぬとなるとあっけない。
何処かの戦死兵か誰かの吐き棄てて居た言葉を、今度は自分が感じねばならぬ番となり
事の一連を頭中に巡らせた後に孫策は少しばかり虚しさを感じた。
 元々は白い色なのに周りの葉の色を、背後からの陽光が煽り照らしている為に
幾分か翠緑にも見えるその碑の前に、孫策は背を丸め座っていた孫権を見つけた。
この時の弟は、"見つけた"という表現を使ってやらねばならぬ程憔悴しきって居たのだ。
背後から来る兄に誰よりも早く気が付いて「兄上」、と優しい声で呼びかけるというような
その普段の気力さえも取り戻せずに居たのだった。
 孫策と孫権の兄弟にはこの時その更に下に二人の弟が居たが、まだことばも覚えぬ程に
小さかった為、彼等の母、そして孫堅の妻である呉夫人は涙痕を拭う暇も取らぬまま
その幼子らを育て上げる為、再び気丈な賢母と呼ばれる迄に戻ろう、と胸に秘めた。
そんな母や、葬礼を仕切り忙しく纏め上げて居た兄に、自分を気遣いしてもらわぬ様にと
孫権はひとり、父孫堅の墓碑の前に居場所を求めたのだ。
 まだ、たった十歳の子どもが。

「お前か。あーあ…やっぱ俺、仲謀の起きる早さにゃかなわねえや」
「…あにうえ」
自分の左横に間髪置かずに胡座をかき、お早よ、とぶっきらぼうに言って来た孫策の方に
やっと孫権は視線を向けた。
「っははお前、何で正座してんだ?」
「…あ…。」
 その時、少しばかり顔に血色を取り戻し、姿勢を崩そうとした孫権がそう言った後
彼に頭を下げようとした。
するとその時、ふと上げた自分の頭が兄の掌で一遍撫でられたかと思うと、
そのままそっと胸元に引き寄せられたのを感じた。
「仲謀、お前…ひとりでずっと堪(こら)えてたんだろ、泣くの」
孫策のその場所はとても広く、記憶の限りでは父の其処にも良く似ている気がした。
今ではもう、その事を確かめる術(すべ)も無いが。
「あにうえ、…」
「我慢すんな、泣けよ。…まだお前ガキなんだからよ。ガキらしく、ちっと位
お兄さまに甘えろ」
大人になってしまうと、『泣きたくても泣いてはならぬ、泣こうにも泣けぬ』という時期も
訪れ得てしまうもので、それをまだ小さな弟に課するのはあまりにも酷な事であった。
そして、その時期は今自分にやって来ているのだろうと孫策は感じて居た。
知らぬ間に孫権は、自分を緩く抱く兄に上の体重を全て預けていた。
―肩の力を抜く事が出来たのは、何日振りの事だろうか。
父の死に際し死に目に会えなかった事やら、苦悩する兄に自分は何も出来ないという悲悔。
その念が塊となって今迄ずっと、この子どもの小さな肩を張り詰めさせていたのだった。

