短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」五


―孫策、…伯符さま。
 揺られる馬車の中で繰り返し、繰り返し、喬はその男の名を胸の内で呼んだ。
―例えそれが過信であろうと、虚偽であろうと。
 仮に一時的かもしれずとも、使い方に拠っては今のこの娘には「嘉言」と成り得る。
 何せ、それ迄はその男の“呼び名”すら持たなかったのだから。

 この馬車は、早速その日の晩に皖城を出立したらしい。
 「何と…綺麗な月夜だ…。曇りも無く。…江水境の月は化粧をされているのか?」
 垂れ幕の一片を引き上げ、その隙間から外を覗き込んでいた周瑜がぶつぶつ
 自分の眼の先で独り言を言っていた。

 (綺麗な女[ひと]って矢っ張り…綺麗なお化粧の仕方を沢山覚えてるのかしら)
 その時、彼女も溜息に近い呟きを漏らした。
 この喬、実は今のところ化粧というものに余り興味が無かった。
 喬の「」の字は、元々「美しく化粧する」という意味合いを持っていた。
 当時覚えずその意味を書の中で知った時、隠れてひとりで失笑した。
 思わず「美しくそだって欲しい」と願って名付けてくれたであろう親に詫びてみたくもなった。
 しかし、
 最低限の上品な身だしなみだけで研ぎ澄まされ、この娘は十二分に美しく成長していた。

 「喬小姐。」
 そんな事をぼんやり考えていると、同時に振り向いた周瑜に呼び掛けられた。
 「!…はい…」
 彼は再度夜通しの行路に赴く事になった喬に、憂いがちな目で微笑みかけた。
 「馬車は…矢張り仕方が無いが、足場が良くない…無理させて済まないね。」
 そもそも、男伊達な盛りの魯粛と周瑜には、馬車やら馬に乗って一晩二晩西へ東へ、などと
 云う事は日常茶飯事で、職務移動の一手段として何ら大した事は無かったが、
 良く考えずともうら若き娘に、険しい道を夜通し馬での走行を強いる事は
 苦難なのではないかと感じていた。
 いいえ、と首を横に降ったこの娘には、疲れの微塵も感じさせなかった。
 寧ろ、この先出遭う期待に心が高鳴っているかのようにも見えた。
 「…これはわたしが一番望んだ事だと思うんです。わたしの方こそ…逢ったばかりの周瑜さまに
 お付き合い戴いて…申し訳無く、有難く思っています。…粛兄様にも」

 名を出された魯粛は、今馬車の外でぼんやり手綱を振っていた。
 「気になさる事無いですよ。貴女はとても優しいお嬢さんだ。…それにしても」
 そう言ったかと思えば、周瑜は鼻で笑った。
 「僕は小さい頃からの奴を知っているが…。今迄僕はずっと、あいつは“力の強いもの”にばかり
 惹かれてるのだと思っていた。…あいつは戦者だ。力も気性も、追手を持たぬ程強い。
 しかし、そうとは限らないんだな…。有難う小姐。孫策の思わぬ弱点を知った気がするよ。」
 孫策の様な力の剛な男ほど、時に自らが持ち得ない柔らかい曲線に惹かれ、恋い焦がれる。
 「私の方こそ…有難う御座います。初めて知りました…家の外の世界が
 こんなに広がっていて…こんなに楽しいなんて」
   喬は、もう一度その名を呼んだ。
―孫策さま。本当に…貴方だったら良いのに。何度願ったか分からないけれど…貴方でいて欲しい。

 「小姐。しかし、…ひとつだけ君に言っておかなければならない事がある」
 途切れに入った周瑜の一言で、喬は目が覚めるかのように顔を上げた。
 「…はい…!?」
 「これは本当に“十中の一”なのだが、…若しかすると例え孫策が当人であったとしても、
  君と遭えない場合も有り得るという事。」
   その言葉に、思わず顔を上げた。
 「えっ。…」
 周瑜は一遍頷き、そこから包み隠さず話した。
 「分かる所だけ聞いてくれたらいい。…廬江は、豫州に接しているだろう?江水境辺りの豪族は、
 一時期…といってもほんのつい最近だが、当時董卓という権力を牛耳っていた男が洛陽辺りに
 居たんだけれども、その時に反董卓軍として少し北の陳留郡あたりに構えていた曹操という
 校尉…彼は戦者で名を知られていた男なんだが、その曹操に送金…というか、肩入れ
 していた者が居たらしいんだ。で、その曹操と争うようにして洛陽を目指して董卓軍に
 挑んだ猛者の一人が、…孫策のお父上なんだよ」

