短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」四


 廬江では、この月に入っていささか陽が早く昇る。
寝に就く時の衣も、薄絹で済むようになった。

 皖の地で、そんな春の先駈けの或る折の日だった。
姉の喬が京兆伊から持ち帰ってくれた妙薬の所為かそれとも自然治癒か、
喬婉(エン)こと小喬は早速冬の病を治したらしく、桃花が連なる庭をぶらぶら歩いていた。
いつも目的無しに数刻歩き回るのが、この娘の日常の一場面だった。
大人しくてしおらしい性格の姉に比べるとこの小喬は少々落ち着きが足りないものの、
どんな場に際しても普段の態度を変えずに自我に忠実で奔放、物怖じしない性格は
一部の人間にとっては至極羨ましくもあった。
 未だ13、4を数える歳の、しかも少々非現実的な夢を見がちな小喬は、良く小さい頃から寝床で
父や、亡き母代わりの姉にこう漏らす癖があった。
「―あたしのぉ、未来の君子(憧れの君)さまはね、ね、」
続きを聞かれると、どんな顔をされるのもお構いなくいつもこう言った。
「白いお馬さんに乗ってね、私の為にお歌を歌いながら、迎えに来てくれるの。」

裕福な家に育った故か、自分の理想世界が全ての少女。
しかし、それに対して毎度驚き呆れた顔をしていた面白い父は今日から3日程内陸へ出向。
そしていつも微笑みながら聞いてくれた姉は、例の先日旅先で負った不可解な手傷を
案じた父が出立前に医者を呼びつけて無理矢理診させ、その事で朝からかかりきりであった。
ぼんやり喬がいると思われる居室の方向を見詰めた。
(お姉ちゃん…大丈夫かな)
またも大好きな姉の傍に居られずに、この小喬、今は少し淋しい思いをしていた。
しかし、それでもいつもならその辺に掃除の使用人やらがぼちぼちと居るのだがこの日は特に
他に話しかける相手も見当たらず、暇を持て余した。
「…つまんない」
剥れた顔をして小喬は一言ぼやくと、その場構わず真下にへたり込んだ。

(…誰か、来てくんないかな)

投げやりにそう考えてみた後、何の気も無しに先日覚えた歌謡を口ずさみ始めた。
  關 關 雎 鳩   /関関たる雎鳩(しょきゅう)
  在 河 之 洲   /河の洲に在り。
  窈 窕 淑 女   /窈窕(ようちょう)たる淑女は、
  君 子 好 逑   /君子のよき逑(たぐ)い。
  ∴クヮンクヮンと河の中洲で仲良く鳴き交わすミサゴの様に、
   たおやかな良き乙女は、立派な男子のよき想い人。

 小喬は、所構わず恋愛歌を選ばず口にするのが非常に好きだった。
この時代のこの世代にしては若干ませてはいまいか。

その一説を口にした後、地べたに貼り付いたままぼぅっと白昼を見上げてみた。
「えぇっと… 」

続きを呟こうと息を吸った時、後ろから彼女に呼びかける声があった。
「…小姐(おじょうさん)。 それは貴族の男子が詠んだ歌だよ」

空耳かもしれなかったが、それは総じて艶にあふれた若い男の声。
「え…っ」
 小喬が慌てて両手で臀部の服の乱れを直して声がした方を向くと、
腕組みをして自分に柔らかく微笑む、すらりとした姿があった。
(え!)
 口は開いたが、声にはならず。
娘は見上げた顔を、元に戻す事が出来なかった。
その時、連日夢ものを語る所為で遂に、幻が現れたのかとさえ思ってしまった。

自分の目の前に現れたその男が、 何にも例えられずあまりにも美しかったから。

 しかもその男は小喬が自分に見惚れて固まっていたことは気付かず、先程の謡詞に
続けて返して来た。
  參 差 行 菜   /参差(しんし)たる行菜(こうさい)は、
  左 右 流 之   /左右に之れを流(もと)む。
  窈 窕 淑 女   /窈窕たる淑女は、
  寤 寐 求 之   /寤(さ)めても寐(い)ねても之れを求む。
  求 之 不 得   /之れを求むれど得ざれば、
  寤 寐 思 服   /寤めても寐ねても思服す。
  悠 哉 悠 哉   /悠なる哉(かな) 悠なる哉
  輾 轉 反 側   /輾転(てんてん)反側す。
  ∴右に左に陽をさがし求める長短様々なアサザの菜の様に、
   たおやかな良き乙女を、立派な男子は寝ても覚めてもさがし求める。
   求めても得られないと、寝ても覚めても思い焦がれる。
   どこまでも思い続けて、夜もすがらしきりに寝返りをうつ。

 その美丈夫はそう詠んだ後照れ隠しか、鼻で笑って見せた。
「まぁ…一応、男が詠んだ方が格好がつくだろう?それにしても、君。随分と古い歌を知ってるんだね。
『詩経』は実際、僕も好きなんだ。何遍も読み返して、"ませてる"って言われた。」
―彼女には、あまり耳にまで理解が届かなかった。
 小喬は体勢を変えぬまま、自分の目の前に座り込んで何やら難しい事をしゃべるその男の顔を
じっ、と凝視していた。