「あにうえ…でも…」
申し訳無いとそれでも孫権は繰り返し兄を気遣おうとしたが、何時の間にかその声は
徐々に鼻声になりつつあった。

「いいって。泣け。…元々は多分、俺の方が早くこうしたかったんだからよ」
その孫策の元々高くない声に、見上げた孫権の双眸から大粒の雫が堰を切ったように
一気に溢れ出て来た。
 その粒は頭上から覆っている槐木の葉の色を写し取って、陽の当たり方によっては緑色にも
見えた。
(しかし、碧潭の水面の様な色に見えたその瞳自体は槐木の所為とは関係無く、彼等孫家の
血筋が成していたらしいという話である。)
「あ…兄上…あに…すみませ…」
「だぁら、言うな。気にすんなって。」
瞬間、孫権をきつく縫い合わせていた何処かの琴線がぶつり、と切れた。
その返事の直後、たまらず泣き始めた孫権の顔を自分の首根元に押し付けた為、孫策は何となく
その辺りが湿って来た気分がした。
「―ち、父上、父上………ちちうえ…!えぇ」
喉の辺りをしゃくり上げながら嗚咽交じりで父を苦しそうに呼び続ける弟の背中を、彼は
ゆっくり二、三度撫でさすった。
何故か、その横顔を見やる兄としての表情は安らかで、安堵か微笑をしているようにも見えた。
(―泣ける元気があったか。)
先程までの孫権の、衝撃と傷心の余り『行動する神経に加え言葉さえも忘れそうになっていた姿』
に比べると、孫策はまだこっちの方が随分とマシだと思ったのだった。
何日かすれば、また元の姿に戻ってくれるだろう。
―親父は幸せモンだな。
そして、恐らく自分の分まで、今弟が泣いてくれているのだ。
そんな事を考えながら巽を見上げると、空が嫌味なほどに晴れ上がっていて失笑した。



 盧江郡、喬婉(小喬)が留守番をしている皖城の片隅に植わっている梅の木は気が早いらしく、
既にもう幾つかの蕾を付けていた。
 留守番とは言っても、来客の応対の大概は家の中の年配連中と、隣に寓居を貰っている喬公の
遠戚・魯粛が請け負ってくれた。
よって彼女の役どころは、仮にあったとしても時々茶や酒を出すといった程度で、気楽なもので。
その時挨拶の一つでもして、年頃娘の美貌を見て中年客人の鼻の下が伸びれば
冥利に尽きますと云う感じで。
他は、別段これ迄の生活と何ら変わりは無かった。
ただ、今は父が居ない。父は直ぐ帰ってくるが、そして何より、大好きな姉喬は暫く
帰って来ない。
しかし、姉は広陵の文士張紘の大母上に再び逢いたいと望み、自ら広陵に行く事を願い出たのだ。
淋しくないと言えば嘘になるが、きっとお姉ちゃんはそうした方が輝くのだと思った。
当初喬の広陵行きに反対した父親を窘(たしな)めたのは何を隠そう彼女だったのだから。
喬公等が家を出てまだ二、三日目であったが、小喬は小喬で、『秘境の旅より戻りました』と
言っても聞いて貰えるような気丈さを持ち始めていた。
勿論、本人はその事には全く気が付いていない。
(…お姉ちゃん達、もうあっちに着いたのかな)

「…小喬!小喬は居るかい?」
小喬が何気なく書物の巻末に載っていたいつの時代かわからない地図のその海沿い辺りを指で
なぞっていた時、庭側の回廊を歩いて来る音と共に、若い男の声が聞こえて来た。
先程出た喬公の遠戚、魯粛であった。
恐らく、喬公は自分の二人の娘の兄であるかのように接してくれるこの男が居なかったらば、
広陵などに出向く余裕も持てなかったであろう。
「粛兄さま?どうしたのー?」
「…ああ。」
一瞬、後ろを見やりながら首の辺りをぼりぼり掻いていた彼の隙を突いて、小喬はいち早く
返事をした。
「あー…もしかして、またお客さま?…あたし、お茶淹れよっか?」
それを聞いて魯粛は少し嬉しそうに前に直った。
「ああ、そうしてくれると有難い。…それにしても叔父さんも、もう少し若い女官を雇えば
良いのに…」
最後の辺りはぼやくような小声だった。
普段あまり口には出さないが彼も20歳前後の年頃なので、ここの人員構成と年齢層には
少しばかり納得が行かないらしい。
皖城に仕える女性は数名。他の宮殿より恐らく格段に人数が少なく、しかも落ち着き過ぎな上に
晒太陽(日向ぼっこ)が好きそうな熟女揃いと来ている。
「うん、そう!そしたらあたしも思いっきり遊べる…」
魯粛は言い流すつもりだったが返され、しかも予想以外の事を言われたので苦笑した。
「…そういう意味ではないんだがね」
「そういえば粛兄さま?今いらしてるお客さま、おひとりでいいの?」
うん、と一遍頷いた。
どうやら、今来たのは魯粛も良く知る人間らしい。
「んー、じゃあ、普通のお茶で…」
「いや、小喬。…聞いてくれ。それがさ、」
何故かそう言った後、彼は笑い出した。
「揺揺晃晃(よぼよぼ)と言ったら失礼なのだが…これが物凄いご年配の方でね。お茶は
話によるとお湯みたいな薄さでないと飲めなんだ。だから茶の色が付いてるか付いてないか、
ぐらいのでいいよ。しかもそのお爺さん猫舌らしくって、水の様に温いのが良い、って」
小喬はそれを聞いただけで小さげな顔を歪めた。
「うわぁ…不味そう」
魯粛も苦笑しながら頷いた。
「まあ、老公公(じィさま)がそれが良いとおっしゃるんだから労(いたわ)わってやらねば。
というわけで、小喬、君に頼んでいいかい?」
流石に小喬もそんな茶を出した事は無かったので気になったが、まあいいやと思った。
「はーい。でぇ、どちらにお出しすればいいの?」
彼はその返事を聞いて、嬉しそうに外に向かってその右前方を指差した。
「そうか、助かる!あちらの回廊を曲がって直ぐの客間にお通ししているんだ。宜しく頼むよ。」
了承した後、小喬は何か思い出したらしくまた慌てて聞いた。
「粛兄さま、そうそう。お茶菓子…」
すると、魯粛は小さく笑いながら振り返って首を振った。
「不要(いらない)、不要!老公公の残り少ない歯が折れちまうよ」


