短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」七


何故か今日という日に限って、この家の男たちは全員早朝には起き上がっていた。
通常、長子の孫策などは特に、戦と食う事以外で「趣味は快眠だ」と普段から豪語していたため
昼過ぎまで部屋から出て来ない時は家人から「寝過ぎて腐ってるのではないか」と
隠れて笑い草にされる事も日常茶飯事であった。

そんな男が、陽の出る前から馬を走らせた事などかつてあっただろうか。
その証拠として、この季節の昼過ぎに感じていただるい暖さよりも、若干肌寒い
朝方に立つ靄の方が自分の熱さを冷ますのに兆度良い、と孫策は初めて思った。
しかし、そういう概念的な事以外は何一つも考えられない程に周瑜一行を追う事に
神経が集中していた。

しかも先程孫権が自分に見立ててくれたのが走りながら善く道を識る駿馬だったらしく、
彼は馬の鞍の上に腰を下ろす事も何時の間にか忘れ、更に速度は上がった。
そんな中で馬車の車輪の跡が残る公道に辿り着き、更に痛快であった。
「ッハハハハ!追い着いたぜ!」

ここから見渡したって見付かるわけではないのだが、ぼんやり遠くを見やった。
「兄上、今ごろどの辺りかな」
先程弾丸のような勢いで兄を送り出した孫権には、再びいつもの日常が戻っていた。
「春卿。ねえ。兄上は、速打ち(緊急の伝令)にもなれると思わない?」
またよどみの無い瞳を向けて、勝手に名付けた馬達に話しかけていた。
毎日それを懲りず繰り返しているという事は、返事が貰えているからであろう。
若しくは少なくとも、彼がそう思えているから。

「早阿(おはよう)」
その時、家に繋がる方向から大きな人影がこちらに向かって近付いて来た。
「はぁ、早起きしているとは聞いていたが…お前はいつもこんなに早いのか?」
そう言った後、"何でいつもわざわざこんなに早く"とでも言いたそうに苦笑した。
自分に対して名指しが不要な人物といえば大概、父か兄くらいであった。
「早安(おはよう御座います)、父上。」
朝から立て続けに珍しい事も続くものだと思いながら何か嬉しくもなり、孫権は朝の挨拶をした。
「今日は、父上もお早いのですね。」
それを耳に入れた孫堅は、一瞬後方に目をやって今度は鼻で笑った。
「うむ。いや…早く起きたというか、起こされたというか、起きざるを得なかった、というか」
「…何かあったのですか?」
状況の分からない孫権が不思議そうに見上げて聞くと、予想外の言葉が返って来た。
「熊、だ」
「…くま!?」
目が丸くなったのはいう間でもなく。
孫堅は微笑を含んだまま頷いて、更に続けた。
「あれだ。昨日から拗ねて自分の部屋に閉じ篭っておった熊が、朝早々物凄い音を出して
戸を喰い壊しおった。あの音で起きるなと言われた方が無理な話だ。」

