短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」八


 192(初平3)年に入り間もなく、時期頃で言えば董卓が王允・呂布によって葬られてから
時期を空けず、曹操が州の牧(総督)となりその隣の黄海を臨む青州(青島を含む地域)を平定した。
同時にその地の黄巾残党三十万余兵を降しその中の精鋭を収め、「青州兵」と号した。
それと前後して、彼の実父・嵩(すう)がその青州の南に位置する徐州の牧・陶謙の部下と思われる
刺客に暗殺される出来事が起った。
 もともとから親に対し"孝"を重んじていた曹操は、自身に関係無くただ「血族」という理由のみで
親を殺められた事に激昂し、次の標的の一つを否応無く南下に鎮座する陶謙に向けた。
しかし、仮に父がそのような目に遭わずとも、天下を野心に抱く彼が"徐州を欲する"という事は
順番が狂えども容易に想像できた。
 明くる年、その徐州の居城十余は、油のふりかかった火屑の勢いで曹操に攻め崩される事になる。

 同じくしてこの年192年の初秋、袁術の命か、若しくは自分の意志か。再び劉表攻撃の為
荊州に進兵した孫堅は、劉表の迎え出させた宿将・黄祖を相手とし、樊城と県の凡(およ)そ
中間地点で一戦を交えていた。

相も変わらず、大陸からの時勢は小さくも大きくも胎動が止む事無く聞かれていた。


 そんな中で考えると、まだこの頃の喬姉妹の居た廬江郡はある程度平穏かもしれなかった。
ひとりの少女が、庭で馬乗りを愉しむ時間を持つ事が許されていたのだから。
しかしついこの間までは素顔を見せる事すら恥らみ、常に父や他の者を腰を低くして
始終大人しい乙女であった喬が、ここ数月で急に馬の前で快活になり、
平気で馬上の高い位置から自分らを見下ろすようになっていた事を見、その父の喬公は
それまで大人し過ぎて不安でもあったわが娘の姿を一掃して歓(よろこ)びもし、または驚き過ぎて
時折不安に戻ったりもした。
「小喬よ。…大喬は一体、いつから馬なぞ覚えたのだ」
下の娘の喬婉に語りかけたりもしたが、妹は微笑しているだけだった。
「馬乗り…んー…、お姉ちゃんね、夢の中で"白駒公子哥"に教えてもらったんだって。言ってた。」

とは逆に、もともとお転婆だと思っていたのに意外と大人しかった妹からは
見当違いの返事しか聞けずもう一度彼が苦笑した頃、何も聞こえていなかった上の娘が
馬と戻って来た。
「大喬。お前たちは別に、馬に直に乗れなくても良いのだぞ?仮に場を動く事があったとしても
馬車があるのだから」
良く考えると、豪族の商家といえばその喬公の言葉は場に出て当然であった。
「でもお父様、」
しかし、喬の口からはそんな理屈も通じない答が返って来た。
「…きっと、王昭君も直に馬に乗れましたわ?」
―(王昭君とは紀元前後の前漢末期、皇帝の後宮から騎馬民族匈奴の王、單于に嫁いだ
絶世の美女である)
父は、"お前は麗しい顔をして、とんでもない事も言い出した"とでも呟きそうな表情をした。
「大喬よ。お前は馬乗り賊の男に恋われでもしたいのか?」
勿論、愛でている娘たちにそのような事は、恐らく言った本人が一番許さない。しかし、
普通に馬に乗れるようになってしまった娘に、もはや「乗れないようになりなさい」とも言えず。
いいえ、と静かに首を振った彼女に取り敢えず愛想笑いを返し、喬公は何気なく先程
自分宛てに届いた書簡を開いて黙読し始めた。
もともと自分の部屋で読もうと思っていたが、喬がまた目の前の庭で馬乗りなど
始めたので、それを握ったまま慌てて外に出て来てしまったのであった。
「…うぅむ」