(薄いのって、絶対美味しくないよね…)
小喬の部屋の近くに普段使用人達が使う、手狭だが、しかしそれでいて小奇麗で物は揃っている
という厨房があるので、彼女は自分で茶を淹れていた。
女官が一人『お淹れしましょう』と申し出たが、小喬は今日の客が何だか面白そうだったので
自分で入れるわ、と部屋で休ませた。

 茶葉など、恐らく耳かき一杯も入ってなかろう。しかも湯は火を入れて全然時間が経ってない
しろもので、湯気の一つも出ていない。
試しに茶器に入れてみたが、言い替えると普通の水の方が何倍も旨そうな気がした。
「わー…ほんとに不味そう…」
どういう爺さんがこんな茶を好んで飲むんだ?という印象である。

しかし魯粛もそう話していたし、何しろ客人本人が『それが良い』と言うのであれば
致し方ない。

 小喬はその茶を盆に乗せて歩きながら、一人勝手に今日の魯粛が応対する大層ご高齢の客人を
想像して含み笑いをした。
勿論、実際挨拶をする時に笑い出さない様にする為である。
(…あそこの角を、右ね。)
自分の家なので部屋が何処にあるかは熟知していたはずだが、何となく確認した。

回廊を曲がり、小喬は当時のたしなみある娘の仕草を作り、顔を伏せながら取り敢えず丁寧に
一礼しようとした。
「―失礼致しま…」
すると、自分の僅か数歩先で回廊にもたれ掛かり、皖城の庭を味わう様に眺めていた
男を見た時、挨拶が言い終わるどころか、彼女は礼をしようとした頭も下げられなかった。
―爺さんは何処に消えた。
(…えっ!)
横顔を一瞬見ただけで溜め息が出てしまいそうなすらりと通った鼻筋に、どこかしら
憂いを帯びた色素の薄い瞳。

一度出逢えば、その容姿の端麗さは忘れる事など不可能である。
「えっ、えぇっ!? しゅ…しゅ、」
小喬に名を呼ばれるより早くその男の方が気が付き、こちらに向かって品のある歩調で
向かって来た。
恐ろしい事に、先日喬が彼女に言っていた「預言もどき」がこんなにも早く当たってしまった。
「呀(あぁ)!小喬小姐じゃないか。好(やあ)。久し振りだね」
彼女の夢にまで出て来たあの貴公子、周瑜公瑾ではないか。
しかし、本物の彼の容姿は夢や妄想などよりも何倍も光彩を放ち、美しい。
当の声をかけられた小喬本人は何故か手足が震え、まだ名を呼び返す事も出来なかった。
以前逢った時の方が普通に話せたではないか。
恐らく、その頃よりも密やかに思慕の念が増していたのだ。
「しゅ、しゅ…しゅうゆさま…きゃあ!」
小喬はそう呼びかけた次の瞬間、足が縺(もつ)れて倒れそうになった。

