短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」六


 その日の夜半前、誰よりも先に寝入ってしまった喬に夜の上布を重ねようと寄った小喬が、
傍に置かれてあった姉の、詩を手縫いにした刺繍を目にして心を痛くした。
 それを聞いた魯粛は屋敷二軒が見渡せる中庭に出、胃でも一緒に出そうな溜息をついた。
眠たそうに目を一瞬細めて前方を見た。
背後には今出て来た周公瑾の家。そして彼の直ぐ目の先には孫伯符の家。
家の真中に奥行きのある素通しの渡り廊下が通っており、それを境に部屋が左右に
分けられていた。
しかも外側に突き出ている一番近いあの部屋は、事もあろうに孫伯符本人の部屋。
(…あんなに近いというに、名のある家の者であるが故に、思う様に面会適わんとは…)
『不条理だ!』と荒げ声で叫びたくなったが、腹の中で建前上押しつぶした。

 埒があかないと分かっていつつも、彼が虚しさを抱えその辺りを眺めていると、奥の方から
気配を殺しながら歩いて来る小さい影が見えて来た。
何かおぼつかない。
(…あれは…孫策殿の弟君。)
孫権だった。
 当の本人は家人に見つからない為だけに必死であり、遠目の魯粛の存在など全く気付かなかった。
何やら、両手で運んでいる盆上の鉢の中から湯気が出ている。
こんな夜更けに何をするのかと眺めていると、孫策の部屋の横で立ち止まり、右下隅の
壁の方を何やらいじった後に匍匐(腹ばい)前進して部屋の中にじりじり入りこんで行った。
食糧らしき、湯気の出る鉢と共に。
その隙、うっかりしていると見逃しそうな程に一瞬の出来事だった。
(―!?)
 魯粛はその一部始終に一遍目を凝らした後、本能的にその壁に近寄った。
(―これは…?)
 先程は真正面からだったので見えなかったが、孫策の部屋の壁を横から見てみたところ
右下方に薄板を打ち付けたか貼り付けたかのような引き戸がくっつていた。
(…何だ?若しかして…是処から入って行ったのか?)
 魯粛は、首を傾げると同時に、思わず石畳の上にかがみ込んでその箇所をしげしげと見詰めた。
その時だった。
 目の前の引き戸が開き、部屋の中から顔を出して来た子どもと思い切り目が合った。
「うっわっ!」
その子どもは孫権だった。
(し!―しぃっ!お静かにして!)
一遍後ろに仰け反った挙句尻餅をついた魯粛の口を、慌てながら手で抑えた。
兎に角、名前を呼び合う間合いも持たなかった。
『君は、孫権くんじゃないか?』と魯粛の口から出かかる前に、別の方向から
大の男の大音声が響いて来た。
「―仲謀!」
彼を仲謀、と字(あざな)で呼ぶところ、父親の孫堅だと思われる。
「へっ…?」
声のした後方を振り返りながら立ち上がった彼の膝に、孫権がいきなりしがみ付いた。
ぼんやりした彼とは逆に、首の位置さえ定まらずにど偉い慌て様であった。
恐らく、理由はわからないがこの場は父の目から逃れなければならない状況だった。
顔を見ると、今にも泣きそうに引き攣っている。
「かっ、隠してっ!隠して!お願い!」
それを無理矢理聞いた魯粛は、口が開いたままになっていた。
いきなり何を言うかと思えば。
「は?何!隠してェ!?」



奥から歩いて来たのは、予想通り主たる孫堅さまだった。
「―仲謀よ!またこんな刻まで起きておるのか!」
10歳そこいらの子どもが、夜半まで寝ずにふらふらしていれば大概、何処の親だって怒る。
たった一声であったが、この孫堅の言であれば家一周を震わせるには十分だった。
息子からの返事は無い。
ふん、と鼻で笑った後、彼は渡り通路の真中辺りで一遍立ち止まった。
「どうせお前、また不貞腐れて飯も食わんあやつに、粥の一杯でもくれてやったのだろう!?
まったく。…お前がそうやって要らん世話を焼くから、伯符が調子に乗って部屋から出て来んのだ!」