 分かり易く話したつもりの周瑜の話も、理解出来たかどうか分からなかったが、兎に角
 人間の名前と位置関係は喬にも分かった気がした。
 周瑜は更に続けた。
 「それゆえ孫策のお父上が“廬江・江水境の豪族”と聞いて、この先覇を争いかねん曹操の事を
 連想される可能性も万が一としてある。その場合は申し訳無いが、種火が大きくならないうちに
 速やかに皖に戻る。外でだと融通が利くが…家を訪ねて実際逢うとなると、あそこの父上を
 通さない限り、初面の者は、まず孫策には逢えない。」
 長くて遠回しでかた苦しいが、この周瑜の言い分は利に適っていた。
  家長としての孫策の父孫堅は、家では何をせずとも、とてつもなく威厳を放っていた。
 簡単に言うと、その家長さまの機嫌が悪い場合、顔も知らぬ年頃の娘を、これまた年頃の
 自分の息子に逢わせるなんて「言語道断」という可能性があるという事。
 しかも、ライバルの曹操に関係した家柄だと思い込まれる事もありえるということ。

 知らぬところで逢えば良いと言えば簡単だが、その前に何よりもこの二人と魯粛が
 強く自覚していたのが、この戦続きの時世に年端も行かぬ姫御が知らぬ土地を
 往来しているこの事が、余所にはほぼ全く有り得ないという事。

 その事に関して、あの家の人間達がどう行った反応を示すのかも多少不安だった。
 「まあ、色々言ってしまったけれど、あまり案じないで。―兎に角、」
 自覚はしていつつも、し直すと時勢の世知辛さに口をつぐんでしまった喬
 周瑜が、今度は優しく声をかけた。
 その場でいきなりその事を当て付けられてしまうよりも、敢えて収まるうちに
 先に伝えておこうと辛役を買って出たのであった。
 「まあ…取り敢えず、魯粛殿と僕が先に孫策の家に行って打診してみる。君は僕の家の客室で
 少しの間待っていて欲しい。いいね」