―このひと、だれ。
 そういう概念が彼女の奥にはあったものの、それはあくまで非具体であり、
実際のところどうでも良かった。

ただ、
この綺麗な男との夢幻のような時が、急には終わらないで居て欲しい、と。

 先程の歌謡は「關雎(かんしょ)」という題で周時代の南方の、場所を差せば今の
陜西省辺りの歌謡だった。
しかもこの「關雎」の詩、『詩経』の冒頭に置かれ、修辞的に最も洗練されている一篇といえる。

 この詩を諳(そら)んじていた彼は、あたかも自分が詩の中に生きる男と重ね合わさって
いるかのように最後まで続けた。
勿論本人はあまり自覚していなかったが。
  參 差 行 菜   /参差たる行菜は、
  左 右 采 之   /左右に之を采る。
  窈 窕 淑 女   /窈窕たる淑女は、
  琴 瑟 友 之   /琴瑟(きんしつ)もて之れを友(いつく)しまん。
  參 差 行 菜   /参差たる行菜は、
  左 右 毛 之   /左右に之れを毛ぶ。
  窈 窕 淑 女   /窈窕たる淑女は、
  鐘 鼓 樂 之   /鐘鼓もて之れを楽しましめん。
  ∴右に左に摘む長短様々なアサザの様に、そのようにして出遭い得た
   たおやかな良き乙女は、琴や瑟(25弦楽器)を奏でて慈しもう。
   長短様々なアサザは、右に左に択(えら)び取る。
   そのようにして出遭い得たたおやかな良き乙女は、鐘や鼓でもって楽しませよう。

 近い将来、貴方の目の前に現れる誰かの代わりに。
「…とはいえ、美姫の前で今『關雎』を詠えた僕は倖いかもしれない。
あぁ、貴方の歌の途中、割り込んで済まない。僕…じゃない、私は」
 そう言いながら男が小喬の顔を見たとき、相手は自分の方を向き固まっていた。
「どうかなさったのですか?小姐」
明らかに娘は夢を見ていた。
「君子さま…あたしの」
そううわ言の様に呟いた繋がらない返事に、男は一瞬不思議な顔をした。
「…は?」

 何と返せば良いか一瞬詰まった時、後ろの草叢(くさむら)から急ぎの影が現れた。
「あぁっ、…ここに居らっしゃったか!周瑜殿」
そう言って一度大きな息をしたのは魯粛だった。
 魯粛子敬、彼は生まれが臨淮郡東城県、家は代々の資産家であった。
皖の喬公とは遠戚にあたり頻繁にかの地に参じていた為、今となっては隣に小さな屋敷まで
貸与してもらっていた人物であった。

 周瑜も、役人である叔父に着いて人の家に招かれた身であった事を思い出した。
「あぁ、魯粛殿。勝手に庭に立ち入って申し訳無い。いぇ、この小姐の詠う声があまりに
綺麗だったので、つい口を挟んで仕舞って…」
そう言いながら先程魯粛から周瑜、と呼ばれた男は小喬の方に掌を差し出したが
当の小喬は彼に見惚れている真っ最中で、それの補いはしてくれなかった。
「…欸(えっと)」
少々驚いた様子の周瑜を余所に、またか、というような慣れた笑いをした。

「はっは、彼女にこういうことは日常茶飯事ですよ。綺麗な花や面白い本を目の前にすると
よく固まる。・・しかも面白い事に、呪文を唱えると直ぐ元に戻る。
ホラ小喬、其処に杏の砂糖煮だよ?」
「え。えッ!何処!」

「…本当だ!驚いたな!」
半信半疑で見ていた周瑜は、その言葉の後にいきなり再びせわしく動き出した小喬の仕草が
愛らしいというか実に面白かったので、吹き出してしまった。
“甜言蜜語”なんていう旨い言葉もあるが。
「私の親戚の、喬公殿の愛でているお嬢さんですよ。可愛らしい子でしょう?」
「えぇ、本当に」
魯粛の説明を耳に入れ、頷いた。

「え。何…粛兄さま!?」
顔を赤くして慌てて立ち上がった。
彼は今の状況が余り分かっていない様子の小喬に微笑した。
「小喬、このお方、丹陽のお偉い役人の周尚殿の甥っこで仕事の補佐を任されている
周瑜殿だよ。舒から丹陽に向かわれる途中に寄って頂いたんだ」
“偉い”は違いますよ、とあくまで控え目にしながら周瑜は彼女の方に向き直した。
「小喬、さんとおっしゃるんだね。周瑜です。小姐、初次見面(はじめまして)」
「…し、しゅ、」
名前を口に出来ず、ただぺたりと頭を下げた小喬に魯粛が。
「あぁ、小喬。君のお姉さんに頼み事があるんだ。あとでお願いにお邪魔するけれど
君が先に大喬のところに行ったら、その事だけでも伝えておいてくれないかな」
「あ、は。はいッ!」
そうとだけ言葉にならない返事をすると、特に急かされる場面でも無かったのだが、
小喬はそのまま物凄い速さで屋敷の方に向かって走り出した。