そう吐き出した後に正面をふいと向いた孫堅は、今日隣の家に客として来ていた
男の姿が目に入った。
「あっ―これはこれは。夜分今晩和、孫先生。」
そう語りかけたのは魯粛で、中庭の真中で『ひとりで』星天を見上げていた。
息子に怒鳴りつける父親の姿を隣家の客人にまざまざと見せ付けてしまい、孫堅は分が悪そうに
失笑した。
「あぁ…其処に居るは魯粛殿。下世話な場面を見せて仕舞ったな…ははは。…俺は先生なんていう
分じゃないが…。ふむ、貴公はこの時間に星観察か?…で、どうだろう。明け方は晴れそうか?」
何事も無かったかのように、ずっとこの場所で空を見てましたよと言わんばかりに
魯粛は微笑しながら頷いた。
「ええ。今日のは特にですが、冬の星空は澄んでおりますゆえ、滿天星斗(一面の星)ですね。
朝は霧が出ると思いますがかなり良い日和なのでは…。」
長々しく星についての薀蓄を学者風情で説明して孫堅を頷かせたが、実のところ
彼の話は殆ど思い切りの良い勘と身振りで持ち堪えていただけで、結構でたらめであった。
「晴れるなら結構だな。…しかし。貴公と周君らはもう発たれるのか。道中、気を
つけられよ。…まあ、またこちらに入郷する事でもあれば、うちにも遠慮無く寄り給え」
彼はそれに深々した敬礼で返した。
「それは光栄です。…お気遣い有難う御座います」
「魯粛殿、」
言われて彼が見上げると、孫堅が腰に手を当てて一遍だけ目を左右させた。
「すまない。…聞くが、先程までこの辺に俺の家の下の子が居なかったか?」
「そちらの、下のお子…いいえ?人影は見ておりませんね。私はずっとここに居りましたが…。
しかし…猫ならば先程、確か白いのが一匹」
では先程のは息子ではなくて、猫か、と孫堅は呟いた。
「猫など捕まえても食いモンにもなりゃあしないな。はは。では魯粛殿、これで。俺は休むよ。」
「ええ。…良き夢を」
腰の手を上げて奥の寝室に消えて行く隣家の家主を、魯粛は頭を低くして見送った。
時折、未だ一人称に”俺”を使える、彼のその男伊達ぶりに敬意を払って。

その姿が見えなくなって、何秒ほど経っただろうか。
瞬間肩のばねの切れた魯粛は、物凄い量の息を鼻と口から同時に出した。
「…さァて…。もう行かれたよ?」
そう言ったかと思うと、同時に彼は自分の衣服の禅衣(ひとえ)の下を引っ張り上げた。
すると。
「あの…すみません。あ…あの、…助かり…ました」
魯粛の衣服の下からおずおず顔を出したのは、何と孫権だった。
其処から申し訳無さそうに出て来た後、一回だけむせるようなくしゃみをした。
苦し紛れに、魯粛は彼をこんな所に隠してしまったらしい。寧ろ自分の方が謝りたくなって
魯粛は苦笑した。
「いや。なに、いいんだ。しかし…ははは。それにしても微妙な気持ちだった…。そういや
孫権くん、君はさっき、確か壁際から孫策殿の部屋に入って行かなかったかい?」

えぇ、と隠しもせずに頷いた孫権に引っ張られて行った先は、先程の壁隅の引戸だった。
彼が左に戸をずらすと、辛うじて子どもがすり抜けられそうな位の穴があいていた。
指差して説明までしてくれた。
「ここ。兄上が5年前に部屋の中で暴れられて居たついでに、足で蹴破られたんです。
でも、頑丈に塞がない方が"こういう時"に都合が良いですから…」
「…じゃあ、君はさっき、孫策殿に」
見ると、その少年も合わせたように顔を向けた。
「あれから部屋から出ずに食事を全然されていなかったので…。その。粥の残りを…」
運んで行った、と続く。
この兄弟はどっちが親のどっちに似たのか、彼は本気で知りたくなった。
「兄思いの弟君が居て…孫策殿は幸せな男だ。まったく、」
それを聞いた魯粛は、流し目で部屋の方を一見し、鼻で笑った。
その後、彼は壁の穴を後方が見えるまでじっと覗き込んだ。その奥に、
寝床の上で孫策らしき男が布団を被り、白い団子のようになっているのが見えた。
(この穴…。やはり子どもにしか通れぬか…、)
難しそうな顔をして両手で尺を測っていた魯粛に、横から孫権が口を挟んだ。
「魯粛さまなら細身ゆえ、通れるかも」
振り返るとその子どもは何も案じずに、にこにこ笑っていた。
確かに、魯粛は背はわりかしあったが生まれつきの文人であった為、横の幅は無かった。
「…そうか。私なら通れるか?…そうか」
ニヤリとした彼は、その姿勢のまま笑い返した。
「孫権くん。この横穴、…後で、一遍だけ借りるよ」
どうぞご随意に、とここの実質的責任者は嬉しそうに頷いた。