―自分の部屋に閉じ篭っていた熊。
「…あっ、」
孫権は、もう父の言いたかった事が理解できた。
自分で戸を内側から木軸で閉めておいて、それを自分で内側からへし折るなど
熊でさえやるのか分からない。
そんな孫権をよそに、孫堅は気持ち良く毛並みを直して貰って居た馬の群れにちらりと目をやった。
「…一頭居らんな」
「えっ」
あっという間に数えていた。
相変わらず父は何が起きても大袈裟に一挙言動が変わる事が無いので、孫権は時折
焦る事があった。
数え直して、顎に手をやった。
「…矢張り白いのが居らぬ。仲謀、お前知らんか?」
父に聞かれると、彼は必要以上に慌てた。
「あ、あのっ!あの、先程兄上がその、か、狩りに行くと言われて一頭」
何と言って良いか分からなかったが何故か口が"狩り"と言ってしまっていた。
「…何。あの朝寝しか知らん伯符が、朝っぱらから狩りだと?」
返事として二回くらい頷いた。
「あ、あの。はい。その、狩り…」
上手く言って言い流そうと思ったが即拾われてしまったので、孫権は更に動揺した。
「…周君らを見送りに行ったのではないのか?」
「…あ、」
孫権は半分上げた手を下げられないまま一瞬、硬直した。
よくよく考えると考えられる当然の事で、父は兄を追いかけてどうこうしてやるとも言っていない。
よって、別に隠す必要も、匿(かくま)ってやる必要も全然無い事ではないか。
「仲謀よ。…お前の、その嘘の下手さ加減は何とかならんのか?」
「ち、ちちうえ…あの!」
笑いながら軽く自分の頭を突いて背を向けた父に、孫権は慌てて弁解しようとした。
「伯符が戻って来たら言っておけ。自分で壊した戸は自分で直せ、俺は手伝わんと」
「父上、あの、あの、兄上の事をどうかお咎めにならないで下さ…」
しつこいのかしぶといのか分からなかったが兎に角いつまでも小さいのが後ろで言い続けるので、
孫堅はもう一度振り返った。
「俺がいつ、あれを咎めてやると言ったか?…あぁ、ついでにこれも言い足しておけ、
戸の閂(かんぬき)は今度から金属製にしろと」
「あ…あの。はい。…分かりました…」
最後に返事をした次子を確認して、孫堅は前方に直った。
孫権は最初、ゆっくりと大股で家に戻って行く父の背を見送っていたが、途中から追いかけた。

周瑜や喬らを乗せた馬車は細くなった林道近くを走って居たが、
手綱を握っていた魯粛が何か感づき、その走りをいきなり止めた。
「…周瑜殿」
目線を投げられた周瑜は頷き、馬車の後方に頭を出した。
「うん。それにしても意外にというか…予想以上に早かったな。」
ここの二人共、耳と空気を察する感だけは動物並みに良い時があった。
「あの。周瑜さま…すみません。…一体何が」
が何も知らぬ様子で聞くと、微笑して答えた。
「ああ。大喬小姐、良かった、間に合ったよ。…どうやら来たみたいだ」
自分の分からぬところで話が進んでおり、首を傾げた。
「…"来た"って、どなたが…?」
手綱を放して体を乗り出し、それに答えたのは魯粛だった。
「何を言ってる。君を追って来たんだ、大喬。"白駒公子哥"だよ。」
―白馬の貴公子。
「まあ…白馬には乗って居らぬかもしれんが。しかも、公子哥と呼ぶには少しタチが悪い」
「えっ!?」
はその一瞬にして自分の顔が紅潮して行くのが分かった。
まさか。
あの孫伯符が馬に乗って追って来た、とでも言うのか。
「…置き文が効いたね。」
「いやあ矢張り、あれを見て追って来ぬ男は居らんでしょう」
心音が高まって全身が痺れたかのように動けなくなった彼女をよそに、男二人は談笑を続けて居た。
「お…置き文…?」
そう誰にも聞こえないような声で呟いた喬だったが、それはしっかり魯粛の耳に入って居た。
「ああ、そうだ大喬。君が昨晩創った素晴らしい、あれを」
あれ、と聞かされて何かが思い当たった。