 …ここまで随分と長く遠回しになったが、最終的に周瑜が彼女に伝えたかったのは、
 実はこの一言だけで。
 
 一得しましたとばかりに、彼女は頭を下げた。
 「周瑜さま…すみません。何から何まで」
 喬は、幾らか今の自分を責めた。
 父親の居留守中に家人に口止めし、家を抜け出し男に逢いに行く事を
 望んだ、今、このあての無い自分を。
 「小姐、貴女が詫びる事では無いよ。僕は、自分がしたいと思った事しかやらないから。
 それより。こんな刻だ、…君は少し横になった方が良いよ。」
 そう言って静かに笑った周瑜は、その時手綱を握っていた魯粛に次は自分が替わる、と
 声をかけていた。
 同乗者に気品を無理に出す必要のある人間は乗っておらず。大欠伸をしながら
 周瑜と騎手交替した魯粛が入って来た。
 「周郎の言う通り。うん。今晩はもう休みなさい、大喬。」
 元々眠気が来ていた上に加えてそんな事を言われたので、大き目の瞳が同時に沈み始めた。
 「はい。…おやすみなさ…」
 喬が横になろうとした時、周瑜が馬車の中の方をすっと振り返った。
 「…小喬小姐。君も其処から出て、足を伸ばして横になった方が良いよ?」
 「えっ、…小喬…!?」
 思わず、我が耳を疑いたくなったが、周瑜の目線は、他の二人をそらしてずっと奥、
 車室の片隅を差していた。
 其処には通常通り、資材が積んである木箱が二つほどあった。
 「周郎。あそこに、…もしや」
 周瑜は魯粛の呼び掛けに笑みを浮かべて一瞬目線を送った。
 「ほら。もう隠れんぼうしなくていいから。出ておいで?」
 まさか、と思った喬が、それに近寄り、上蓋に手をかけた。
 すると。
 「………。」
 その中から相当変な所に身を潜めていお陰で、半ば脱力した喬婉(エン)が転がり出て来た。
 姉が目を真っ広げて驚いたのは、言うまでも無い。
 「まあ、ちょっ、ちょっと!どうしたのよ小喬!こんな所に隠れてたなんて、私…全然!」
 「だ。…だってぇ……あの、ごめんなさい…」
 申し訳無いような、気まずそうな表情で中から抜け出た。
 一方、台詞に困った魯粛は頭に手を置いたあと、周瑜の方を見やった。
 「はて。出立の間際は部屋で寝て居たと思ったのだが…いつから察されていらっしゃったのか!?」
 「…なに、こういう気配は直ぐ分かる。まあしかし。君達二人が驚いたら面白そうな気がして。
 …しかし、あんな狭い所にずっと入って入たら背中が参ってしまうからね。
 でも、小喬小姐。君は僕達を驚かす為にずっと是処に隠れて居たのではないのだろう?
 喬姉さん、恐らく君を案じて、しかも邪魔にならないように気遣ってたんだよ」
 美しい単語は何一つ含まれていないのに、何を飾らずとも綺麗に響く。
 小喬は、自分の勝手な行動をさして責めもしない紳士なこの青年に頭を上げられなくなった。
 「…ごめんなさい。あの…でも、」
 「でも、ってどうした?小喬」
 魯粛が口を挟んだが、彼女は慌ててそれを否定した。
 「ううん…なんでもない…です」
 ならばもう休みなさい、と喬とその場に横になったが、小喬は頭の中で、言えなかった
 先程の続きを叫んでいた。
―「でも、」
―一緒に来たかったのは、わたし、お姉ちゃんについて行きたかったというのももちろんあるけど、
―だけど、周瑜さま。それだけじゃなくて。

 それを最後まで頭中で思う存分言えたかどうかは、結局のところ彼女しか知らない。


 舒には朝方には入る事が出来、悠然とした楼門が静かに迎えてくれた。
 その境を越えると直ぐに幾重にも道が繋がった。
 未だ晴れぬ朝靄の中を薄い陽がさす。
 こんな細密画のような風景の美しい処にたった一日しか居られ無い事を、喬は多少
 残念に思った。

 暫く進むと、立派な赤い沙菱形彫刻が施された屋敷が見えて来た。
 華美よりは、荘厳という方が相応しいか。
 自らも財を持つ家柄の魯粛も、改めてこの周瑜は豪族の人物なのだと実感した。

 喬らを自分の家の迎賓室に通した周瑜は、自分の母親らしき女性を含め女中数人に
 もてなしを頼んでいた。
 「大喬小姐…小喬小姐も。では、私は魯粛殿と隣に行って来るよ。」
 言葉が見つからずただ深々と一礼した彼女は、逢いたい人の傍に居ても姿を直ぐに
 見詰められない世知辛さを知った。

 直ぐ隣の通過黙認の孫家の門をくぐると、珍しく外に出て孫権の剣の相手をしていたのは、
 予想に反して孫策伯符ではなく、何故か父の孫堅文台であった。
 「ほぅ。其処に居るは周君ではないか!…さて…俺は君と逢うのは久し振りか?」
 多少予想とは違っていたが、その孫堅さまの御機嫌は悪くは無さそうであった。
 「ええ、お久し振りです、大叔(おじさん)。」
 今ではまるで血縁のような呼び方である。
 周瑜は両の手を組み合わせて一礼した。
 「君の父上からは良く聞いているよ。智士として立派に働いているそうじゃないか。大したもんだ
 …さて。お隣の貴公は…」
 職業柄挨拶は慣れていたが、魯粛はいささか緊張した。
 「申し遅れました。魯粛、字を子敬、と申します。江水南境に出向されていた周瑜殿とこの度
 こちらに同行させて頂きました。貴公の御名はかねがね伺っております。」
 「そうか、賢士殿。お初にお目にかかる。自分は孫堅、文台と申す。」
 孫堅は小さい頃から良く知る周瑜にも、自分の半分近く若いこの魯粛にも、分け隔てなく
 同じ礼儀で返す。
 「…しかし、周君らは…そうか、江水境に行っていたのか。」
 「…ええ、大叔。…その辺りの地に何か?」
 周瑜は何故かその時一瞬ひやりとしたが、動じた姿は悟られない男だった。
 何も知らぬ孫堅は自分の顎に手を当てながら、失笑しながら平然とこう言い放った。
 「いや、なに。…廬江江水南境は、確か皖の辺りかそこいら辺に、喬公とかいう
 豪族が居るだろう?あの輩め、あの曹操が数年前に陳留で私財を投じて反董卓の兵を上げた、
 とか何とか言っていた時に、足りん分の金を横流して、すがらせて居たそうじゃないか。
 全くその喬公とやら、財にかこつけてあの曹操を…可笑しな話だ。言語道断というに相応しいな。
 …周君等もそうは思わんか?はっは」