何のお便りなのですか、と何気なく聞こうとした矢先父がそんな低いうめき声をあげたので
瞬時に訊ね事が変わった。
「…どうかなさったの…お父様」
何も知らない時点で既に、胸の辺りがざわついていた。
喬公の彼女に向けた表情はさほど深刻ではないとはいえたが、雲っていた。

「大喬、広陵の張紘殿からだよ。ああ…あそこの大母上が…ここ半月程御危篤の容態らしい」
張紘、字は子綱。若い頃に京都(けいと/洛陽)に遊学し、郷里に戻った早々に茂才(官僚候補)に
推挙され三公府から召し出された事が何度もあったが応じようとせず、今でこそ
元の広陵の地に居を構えてはいたが、戦乱を避け時に江東の地を転々としていたという
正に世の大器が求める学識の才であり、かつて提供した土地を縁にして喬公とも
交友のある男だった。
実はこれより十数年前に喬公の妻、言い換えれば喬姉妹の母親が病で床についてから
その後亡くなる直前までの数ヶ月の間、仮居を皖城近くに据えていた頃にまだ幼かった喬
預かって里親の如く接し、事細かに面倒を見てくれた事があった。
 特に、その母親というのが張紘に子が男ばかりだった為に、当時彼女を事のほか、
あたかも目に入れても痛くないかの如く可愛がってくれた。
 小喬はまだ年2つ3つだった為皖城に残したが、喬公はあとで大喬の愉しそうな話を聞いて
姉妹で預かってもらえば良かった、などと苦笑してぼやいたなんて事もあった。

「そんな!…張の老太太(おばあちゃま)が…」
自分に流れる血が、半分ほど何処かに呑まれてしまった気分になり、少しばかり瞳が宙を泳いだ。
泳いだ後、その居する広陵の方向を見やったのかもしれない。
あれから頻繁ではないとはいえ書の交わりも細く続いており、今で言えば彼女にとって
孫から見た義理の祖母のような存在がその張紘の母上であったから。
―そういえば、今年初めに来た書簡の字が弱くなっていて少し気になったのを思い出した。
そういう繋がりを持っていたから、普段からあまり外と交流を持ちたがらなかった張紘であっても
この様にして喬公に伝えて来たのであろう。
「ああ…もう大分御年召されて居たが…、時の経つのは早いものだ」
書簡をもと来た形に戻しつつ、口を結んで鼻から一気に息を出していた父に喬は祈るような姿勢で
縋(すが)り付いた。
「…お父様」
どうした、と首を向けて来た喬公に、彼女は数ヶ月前の自分からは想像も出来ない事を言っていた。

「お父様、わたし…老太太に逢いたい。広陵の張紘伯父さまのところに遣って下さい」
彼女が人の為に、そして自分の為に出来る事から始めようと決意した瞬間だった。

「…何…」
喬公のそれは、小喬の「お姉ちゃん!?」とほぼ同時だった。
『何という事を言うのだお前は!ここから広陵迄が如何程遠いのか知っているのか』と本当は
声を大にして娘に言ってやりたかったと思うのだが、驚き過ぎて一割にも満たっていない。
しかし喬には、声にならずとも全て聞こえて居たらしく。
「広陵の場所ならば、知っています」
皖の真下が江水中流域とすれば、広陵はその江水を上り上って、正に海から流れ込む
という、その最初の地点に相当する。
―近くはない。
こないだの舒へのお忍びで遠路は慣れました、などと云う事は何の言い訳にもならない。
良家の娘御は箱入りとして大切にされ、悪く言えば家の中で秘蔵にして可愛がられるもので、
この時代の娘ら自身も、通常ならば余程相当でなければ外に出たがらぬものを。
当時、戦乱で居を移らねばならぬと聞いただけで失神する女官も居たくらいで。
或いは何処かに嫁ぎ一生を遂げるまで屋敷の中、外への気は秘める事しか知らぬものを。