「えっ…」
思い高まった自分が絹布に刺繍した詩。
誰にも見せる事無く終わりたかった。
願わくば、それを向けた孫策にも。
誰かに見られると最初から分かっていれば、あの様な情熱に近い思いの丈は
詩の中にこぼす事など絶対出来なかった。
「…ええっ!?」
事実を知った喬の瞳には、羞恥心からか涙の線さえ浮かんで来た。
「お姉ちゃん、…ごめんなさい。それ…さっき、あたしが見つけて…」
今まで珍しく黙っていた小喬が分が悪そうに呟いた。
最早、誰が悪いでもなく責める気も無く、ただ喬はひたすら恥ずかしかった。
(ど、…どうしよう…私ったらなんて事を…恥ずかしい)
後悔はしていなかったが、矢張りあの様な詩を男に向けて編んでしまった事が。
冷静に見守っていた周瑜は、更に彼女にこう告げた。
「大喬小姐。…いいかい、貴女は是処で馬車を降りるんだ。」
(…えっ!)
「降りたら、…そうだね、五十くらい数えたら良い。兆度お迎えが来るから。」
馬車から降りて"白馬の貴公子さま"を一人で待っていろ、とでも言うのか。
待つよりも寧ろ、一人で逃げたい気持ちだった。
「そんな!できません私…どうしたら…恥ずかしい」
「…厭かい?」
魯粛のその尋ねに対し、本能で首を振って答えていた。
「い…いいえ、そんな事は」
確かに、喜という感情は存在していたが。
今の喬は、それ以上に理由の定まらぬ震えが止まらず、立つ事も出来なかった。
今から自分を追って来るのが、あれだけ"もう一度逢いたい"と願った、あの男ではないのか?
その気持ちは恐らく変わらないどころか、純度は増していた筈であった。
しかし、そうなればなってゆく程、臆病になってゆく自分が居た。
いざという時になって勇気の出せない自分という存在を、心の隅で呪った。

「…お姉ちゃん」
その時小喬が、喬の瞳から零れていた涙をそっと手絹で拭った。
「お姉ちゃん、あのね…あたし、"恥ずかしい"って事は"後悔する"事より…ずうっと
素敵な事だと思うの。あたし…お姉ちゃんのお話、素敵だった事もそうじゃない事も
後で…ぜんぶ、うぅん、全部じゃなくてもいいよ、気が済むまで聞いたげる。だから、…行って」
「…小喬」
普通、こんな事など動ずる必要もなく、恐らく些細な事でしかない。
しかし、これまで殆ど外に出て冒険をする事も無かった喬には、人生の中でまだ何回かの、
若しかして初めてかもしれない一大事であった。
その事を最も察してくれたのは、矢張り同じ世界で共に生きて来た妹なのだった。
(…ありがとう)
今、喬はこの場で小喬を抱きしめたいと思ったが、それは後で良いと思った。
後でゆっくり事の一切を聞いてもらおう、その時でいい。そう思った。

その様子を見守っていた周瑜は静かに微笑んで息をついた。
このお嬢さんは意を決したな、と。
「…ならば事は運ぶ、か」
そう言うと彼は馬車の中を見回してその辺に落ちていた揚州ら周辺の地図を拾い、
何やら一筆書き込んだ。
「大喬小姐、これを」
言いながら小さく折り畳み、喬に差し出した。
「…周瑜様、これは…?」
「うん。まあ若し君が万が一、会話に困った時にでもあの男に渡したらいい」
普通の地図ではないのか?とは一瞬思ったが、取り敢えず受け取ってみた。

一刻して周瑜達の馬車は先に行き、前にも後ろにも物陰が見えなくなった。
早朝独特の空気が残るただ一本の林道の真中に、喬がただ一人残された。
彼女の耳には先程後ろ髪を引かれながら馬車を降りた時の、周瑜が最後に告げた言葉が回っていた。
「孫策は僕にもいまいち掴み所が分からないが、気はとても大きい。だから小姐、心配要らない」
―安心して良い。
それは自分自身でも分かっていた筈であり、周瑜に言って貰った事で更に安堵して良い筈であった。
ならば今、この全身に走り出した小さな震えは、一体何なのだろうか。
(…どうしよう…私)
最早、彼が道を間違えてくれても良いのではと思ってみたり、自分に気付かずに早馬で
前を走り抜けてくれても良い、と思った。
兎に角、様々な気持ちが交錯して締めつけられそうだった。
そんな時、先程魯粛が冗談交じりで『五十くらい数えたら良い』と言っていたのを思い出した。
何もしなかったらまた不安で倒れそうになると感じた喬は目を閉じ、声を出さずに
数字を唱え出した。