 その時、周瑜も魯粛も、目を見開き、同時に我が耳を疑った。
 「…え…。」
 よりにもよってこの豪傑に一番知っていて欲しくなかった名前を、最初の最初に、しかも半ば
 悪役扱いで出されてしまった。

 しかし、
 ただ孫堅は、相当前にその辺りの豪族の誰かが云々という噂を、しかも人づてに聞き、
 じゃあその地方の豪族は何と何と云う名前ぞ、と尋ね聞いたところ、喬家と某家と某家なると
 教えてもらったが、結局のところ興味の無い事項は大方すっきりと忘れるというのは武人。
 今思い出そうとしたら発音的に響きの良かった喬家の名前しか覚えていなかったので、
 運悪く喬公は与太話の種に出されてしまったというだけの話だった。

 「あ…はあ…」
  清心を保っていた周瑜の横顔に、自分にしか分からぬ冷汗が一筋伝わった。
 その時ふたりして、目線だけを合わせた。
 …非常に状況が悪い、と思った。

  中の客間で、茶でもてなそうと行って若干遠ざかった孫堅を目で追い、周瑜は焦りつつ
 まだ傍に居た孫権に尋ねた。
 「…仲謀。すまない、聞くが…伯符は。今、外には居ない様だが」
 両腕に先日の仔兎を抱きかかえた孫権の表情は、朝からまだ晴れていなかった。
 孫策に何かあったときは、この弟にも若干比例する。
 「…すみません、周郎…魯粛さま。兄上は、実は…朝から腹虫を悪くしふて寝されて、
 部屋に篭っておられます」
 「ふて寝だって!?あの孫策が?…何でまた」
 それを聞いて返って来た孫権の小声な返事が、更に二人に追い討ちをかけた。
 「今朝方…父上が兄上に、急に『そろそろ嫁の一人でももらえ』とかおっしゃられて。
 兄上はその場で、『自分には未だ所帯は必要無い』とはっきり言われたのですが、父上が…
 『お前に相応しい名家の美貌の姫御を、近々選んで来る』とかおっしゃって。
 兄上は父上の手前御反論されていなかったのだけど、その後独りで、偉く険しい顔で
 気落ちされて…兄上、可哀想。御意中の方でもいらっしゃるのでしょうか。
 周郎…ご存知有りませんか」
 ご存知過ぎた。
 「…まずい…な。」
   しかも、この日の孫策と周辺の種々多様の運が、恐らく最高に悪かった。
 いくら、政略結婚が成り立っていた時代とはいえ、孫策はまだ歳17である。
 周瑜は思わず頭を抱えた。
 魯粛は、呆然と家の方に目を泳がせていた。
 「あの。どうしたの、周郎…。魯粛さまも」
 傍の孫権は、彼等の言動のいきさつが分からずに、ただ仔兎を抱いたまま見上げるしかなかった。