「―危ない、」
すると、彼女のその細腰は案ずる必要も無く、ふわりと宙に浮いた。
周瑜が、瞬時で地に転び落ちそうだった小喬を右腕で抱き止めたのだ。
そして盆の上の茶は一滴も零す事無く、それを持つ彼女の両手はもう片方の
それが支えていた。
「…大丈夫?」
彼は耳に心地良い低さの声で、ゆっくりと語りかける。

その不味そうな茶がひっくりこぼれようが、そして小喬も仮にその場で転んでしまおうが
別段大した事は無かったのだが、あの密かに慕う周郎に腰をすくわれ、しかも今、その顔が
こんな近くから自分を見詰めていたので、彼女の紅く染まった頬と心音の速さが
『全然大丈夫では無い』事を示していた。

しかし気力を使い切りながら、小喬は恥ずかしそうに顔を赤らめながらやっと言った。
「…だ…だ、大丈夫、…です」
本当は恐らく、『有難う御座います』も言いたかったが。
「―良かった。」
周瑜は彼女の言葉を聞いて薄く笑い、元に立たせるようにしてその腕を離した。
 盆を持っていてくれた時に少しだけ触れていた彼の手はとても大きかったのだが
戦好きな男やらのそれと異なって節くれ立ってはおらず、その指は音楽を嗜(たしな)
彼らしいと言えば彼らしい、すらりとして非常に長く、その手で自分の手を
握られでもすれば酒も呑まないのに酔ってしまうのではないか、とさえ思った。

体勢を直してもらった小喬は少し我を取り戻してもう一度頭を下げたが、その直後に
自分が客人用に持って来た茶が、恐ろしく不味そうだった事を思い出した。
「あぁあーっ!このお茶!ど、どどうしよう」
思わず叫んだが『どうしよう』とか云うどころではない。
こんなに変な茶を嗜好する客人など、恐らく老人でも居ない。
それを客人に、しかもあの周郎様になんて出せる筈も無い。
 何も知らない周瑜はお茶と聞いて、彼女の手元にある矢鱈に薄い茶を見つけ、
それと小喬の顔を不思議そうに一遍交互に見詰めた。
「……どうかしたのかい?小姐」
「ご、ご、ごめんなさい、あたし…あの、今からお茶淹れ直して来ま…」
小喬が動揺と焦燥を併せたような表情で、周瑜にそう告げた時だった。


「あはは、はっははは!」
魯粛が大笑いしながら向こう側の角から歩いて来たのだ。
実は悟られない様に遠くから見て居たが、つい先程の小喬が叫んだ瞬間が
最高に可笑しかったらしい。
周瑜が来訪したので、折角なので軽く彼女を騙(だま)そうと思って居たのだが、
どうやら予想以上だった様子で。
「小喬。お前、驚き過ぎだ!あははは」
小喬にも、今やっと事のあらすじが分かった様だった。
「しゅ、粛兄さま!ひどい!」
小喬はそう叫んだ後、普段であれば笑うか魯粛に食って掛かるところであるが
よりによって周瑜の前なので、今回は恥ずかしさの余り、逃げるか泣き出すかを
したくなってしまい、下を向いてしまった。