数え始めて半分程まで来た時、気の所為だと思うが周辺の空気が立ちこめて来た気がした。
(―三十、)
四十の前で蹄の音がきこえ始め、自分達と同じく馬で急ぐ人が居るのね、とぼんやり感じた。
しかし、考え直すとそれは若干違う気がして来た。
普段この様な細く入り組んだ林道を、朝早くから自分達の様に急ぐ輩が居るだろうか。
(―えっ、待って。違う!)
が目を見開くと、自分の前に一頭の馬が物凄い勢いで突進して来ようとしていた。

彼女がその馬に気付くよりも、馬の乗り手が道に立って居た細い存在に
気付く方が、一寸だけ早かった。
「―うわっ!」
急に勢い激しく乗り手に手綱を引かれた馬は半身を踊り上がらせ、喬のわずか数歩前で止まった。
きゃあ、と小さい声を発した後に思わず見上げた顔が、たった今馬上から見下ろしたばかりの
乗り手の男の目線とばったり合ってしまった。
確かに、先程周瑜達が言っていたように男は白馬に跨(またが)っていたが
その馬がたまたま色が白かっただけな上に、"白駒公子哥"と呼ぶにはいささか豪快で
繊細さに欠け。
男の方も来る前から一応の確信は持っていたが、いざ再び逢ってみると即座に
驚いた表情になってしまっていた。
(………)
暫く、お互い何の言葉も見付からぬまま見詰め合っていた。
"動けなかった"と解釈しても正しい。
間違いなどでは、なかった。
確かに喬が逢いたいと願ったのは今目の前に馬で追って来た孫策であり、
孫策が後馬で無我夢中で追いかけて来たのは、紛れも無く以前檀渓で出逢った喬であった。

日常の自我に支障が出て仕舞う程、逢いたかった筈であった。
しかし、
いざ逢えてみると、こんなにも言う事が出て来ないものなのか。

馬から飛び降り、先に動いたのは孫策の方だった。
自分の方にゆっくり歩み寄って来る姿を前に、喬は、今度は顔を上げられなくなった。
「…孫伯符だ」
ようやくそのでかい図体からぼつりと漏らした。
先程の豪快さは何処に消えうせたのか自分でも分からなかった。
「…喬か」
顔を見れば既に確認できている筈なのに、名を呼んでしまっていた。
「…はい」
女は女で、そう言ったのもやっとの事であった。
また暫く立ち尽くしたまま沈黙が過ぎた後、再び孫策が口を開いた。
「…夢みてぇだ」

表情は辛うじて平静を保っていたが、彼はやっとそう告げるだけで血管が切れそうだった。
横に引っ張って来ていた手綱を引き過ぎて、馬が嘶いた。

この少し後に大喬・小喬の"二喬"と呼ばれ、美人の代名詞とされた喬・喬婉姉妹だったが、
例えば花はニ喬の前では咲くのを恥じらい、
夜の月は光を失ったと詠われた。
そして今、喬の前に立った節度不知のこの男は、
面白い様に耳が赤くなり、言葉も失った。
(…やべえ。…ナニ言ったらイイんだか、全然分かんねえ…)
今更自分の語彙の無さを悔やんでみても後の祭だった。
しかし仮に彼が勉学狂だったとしたところで、すらすらと上手い言葉が彼女の前で言えたのかどうか。
しかも、前に初めて出逢った時の方が小気味良く言えたではないか。