(恐らく張紘殿のもとであれば、危惧の念微塵も無い。御子息も独立されて今は家に奥方と
大母上のみ…大喬が久々に参ずればさぞや歓んで迎えて下さる、とは思うが…)
喬公の半分声にならぬぶつぶつとした呟きは、またも喬には届いて居た。
「すみません…お父様。でも、ご心配なさらないで。”案ずるより産むは易し”ですわ」
『お前はそう、静かに泰然として言ってのける姿勢を何処やらで覚えおったのだ』と先程の
遠出すると口火を切った件に続いて言いたくなったが、父は敢えて言わなかった。
というより、言うと云う事を思いつかなかった。
「…しかし…お前、着いてからは良いが広陵までの道中、何かあってからでは遅いのだぞ…」
そう言ってごね続ける父親を鎮めたのは二人の間で聞いて居た小喬だった。
「それだったら、お父さまがお姉ちゃんを送って行けばいいじゃない?」

 その一言で、喬公は一日二日であれば例え私事でも家長代理は老中らに任せられると確信し、
自分は一路広陵まで喬を連れて行く事にした。
無論、屈強な護衛を7、8人引き連れて。
言い換えれば心配性に加えて親莫迦である。

 明けてその出立の前夜、自分用の荷も小さく纏まったのでそろそろ床に就こうとして
が横になりかけた時、戸の隙間から漏れる灯に覗かれているような気配を感じた。
「…小喬?どうしたの」
入って、と手招きをして迎えた小喬の両手には、柄模様の布袋が握られていた。
これ、と妹に言われて胸前に押し込められたので覗いてみると、何やら寒干しの杏やら
李(すもも)やら、縮んで居たが元は果物らしき物体がごろごろ入って居た。
「おやつ。馬車酔いしないんだって」
量の多さに若干驚きはしたが、矢張り長い旅路に不安の一抹を含んで居た喬が喜んだのは
言うまでもない。
女性の細かい気遣いというのは、矢張り女性ならではの気付き方をする。
それが実の姉妹であれば尚更。
「嬉しい、ありがとう!やっぱり私、小喬と女のきょうだいで良かっ…」
見上げてそう言い終わろうとした時、妹の表情は先程まで笑って居たのに、どこか影を秘めて。
「…淋しい?」
その返事としてウンと一遍だけ小さく頷いた後、小喬は部屋の鏡台の椅子に座り込んだ。
「だって…いつ帰って来るかも、わかんないし」
これから説得しようとした自分自身も、少し淋しくはあった。
「わたしも最初、広陵には小喬と一緒に行きたいと思って…お父様にお願いするつもりだったの。
…でも、やっぱり小喬はお父様のお側に居てさしあげて。…それに…」
「それに、…なに?」
目の前に高さを合わせて座る姉を見上げると、微笑んでいる。
「私、予感がするの。近い間に…ここに周郎さまが訪ねていらっしゃるんじゃないか、って」
小喬の憧憬の君、周瑜公瑾が。
は、大それた預言者でもなければ、易者でもなく、何かの教祖でもない。
ただの年頃の、少し可愛らしい位の普通の少女である。
しかし、
特技なのか偶然なのか、実は時折ぽつりと言ってみた事が見事に的中する事がある。
しょっちゅう、ではない。
―ほんの、たまに。
「え…」
(周瑜さま…)
小喬はぽかんと口を半分開けて姉を覗き込んだ。
「…だから、きっと小喬は皖に居た方がいいと思うの。…あちらに着いたら私、
直ぐあなたに手紙を書くから」
ここまで気遣われては、分かったという返事をせざるをえない。
「…うん」
きょうだいがいる家には良くある話で、小喬も時折、自分にはまだ足りてない
姉の大人しさやら優しさ、感性の美しさやらを尊んでみたり、羨ましく思ったり、
あるいは妬(ねた)ましく思った事もあった。
 しかし、
「―お姉ちゃん」
自分にはかけがえの無い、全てを受けとめる大地の土の様な存在で。
「どうしたの?…もしかして小喬、昔みたいに一緒に寝たくなった?」
返事はしなかったが、小喬は瞬時に嬉しそうな顔になり、土竜(もぐら)の如く
姉の床に潜り込んだ。
「今夜だけ!」
何だか無邪気な妹を見て楽しくなった喬は、自分も負けずにそれに続いた。
「うそおっしゃい」