遠慮しなくていいのなら、泣いてみたかった。
しかし、
「―いや、小喬小姐。これでいい。実は僕は、温くて薄いお茶が好きなんだ。」
「…えっ…」
頭の上から優しく語りかけて来たので思わず見上げると、周瑜が小喬の運んで来た
先程の薄い茶を旨そうに啜(すす)っている。
「有難う。美味しいよ」
「…えっ…!周瑜さま…あの」
彼はそのまま笑いながら後方の魯粛を振り返った。
「…いや、なに。僕が『実は凄く薄いお茶が好きだ』とさっき話したら、魯粛殿が
気を利かせてくれてね、一芝居打ってくれたんだ。薄い茶が好きだなんて言ったり
したら、普通は驚かれるから」
小喬はそう聞かされて、きょとんとした顔になった。
「え…そうなの?粛兄さま…」
彼の方を見やると嘘か真か、(うん)と頷かれた。
「小喬、だが我々…歯はあって菓子は食えるのでね。持って来てくれないかな?」
「…あっ、はぁい」
小喬が慌ててこの場から走り去って数秒経っただろうか。
「周瑜殿。……真坂、私の事まで庇い立てなさるとは思わなんだ」
魯粛が少し小さい声で笑みを作りつつ傍の賓卓に座った。
小喬を泣かせたり怒らせたりさせずに丸く納めたかった、という理由も周瑜の暗黙の内に
あったのだろうが。
周瑜も茶器を何となく回しながらその卓の向かい側に座った。
「いや。…最初見た時こういうお茶も悪くないと思ったのでね。…しかし、」
「しかし?…何か」
その彼への返事として、再びそれを飲み直した周瑜の顔は咽(むせ)ながら笑っていた。
「…一気飲みした方が善い」
矢張り不味かったらしい。
「ははは!あはははは」
先程との激変ぶりが面白かったので、魯粛は手絹を押さえて咽て居た周瑜をよそに
大笑いしていた。
「…そ…それにしても、小喬小姐は相変わらず愛くるしい」
「ああ。実の妹の様に赤子の頃から接しているが、まったくだ。…しかし、来ませんな。
ちょいと呼んで来ましょうかな」
直ぐに菓子を持って戻ってくると思っていたが、若干遅い気がしたので魯粛が卓から
腰を上げた。

来るのが遅い理由は、何となく彼には察しがついていた。

「―小喬、」
先程の茶を出す厨房に足を踏み入れると、女官は恐らくずっと昼寝している様子で、
其処には居なかった。

誰も居ないと思いそうになったが、内庭に壁が開いて接している方向を見やると、
小喬がどうやら淋しそうな様子で卓の上に肱を立てて座っている。
「―小喬…今お前が考えているのは周瑜殿の事だろう?」
訊ねられて、ようやく小さな声で返事が来た。
若しかして彼女は、下を向いて泣いているのかもしれなかった。
「…粛兄さま…どうしよう、…あたし」
「…うん」
魯粛は何となく理解していたが、傍で聞いた。
「あたし、前までこんな事無かったのに。…周瑜さまを見ると、胸が、苦しいの。
嬉しくなったり、どきどきしたりするの。分かってるのに。多分…こんな事いけないのに」

 小喬らの父親喬公はこの盧江地方の名士であり、当時の豪族であり、喬と小喬の姉妹は
その喬公の目に入れても痛くない程愛でられている娘である。
 恐らく後の四・五年もすれば、当時の時代が作ってしまった習わしにより
親が決めた何処かの士に娶られる運命にあるのであって、それは恐らく名族の結婚相手が
名族なのであり、幸せな方とも言えた。
小喬も少し前に『自分にもその運命がいつか来るのかしら』とおぼろげに受け入れた
つもりだった。

しかし、周瑜という男を密かに心の片隅で慕う今となっては、その運命が呪わしい。
まだ相手を決められていないとは言え、当時、名のある家の若い娘の一方的な恋心などは
決して叶わないと言い得て冥利だった。
漢代の、庶民の詠んだ相思相愛の恋愛歌謡がどれ程羨ましかった事か。

 周瑜も恐らくこの先数年後、いずれ何処かしらの名族から、彼の美しい風貌に見合った
美しい姫御を娶るのだろう。
小喬は彼の幸せを祈りはしていたが、出来ればあまり考えたくなかった。
先程からその一連が頭の中に住み付き、その場から動けなくなってしまったのだ。