も話したかった事が沢山有った筈だった。
それなのにいざという時に出て来なかった。

「…あっ、」

やっと言えたかと思えば、運悪く同時であった。
「すみません…あの、…何でしょうか」
彼は瞬時に目線をそらした。
「い、いや、俺は…後でいいや。何だ」
一歩引いた孫策に、喬は先程周瑜から手渡された地図を差し出した。
「これ…」
――万が一会話に困った時にでも、あの男に渡したらいい。
今、先程の彼のその言葉を思い出したのだった。
何だこれ、と急がない様子でそれを広げた孫策は、直ぐに意味を理解した。
「見ろこれ、石亭に印がしてある。お前を其処の関所まで送れって意味だ、多分」
舒県は廬江郡より北隣の九江郡に位置し、石亭は皖と舒の中間の地点に位置した。
「石亭まで…」
は地図を見た事など数える程しかなく、今までは馬車に乗っても
目的地しか知らず他は意識した事も無く、ましてや地名に添って行路するという
経験も無かった。
その為、途中地点まで行くという旅慣れた人間には些細も無い事が、この少女には
何倍も新鮮で胸踊る事であった。
その地図を彼に見せなくてもどちらにせよ、普通の道で皖に戻るには目を瞑ってでも石亭を通る
必要があった。
周瑜は喬がその事を言えなかった場合の事を
考慮していただけの話だった。
「じゃあ話は早ぇ。石亭?其処まで連れてってやるぜ。乗れよ。」
孫策が後ろで馬の鞍を押さえてこっちを見ていたが、彼女が動作を起こそうとしないので暫く待って
不思議に思った。
「あぁ?…どうした?」
良く見ると馬と彼とを目線を交差させながら足が竦(すく)んでいた。
「すみません…わたし…あの、…実は」
続きを言わねばならなかったが、言って莫迦にされてしまうのが怖かった。
続きを言えば当時の価値観の所為で "所詮女か"、と一瞥されてしまうのではないかと。
そして若しかして置いて行かれて仕舞うのではないかと。
しかし先に何か察した孫策は、彼女のその返事を待たなかった。
「ひょっとして…お前、馬に直に乗った事がねえのか?」
「…あっ」
図星だった。
今まで、お抱えの馬車以外で全く必要の無い生活をしていたのだから当然である。
は"お前は馬にも乗れないのか"、と今にも言われそうな気持ちになり下を向いてしまった。
そんな申し訳無さそうな姿を見た孫策だったが、別に態度を変える事は無かった。
ただ、誰にも見られない場面で一瞬だけはにかんだ。
「…そっか、じゃあ」
そう言うと先に馬にひらりと自分が乗り、左腕を差し出した。
「喬、手を出せ!乗せてやる」
「えぇっ!…でも私、怖い…落ち…」
そんな彼女の不安に反し、馬の事などことばを覚える幼児の頃からその身で
識っている孫策には余裕だった。
「ッハハ、ナニ言ってる!心配ねぇって。怖くもねえ。絶対落としゃしねえ」
そう言って笑ったかと思うと、少し上がった喬の細腕を掴み取った。
「―きゃあ!」
思わず叫んでしまったが、彼女にとって馬上から見えるそこからの世界は新しかった。
「行くぜ、しっかりつかまってろ!」
馬首にかかっていた差縄を握らせ、孫策は後ろから喬の腰を左腕で抱え込んだ。
―確かに落馬する心配も無いと思った。
ひとたび走り出すと、彼女の先程までの漠然とした不安は、味方した風と共に吹き飛んでいた。
(―気持ちいい!)
「どうだ喬、楽しいだろ!」
「楽しい!すごく楽しい!孫策さまわたし、皖に戻ったら馬を覚えます!」
孫策は、喬のその返事を聞いて即座に『おう』と応えようとした。
しかし、無意識に見た彼女の笑顔を見た時、心臓を切りつけられた心地がした。
―父についていた時に以前余所でたまたま見かけた女たちは、偉方を射貫くが為に
色香のみで争っている様に見えた。
孫策は、そんな女たちの作った笑みが鼻について嫌いだった。
大雑把な考えしか持たなかったので、家に居る女以外は全員ひっくるめてその
同類に見えていた。
それが恐らく、普通なんだろうと。

しかし、自分の前でこんなに素直な笑顔を見せてくれる少女が居たという事を
彼はこの時初めて知った。
そして素直だから、喬は繊細にも見え、強くも見え、脆くも見えた。

だから、心なしか惹かれたのだ。
しかし、彼自身はそんな具体的な事は勿論、結論さえもきっと描いていない。
仮にそうなる事が有っても、自覚するのはこれよりずっと先の話である。