 喬が皖城を出立し徐州・広陵に向かった頃、
敵を追随していた孫堅は黄祖を一旦打ち負かし、そのまま追撃し続け漢水を渡り、
再び襄陽を包囲していた。
 戦局は孫堅側に傾いていたと考えられたが、次の決戦を直前にして彼の陣営では
静かな動揺が起こっていた。
 荊州の劉表の陣から軍師呂公率いる弓の狙撃兵一群が隠れてこちらに向かっているだの
という噂がたち、それに加えて本陣に掲げてあった大将旗の竿が大風に煽られたところが
悪かったのか、或いは老朽化していたのか真っ二つに折れたのである。
 "これこそ不吉の兆し。ひとまず退陣を"と周りの幕僚等は揃って捲し立てたが、
当の大将・孫堅は悠然とした構えを変えず、気にするそぶりも全く見せなかった。
「迷信か何だか知らんが、いちいちと気にちゃあおれぬわ」
ただでさえ決戦前なのに加えこの予兆を目の当たりにしても、この男にはこう吐き捨てて
快笑する余裕さえあるのだ。
 孫策はそんな父を前にして隠れて失笑し、それまで幾らか緊張していた自分が
恥ずかしくなったりもした。

それまでは父に付き従いただ自分に都合の良い戦を楽しんでいただけであったが、
やっと最近になって頭を使って戦について幾分か考えるようになっていたのだった。
そんな中であったにも関わらず、明朝からの決戦に際して父が彼に任じたのは
「お前は、是処(ここ)に残れ」
ただ“この場を動かず、本陣を守衛する事”であった。