(矢張り周瑜殿を、…慕っているのか)
「―小喬。」
彼女の重そうな一言を聞いて、魯粛が漸(ようや)く口を開いた。
「―さっきお前は『こんな事はいけない』と言ったが、…私はいけなくは無いと思う。
周瑜殿の様な才人ならば、うんと想えば良い。恐らく何年経っても悔やむ事は無い。
男やら女やら、私はその辺は良く分からない、が…歳若いお前が男を慕って、
同時に愁(うれ)うる必要はまだ無いと思う。」

そう言った後、彼も続きの言葉が見付からなかった。
反応して小喬の見上げた様子を見て、無理をさせてはいけないと感じた。
「…じゃあ、菓子は私が持って行こうか…」
しかし、
「うぅん。粛兄さまはあちらで周瑜さまと待ってて。あたし、直ぐ持っていくから」
魯粛の着物の裾を捕まえて、小喬は言った。
その顔を見て彼は驚いた。
―笑顔だったのだ。

「小喬…本当にもう大丈夫かい」
その表情を変えずに、頷いた。
どうやらたった今、彼女の中で何か決したものがあったらしい。
「―そうか、じゃあ、頼むよ。別段急いでないから…ゆっくりでいいからね」

魯粛は行き際に小喬の肩に一遍手を置き、厨房を後にした。

それから半刻程経っただろうか。
来客として皖城に来た周瑜は、そもそも孫堅の訃報と、揚州これからの不安を
魯粛に伝えに来たのだった。
「何……孫堅殿はお亡くなりになられたのか!?」
彼のいたく驚いた表情に、周瑜は難しく曇ったそれで返した。
「ああ。…山山中で、劉表の将黄祖の軍に矢を射掛けられたそうだ。…僕も詳しい事は
分からないが、事実に相違無い。」
「…何て事だ。…私は、願わくば孫堅殿の様な方に"我が主君"として仕官したかったのに」
「僕もだ。…それにしても残された孫策の事が気にかかる…恐らく、奴の性格的に
袁術軍の寿春には直行せぬだろうと思うが…でなければ一体何処に向かうのか」
首を一遍振って下を向いた魯粛に続き、周瑜も声が小さくなり、一遍ため息をついた。

その時、
「―周瑜さま。ため息なんてついちゃダメ。ため息をついたらね、倖せが口から
逃げてっちゃうんですって」
「…えっ、」
瞬間、周瑜は氷水でも頭中からかけられたような気分になり、ふと目を見開いて
そっちの方を見た。
男同士の会話中では絶対聞き得ないような、小喬のことばだった。
―心労も思わず吹き飛んで仕舞いそうな笑顔で。
しかも運んで来た菓子は出来たての様で。
「おお、桃酥(胡桃クッキー)じゃないか小喬!お前、今作ったのか!?凄いな、旨そうだ」
「そーよ!見直してよね粛兄さま!」
これから先に対する不安は山積みであったのが、今の周瑜は取り敢えずその底無し沼から
解放された。
(……視線を全て奪われそうだ)
恐らく、その時の彼はそれに近い事を考えながらその愛くるしさを見詰めていた。

「周瑜さま!」
その時思わずぼんやりしていたところを彼女に呼ばれてしまい、えっ、と顔を向けた。
「あの…あたし、国とか戦とか難しい事は全然分かんないんだけどー、…周瑜さまなら多分
何が起こっても大丈夫だと思うの。あたし何にも力になれないと思うけど…ずっと
ご無事をお祈りしてます。…だからー、ね。周瑜さまもこれ、食べて!」
小喬と目線が合った時、彼の顔にも本来の光を取り戻したようであった。
それと同時に、彼の気難しい部分はこの瞬間に少しだけ消し飛ばす事が出来たのだ。
―強く生きなければ。
「…そうだね、小姐。実に美味しそうだ。熱いうちに戴こうか」
久し振りに子どもに戻ったかのような笑顔になり、周瑜はそれに手を伸ばした。