随分と距離的には馬で走ったのかもしれないが、辿り着いてみるとあっという間であった。
太陽は昼にさしかかるかそうでないかという傾きになっていた。
石亭の関所まで来たが、見渡しても辺りには自分達以外の人影が見えなかった。
州同士の関所は厳重だが、郡県同士となると規模も小さくなり杜撰(ずさん)な部分が露呈した。
それゆえ、場所によっては、州内であれば通過する事も当時非常にぬるかった。

馬で取り敢えず関所を抜けてみたが、その先にも誰も居なかった。
「何だ…居ねえな、あいつら」
「若しかして、馬車より馬の方が速いのでしょうか………
きゃあ!」
後ろで予想が外れたと思って、微妙な表情をしながら孫策が振り向いていると
ひとりで馬につかまっていた喬が足を滑らせた。
「うわっ!危ね」
難無く、彼は今度は両腕で後ろから抱えた。
その時、瞬時に先程まで彼女を支えて居た腕を放して居た為であった。
「ご…、ごめんなさい、わたし」
「いいって。絶対落とさねえって言ったじゃねえか。…あれ…?」

はその時、孫策の顔が自分の肩辺りに
埋められていたのを感じた。
しかも、彼の鍛え上げられた二本の太い腕が腰辺りにきつく絡みついて身動きが出来なかった。
先程と様子が違う。
それを意識すると急に、後ろから男の息遣いを感じ始め、再び顔が紅潮した。
「そ…孫策さま…何を…」
彼女が、若しやこの腕が動いたりして心臓の音が相手に伝わり始めるのではないか、
と云う不安さえ持ち始めた頃、孫策から全く見当違いの返事が戻って来た。

「ああ。いや…何かお前、花の匂いがして」
「…えっ?」
は普段から、他の女性の様に香を焚いたり
香水を身に吹きつける事がまず無かった。
しかし逆に、普段花の中で飾らずに静かに暮らしていたので
彼はその自然に染みついた純な香りをただ感じ取っただけだった。

その時だった。
「伯符、花は "匂い" ではなくて "香り" と呼べ。」
「―うわっ!」
背後から覚えの有る人間につつかれた挙句品の悪さについていきなり言及され、
その一撃で孫策は喬を馬の首に押し当て、自分はあっけなく落馬した。
「痛て!」
「あっ、孫策さま!」
背中から落ちて座り込んだ孫策の前に屈み込んで来たのは、周瑜だった。
「大喬小姐、大丈夫だ。…しかし流石だな、馬から落ちても怪我一つせんとは。
しかも、落ちたのは自分だけ。…それにしても一体、大喬小姐にしがみ付いて
何をしているのかと思ったら。花だと?…矢張り君は良く分からない」
落馬しても全然平気らしく、孫策は立ち上がろうとした周瑜の袖を思い切り掴んだ。
「こ、公瑾お前等!居たんならいやらしく隠れてないで堂々と出迎えろ」
「…いや、そのつもりだったんですが…何だか出そびれて仕舞って」
後ろからそう言って来た魯粛に加えて、周瑜も口を挟んだ。
「でも、良かったじゃないか結局」

返事も曖昧にして、孫策は是処から又舒に戻り、周瑜や喬たちは皖に戻る事になった。
「…孫策どの。機会があれば我々、再びお逢い出来る事でしょう」
「そうだな、まあ機会といわず、逢おうぜ。近いうちに。」
馬車を後ろから見送ろうとした孫策の目に、その中から切なそうに顔を覗かせる喬の顔が見えた。
その時、小声で呟いてみた。
「不見不散。」
―きっと、また逢おう。
あの時二人の言葉が同時になって自分が引いてしまった為、
『詩を編んでくれた手絹、持っていていいのか』と言いそびれてしまったから。

しかしこの二人が再び逢える為には、年と戦を幾つか跨(また)がなければならなかった。