 随分寝ていたらしい。
―孫策殿、
 夢か現か、執拗に寝ている傍で自分の名が呼ばれている気がした。
―孫策殿、
 (…誰だよ…。うるせえな)
 思い切り反対側に寝返りをうった。
 部屋は閉まってるんで人は来れないから、多分夢だろう。
 なもんで、暫くしたら聞こえなくなるから我慢してよう。
 そう云う事にした。

「…孫策殿。聞こえて居らしゃるか分かりませぬが。貴方に昨日お会いした魯粛です。」
そう呟いて、孫策の傍に立って名を呼んでいた男が居た。
独り言で終わるかもしれなかったが、取り敢えず彼は続け、真意だけを告げた。
「周瑜殿と私がこの度この舒に急行した真の本分は、…孫策殿。貴方に、永く貴方が
探されていた"胡蝶"をお逢いさせる事だったのです。…しかし、皮肉な事に本願かなわず」
 (…?)
それを聞き向きだけはこっちに直ったが、相変わらず孫策は寝惚けていて
布団から姿を現さなかった。
孫権が夜中に持ち運んでくれた其処の鉢をいつ空にしたのか、食った本人も分かっていない。
魯粛の伝言はまだ続いた。
「ですが。せめてもの手なぐさめとして、貴方に…ここに土産だけでも置いて帰ります。
どうか、今後も諸戦に於いてご健勝であらせられる様」
彼はそう言うと、孫策の寝台横の台に手紙のような物を置き、振り向きもせずに
その部屋から出ていった。
…壁の横穴から。


偶然か奇跡か、先程の誰かさんの予想通り、この日の明け方前は一面に霧が立ち込めた。
周瑜達は、慌ただしく出立の準備をしていた。
「いでっ!いでででで!」
先程の部屋の壁穴からにじり出た魯粛が、無理やり身体を捻った所為で腰を痛めていた。
「あれ、大丈夫!?…どうされたのォ。粛兄様…」
「いや、…小喬。何でもないのだがハハハ思わぬ誤算で…。いてて」
偶然にも突破口を見つけてしまったというか、
加えて、何も部屋の中から出る時は戸が中から開くんだから、別に狭い壁穴から出なくても
良かったんじゃないの、というか。
も妹と同じく若干彼の事を気遣っては見たが、部屋の中を見渡す目が
落ち着いていなかった。
(あれっ、私…何処に置いちゃったんだろう)
「どうかしたのかい?小姐。」
彼女の様子がおかしい事に気付いた周瑜が尋ねた。
「あの、周瑜さま。私ったら、泊めさせて頂いたのはたった一晩だったのに、
無くし物なんてしてしまって…。」
それを聞いて、彼は『何だそんな事』、という風に鼻で笑った。
「そう。なあに、直ぐに見つかるさ。この部屋を掃除する者に、見つけ次第後で送って
貰うように伝えるから。」
は、慌てて首を振った。
「いえ。周瑜さま…。あの。探して頂くような物でもないんです。大した物じゃないので…」
ふぅん、と彼は相槌を打った。
「そうか、…じゃあ、それを仮に見つけたとすれば、…どうすればいい?」
はっきりいうと、恥ずかしくて他人には見せられないものだった。
「あの…隠しちゃって下さい。」
やっと言うと、恥ずかしそうに笑った。

間もなくして、一行を乗せた皖に戻る馬車が走り出し、朝靄の中に消えた。



(………やっべえ、俺…夢にまで"胡蝶"とか出始めた…。)
先程の寝床の傍に立っていた魯粛という男が夢だったのか、現実であったのか区別がつかずに、
孫策は布団で丸くなったまま、暫しまどろんでいた。
(…確かアイツ、ナニか其処に置いてったよな…)
其の中から右腕だけそろっと伸ばし、半分疑いながら寝床の横の台を適当に叩いた。
彼の思う通り、幻ならば何も無し、
真実ならば、何かモノが其処の上にある筈。
「…へっ、」
その時、孫策はやらかい布を掴んだと同時に、被っていた布団を天井近くまで放り投げ
勢いづけて半身を起こした。
ナニかあるじゃねえか、と。
「…何だ、これ」