 一方、周瑜の家に置いて行かれた喬姉妹は、周瑜の母に手厚く歓迎を受けていた。
 可愛らしいお嬢さんが二人もいらっしゃって、と自分と女中以外は男だらけのこの家に久々に
 花が咲いた様、と歓んでいた。
 その時、玄関の方から同じく女性の丸みを帯びた声がした。
 「もし。…私もよろしいかしら?」
 友だちでも来訪したかのように、嬉しそうに立ち上がった。
 「あら、呉夫人。あ…お隣に住んでいらっしゃるの。うふふ、いつも男共が隣に行っている時は
 こちらの家が、わたし達でこんな感じ。」
 喬達に説明でもするかのように目くばせして
 呉夫人のところまで行き、立話をしていた。
 遠目だったが、その時呉夫人と呼ばれていた女性の顔が見えた。
 周郎の母親も、美しい女性だったが。
 (若しかして…孫策さまのお母さまかしら。すごくきれいな人…。)
 喬が思いもかけずにその呉夫人に見惚れていると、目が合った。
 「貴女が…この度お連れのお嬢さん?」
 「あッ、…はい!…初めまし、て…」
 頭を下げてみたが、別に何ら気を入れる必要は無いのに、緊張で声が出なくなった。
 歩み寄った呉夫人は微笑みながら、喬の長い黒髪に優しく触れた。
 嘗て、自分の母親がそうしてくれたように。
 「何て可愛らしい…貴女の前ではきっと、お月様も恥ずかしくて、とても昇って来れないわね。」
 (…えっ。)
 呉夫人は、驚いた表情の喬をもう一度見詰めた。
 「…伯符も、貴女のような可愛らしいお嬢さんをお嫁さんに貰って来てくれないものかしら。」
 「えっ…」
 その時、喬の頬は上から下まで染まった。
 そう言った後、呉夫人は髪からそっと手を離した。
 「あら…ごめんなさいね、私ったら…。そうだ、こちらのお嬢さん…このお花、うちの庭に
 咲いていたのだけれど。お気に召すかしら?」
 場面は変わっていたが、大喜びの小喬に花を手渡していた呉夫人の後姿を見詰めていた
 喬の脳裏には、つい先程呉夫人が自分に何気なく言ったひと事が、霧霞のように漂っていた。

 
 孫家の今に通されると、運良く先程まで篭っていた孫策が自室から出て来て、饅頭を咥えていた。
 彼が周瑜たちの姿を目に入れて驚いたのは言うまでも無い。
 「あれっ、周瑜じゃねえか!…お前、確か皖とか丹陽とかに行ったんじゃなかったのかよ」
 今のところ、いつも通りの幼馴染なので安心したというか。
 「…いや、なに。僕とした事が、忘れ物をしてしまってね…日帰りで取りに
 返って来たんだ。」
 横で孫策を見ていた魯粛は、過去の檀渓に居たあの男のうろ覚えな記憶を手繰り寄せ、確信した。
 (…この男だ。孫策。間違い無い。流石武人…大きな体躯をしている)
 しかし、そんな詰めた彼の姿とは裏腹。
 顔を知らない金持ちそうな男が居ても、孫策は、仮に目は真剣にこっちを見ていても、
 どんな状況であれ食う手だけは絶対に止めない。
 「…ふぅん。で、周瑜。お前の横のアンタ…俺、会った事無いよな?」
 ああ、と両手を組み合わせて敬礼した。
 「孫策殿とお見受けする。…私は魯粛、字を子・・・」
 「へえ、お前、魯粛っての。俺、孫策ふぁ(だ)。宜しく。」
 まだ言い終わってない彼の胸前に、孫策は堂々と饅頭をつまんだばかりの
 右手を差し出して来た。
 (あ…握手!?)
 魯粛はその礼儀もくそも無い“孫策流”らしきものに一瞬たじろいだが、
 自分も合わせて、密かに失笑しながら右手を出した。
 (矢張り噂通り、誰にも分け隔てなく面白い人物だ。しかし…竹を割ったような男だな…。)

 彼が苦笑いをしていた時に、孫策と孫権らの母親、呉夫人が家に戻って来た。
 そして一度こちらに頭を下げながら通り過ぎ、孫堅の元へ真っ直ぐ歩いて行ったかと思うと、
 小声で何やら、後ろを向いて夫婦で一言二言会話していた。