 しかし孫策は若干物足りなさを感じつつも明日の決戦は幾つかのそれの一つであって、
今回がうまく運べば次こそ先陣に出してくれ、と懇願するつもりだった。

 前夜、残り火の始末をした後に本陣一角の高い場所にひとり座り込み、
誰にも見せられぬような気の抜けた顔で欠伸(あくび)をした直後、
背後から自分の名を呼ぶ気配を感じた。
「―策か。」
ぼんやりした顔で視線だけ後ろにやると、歩み寄って来たのは孫堅であった。
「何だ?…親父が名で呼ぶなんて、珍しいじゃねえか」
この時代、人民の名は上から"姓"、"名"、下漢字二字が"字(あざな)"である。
司馬やら夏侯のような漢字二字の復姓の者も居るが他は大概、上漢字一字が姓、
二番目の漢字が名となり大義的には大切に取っておくものであり、"名"一字で
他人を呼ぶ事はまず有り得ない。仮に有ったとすれば、後で聞くと関係の無い
歴史書の中の英雄の事だったりする。
「只の気紛れだ」
そうさらりと言った後、孫堅は座り込んで居た孫策の横に並んで立ち、
其処から見える山やら城下の一片、家屋やらを見下ろして息をついた後に苦笑した。
「策…俺は矢張り山は好かんわ。海の方が善い」
海の水平と較べ正反対、進む度に忽(たちま)ちに高さを変えてゆく山の姿に
目が追われ過ぎて疲れて仕舞い、ついて行けないらしい。
…それがそもそも、山の醍醐味であるというのに。
意外に孫策にはその一言が面白かった様だった。
「ッハハハ!ナニ言ってんだ今更。ンなら帰るのか総大将」
「それはない、が…しかし。この戦が終わったら、先(ま)ず晴れるを待って船に乗りたい」
―海に出るのだ、と。
そう言う孫堅の目は既に空に飛んでいた。
「へえ、船か!で…船で今度はナニすんだよ親父。どっかに攻めんのか?」
孫堅は首は振らなかったものの、返事は否定だった。
「…いや。船上で酒を呑むのだ。沈む程」
それを聞いた孫策は一瞬、余りに父が単純な事を言ってのけたので自分が
聞き間違えたのかと思ってしまった。
「あぁ!?酒ぇ!?親父、こんな時に一体何言って…」
「無論、お前もだ。」
明日になればまた幾多の兵を率いて総大将のそれに戻るのであろうが、今彼の方を見やりつつ
ニィっと笑んだ孫堅は父親の顔をしていた。
「やべえ親父、無理だ俺!酒酔いに加えて船酔いだぜ」
本気で慌ててしまい、今度は父に声を出して笑われた。
「まあ良い。水軍を鍛えればお前もいずれは慣れる」
そう言うと、孫堅は何かふいに思い出したらしく上衣の中に手を突っ込み、布袋を
無作法に引っ張り出すとそれを座っていた孫策に向かって放り投げた。
「え…何だよこれ」
彼がそれを確かめるとほぼ同時に、孫堅は流す様な口調で言った。
「俺はもういらん。この戦に紛れて山の何処かに放ってやろうかと思ったが、暇を逃した。
…お前が持っていろ」
「…へっ?」
袋の中をぼんやり覗いた孫策は、眉を潜めた後に目を点にして父を見上げた。
―受命于天、既寿且康。
―『命を天より受け、既に寿しくして且つ、康からん』
いらぬやら、放るやら言っていたのでどこのごみかと思っていたが、以前孫堅が洛陽で
手に入れた大漢帝国皇帝の“伝国の玉璽”ではないか。
これを持つ者こそが正に、王朝の継承者であると。
流石に学に対して最低限の興味しか持たない孫策でも、食らいかからざるを得なかった。
「おぃ、親父!コレが何なのか分かってんのか!一体全体ナニ捨てるとか何とか
やべえ事ぬかしてんだ!酔ってんなら早ぇトコ目ェ覚ませよ」
「…別に酔ってなどおらぬわ」
孫堅は尚も何かを潜めているかのような笑みを作り、彼に向けて来る。
「じゃあ、何なんだよ!」
その孫堅も、宮殿跡で当時手に入れたのが伝国の玉璽と聞いて直後は、倒れる程に
手足も震えて喜びに興奮したものであった。
しかし、
―彼にとって、大いなる志を得るのはその『最初の一瞬』さえあれば十二分だったのだ。
「―策よ。ではお前は、この金の塊を持ってさえ居れば地を平らげ国を興し、この乱世を
纏め得ると言うか。」
「何……」
考えが追い付かず返す言葉をつかめなかった孫策に、孫堅は続けて痛烈な言葉を浴びせて来る。
「仮に俺がこの場所にその玉璽を適当に埋めるか放るかしたとして、今散ってる群雄どもが
どうする。恐らく俺の命を狙い、並行して平定など後んじて血眼になり、草の根一本分けてでも
玉璽を探す。だがこんなお宝は何処に有れ、欲の手か正義のそれか知らぬが、
いずれ必ず何処かしらの、輩の手に落ちる。
ならば俺は、天の玉璽を再び探し求めるくらいならば、何よりも地を目指す。」
孫策はそう聞いた時、父は手に掴まれる程の小さき徴(しるし)よりも、
絶えず変わり続ける『志によって得る大きなるもの』を選んだのだ、と
自分なりに確信した。
「―じゃあ。"天を知り地を知れば、勝すなわち全かるべし"と言いたいのか、親父は。」
彼は『孫子』は最初の序と第六しか覚えていなかったが、取り敢えず後ろの
何となく似た方を諳(そら)んじてみた。
「お前にしては運良く孫子のそこを覚えていたのなら…そういう事にしとこうか」
孫堅は小さく鼻で笑い、深くは追求せずに受け流した。
そしてその金の塊は、鎧の中にでも放り込んで矢の一つでも凌いでもらえ、と笑いながら。


その二日後の夜明け、
孫堅はただ一騎で山山中に黄祖の一群を追い、
その最中竹林に潜んでいた弓兵部隊に針鼠の如く弓矢を射かけられて落馬し、絶命した。
この時193(初平四)年正月七日、三十七歳。
大志半ばにしての非業の最期であった。