二、三回頭を横に振って脳を起こした後、朝の細くて緩い光を頼りにし彼は目を凝らした。
自分の手に握っていた物は、そこの男の趣味ではない薄手の手絹ハンカチで、
一首の詩が刺繍されてあった。

  孫 郎 一 去 人 心 憔
  苦 了 廬 江 痴 情 女
  繍 方 巾 求 天 相 君
  横 也 糸 来 竪 也 糸

  ∴孫郎はお去りになって、ひとり心焦がれて憔悴する愚かな廬江の女。
   絹の手巾でせめて、糸の様に横にも縦にもかたく思いを巡らせて。

繊細過ぎる程に甘苦しくて切ない、女の歌。
文字に興味など全く持たない彼がかつて唯一貪るように読んだ無名氏の、或いは前漢の短簫鐃歌
【たんしょうどうか】十八曲を思い出した。
―どんな人がどんな大切な人に向けたんだろ、と当時幼い思いを馳せ。
それが今事もあろうに、多分自分に向けられている。
動揺したのか片手が落ち着かなくなり、髪を掻き揚げた後はそのまま口を押さえていた。
(…まさか…)
こんな「夢」は有り得ない。
絶対。
覚えず、彼は知らぬ間に心臓が動悸していた。
四行の絶句だが続きがあり、その詩の下の方にゆっくりと視線を落とした。

―孫郎在心。
わたしの中にいつも、孫郎がそばに。

更に、その一番下に縫われていた文字を見たと同時に孫策は自分の部屋の戸を蹴り壊し
家の外に走り出していた。
―喬愁情歌。
頑丈に作っていた戸の施錠の木軸も真中で折れたというよりはぶつりと千切れ、
見事に駄目になった。

「ニ傑、鼻毛が伸びたね。今度、切ろうね」
 家の庭先前の厩に一番乗りし、馬たちと何やら喋りながら栗毛を整えて歓んで貰うのが
孫権少年の毎朝のおつとめだった。
馬全頭に、いちいち名前までつけている。
夜更かししていたにも関わらずこの日も大人が起きれない明け方には目を覚まして
周瑜たちをひとり見送った。
「君たち毎朝こんなに朝なのに、朝から良く、食べるね。」
草の入った桶を馬に順に返しながら呟いていると、後方から朝霧を分けて突っ込んでくる
人影があった。
「仲謀!」
「を?」
振り返ると、昨日夜から全く部屋から動いていなかった自分の兄ではないか。
「仲謀!仲謀よ!」
昨晩と見違えて偉く油がささった様で、いつもの形(ナリ)振り構わぬ自分の好きな
兄に戻って呉れて、孫権は嬉しくなった。
「ああぁっ、あにうえ!もう、お目ざめ宜しいのですか!?」
「おぉ!」
裏切らずにニヤっと子邪気に笑った後、厩の前に拳を突き上げた。
「仲謀よ!今日、お前が見てこの中で一番調子イイのはどれだ」
「…えぇっと」
何処に乗って行くのか知らなかったが、兄はこれから周郎たちを
追いかけるのだろうと思った。
孫権は二回ほど全部の馬を見渡し、最後に一頭に視線が集中した。
その間わずか数秒。
―本人が後で言うには、目が合って微笑みあったと。
近付いてその馬面に抱き付いてやった。
「兄上!今日この瑛駒馬が最高にいい!」
「おっしゃ!」
ンなら借りるぜ、と威勢良く飛び乗ったその弟が目利きした馬に、孫策は一瞬で馴染んだ。
知らぬ大人の熟練者よりも、この男はこの点に関しては弟の方を格段に信頼した。
 そのまま勢いに乗って手綱を振って突っ走ろうかと思ったが、彼は一旦振らずに
引っ張ったので、その場で馬を数歩地踏みさせて弟の方を振り返った。
「仲謀、」
「?…どうしたんですか?兄上」
「あのー…アレだ。アレ、晩の…旨かった。アリガトな」
孫策はそう言って照れ臭そうに鼻で笑った後、馬に威勢を付けて弟の返事を待たずに
朝霧が昇り続ける道の中を駈けて行った。