 それを聞きながらふむ、と頷いた孫堅は、軽く笑いつつ振り向きざまに孫策に言った。
 「伯符よ。…其処の魯粛殿は、何やらこちらに、同行に物凄い美姫を連れて来られて
 いるようだぞ?」
   「…え?」
 その言葉は恐ろしい事に、若者3人の口から同時に出た。
 呉夫人と孫堅の言っていた“美姫”とは、紛れも無く喬のことを差していた。
 しかし、先程喬家をなじった孫堅が居る手前、今はこの場所で彼女の事を、
 「喬家の娘」であるとは、口が裂けても絶対に言えない。
 仮に言って仕舞えば、今自分の横に居る孫策は驚き、歓んだやも知れないが。
 そして、あんなに皆が願ったふたりの再会も、直ぐに適ったと思われるが。

 「ああ、あの娘ですか。私の縁戚の焦(ショウ)家の、美貌が自慢のお嬢さんなんですよ。
 好奇心旺盛で今回も一緒に行きたい、と言い出したら何を言っても聞かなくて」
 魯粛の言葉は、とっさに誤魔化しを言った。
 喬家ではなく、焦家の娘であると。
 “焦”と“喬”は、両方とも大陸での姓名であるが、発音が地方によっては酷似する。
 その為、名前しか聞いていなかった呉夫人も違いに気付かずに、見事にだまされてくれた。
 「ほう?焦家の…。」
 孫堅は、既に自分には無縁の話になって無関心どころか、この時点で最高潮に不機嫌に
 なっていた孫策の方を見やった。
 彼は腕組みをして見上げもせず、床をじっ、と睨みつけていた。
  「伯符よ。…お前、焦家のお嬢さんを嫁さんに貰ったらどうだ?ははは…」
 その父親の一言を聞き、孫策は放した右手を、横の茶卓の上に思い切り叩き付けた。
 一瞬、その上にあった碗などが激しい振動で飛び上がった様に見えた。
 「―冗談はよしてくれ!」
 孫策は、そう一言だけ吐き捨てる様に言うと、ぐるりと背中を向け、自分の部屋に再び
 閉じ篭り、今度は中から鍵までかけてしまった。
 「―伯符!」
 周瑜は思わず一声叫んだ。しかし今の孫策は、聞く耳は全く持ち合わせていない。
 (―ごめん。…違うんだ、伯符…)

 孫堅は、そんな彼を見届けても殆ど動じていなかった。
 しかもこういう事には慣れているのか、鼻で笑っている。
 「ふはは、あの不肖者め。…まあ多分、今度は三日は出て来んだろうな。」

 「み…三日!?」
 魯粛はそう独り言のように漏らした後、胃まで一緒に出て来そうな大きい溜息をついた。
 (…明日の朝方には…ここを発たねば間に合わぬのに…。)


 数刻後、魯粛が何か大悪事でもやらかしてしまったかのように喬に謝り続けていた。
 「も!…申し訳無い、大喬」
 「……。いいえ。粛兄様有難う。わたし、色々と気苦労させてしまって…ごめんなさい」
 魯粛に事の一連を聞かされた喬は、最初気丈にはしていたものの、
 矢張り毛の一本ほど期待していたことが破綻になり、言葉に詰まった。
 しかも“孫策伯符”が、檀渓での人物に間違い無いと知り、しかも縁談話に聞く耳を貸さずに
 自室に篭ってしまったと聞き、余計に嬉しさに反動した切なさが募った。
 そして、自由に見えて自由でなかった豪族の家に生まれた事を、この時だけ後悔した。
 (―孫策さま。…わたし、)
 部屋に独りになった喬の瞳に、薄らと涙が浮かんだ。
 (―わたし…今、こんなに貴方の近くに居るのに…。)
 優しかった呉夫人や先程必死に詫びてくれた周瑜、魯粛と妹の自分への心遣いが尚更辛かった。
 手すさびに動かしていた刺繍に、雫が零れ落ちた。

 一晩での決死行だったが再会は適わず、周瑜と魯粛、喬らは、再び廬江の方に明日、
 夜明けと共に戻らねばならなくなった。

 しかし、
 ここで万が一の可能性が完全に消えてしまったわけではなかった。