 快活なお嬢さんだ、とその走る後姿を見送っていた周瑜の目前で、思いきり転んだ。
「―あ!」
思い余って半身乗り出した彼の後ろで、魯粛は平然としていた。
「あぁ、彼女、よく転ぶんです。直ぐ立ち上がるから心配無いですよ」
「…本当だ。」
秒間置かず再び走り出した小喬を見て、大丈夫そうだと安堵の息をもらした。
「さ、晩の宴まで時間がある。周瑜殿、書庫にご案内しましょう」
彼等は手引きに招かれ、その二人は彼女とはほぼ反対方向に姿を消した。

「驚きましたな。短期間でここまで癒冶されるとは」
「…そうでしょうか」
 怪我の治りをここまで喜ばない人間も珍しかった。
は、今日から内陸に出向の父が出る前に呼びつけた、この辺りで評判の医者に
かかりっきりにさせられていた。
最初、彼女は医者に診せるのを思い切り拒んだが、遂に仕方なく折れた。
「いや、しかし。旅先でされた荒療治が適確だったとしか思えませぬ。これなら痕(あと)も
残りますまい。」
「…残ってて、いいのに」
つい本心で出した呟きが、聞こえていたようだった。
「何か申されたか?」
「い、いいえ!」
彼女の返事が理由も無く慌てていたので医者は不思議そうな顔をしたが、
別段気には懸けなかった。

 医者が出て行くのとほぼ入れ違いで、先程の小喬が喬の部屋に駆け込んできた。
「お姉ちゃあん!」
 妹が理由解らず慌てていたので、疑問符が浮かんだ。
「あれ…どうしたの小喬?そんなに急いで…」
「お姉ちゃん、大変!大変!たいへんなの」
そう言いながら自分の胸元に飛び付いて来たので、更に驚いた。
「大変、って!…何かあったの?」
「大変も大変!お姉ちゃん聞いて!居たの!お庭に!あたしの君子さまが」
何か大事が起こったのか?と思えば。
(君子さま、か…)
は笑顔に変わった。
「どうしよう、お姉ちゃん!凄く素敵なひとだったの!」
小喬の興奮に付き合わされるも、彼女は冷静に受け止め、共に表情を変えた。
「あらら、そうなの?素敵なひと、ねぇ…粛兄さまのお客様かしら」

「…あぁ、私のお客さんだよ」
先程小喬が入って来た時から部屋の戸が全開になっていたらしく、其処の間から
“粛兄さま”が姿を覗かせていた。
苦笑いしながら。
「あらっ、粛兄さま!?」
「やあ、大喬。はは…先程小喬に伝言を頼んだんだが…私で言う方が早かったな。まあいい。
や、実は今回君に折り入って頼みが。」
「…私に?」
魯粛は頷いた。
「話は今宵、私達がその小喬が言っている“君子さま”等を招いて宴を催すんだけれども
なにぶん、食事以外でもてなすものが無くてね。喬公がご不在で技芸娘は勝手に出せないし。
私もここには読むものと手持ち金以外はこの身一つで来ている分際なので、特に見世物も無い。
それで大変申し訳無いが、この辺りでは胡弓の名手である君に是非一曲演奏お願いしたい」
「若しかして…とは、途中お話をお伺いしながら思っていました。」
は静かに笑みを浮かべた。
「えぇ、構いません、喜んで。私の演奏で宜しければ。…お酒を濁さなければ良いのですが。」
「おお、引き受けてくれるか!良かった。有難う大喬!…君の演奏ならばお酒など濁らぬ。
しかも、その“君子さま”は…周瑜殿と申されるのだが年柄、お酒は飲まぬであろうし。」
お若い方なのですか、との大喬の訊ね文に、小喬も耳を傾けた。
「ああ。丹陽の周尚殿について、補佐役をされている。17、8だから私より少し下くらいか。」
気がつくと、傍に小喬がすがり付いて見ていた。
「粛兄さまー…あたしも行きたいよう。」
自分中心に話を出す小喬に気前良く返事をした。
「お。小喬、君も来るかい、構わないよ。ただ、人手が少ないから膳を運ぶのを手伝ってくれ」
「うわあ、本当!?嬉しい!」
 そんな二人を横目に微笑みつつ、喬は憧れのひとの傍に居られる
妹を、何となく羨ましく思った。

 先程魯粛から書庫に案内された周瑜は、陽が沈むのも気付かない程にその中で読む事に没頭していた。
最初は地理書などを手にしてぶらぶら見ていたが、途中で先日舒を発つ前に孫策から渡された
ある単語が引っかかり始め、気になりだすと仕方が無くなってしまった。
別段大した事は無いと思いつつ、予想したことが違うと分かると何遍も頭に手をやった。
“キョウセイ”なんて字は、何の書物の、何処の項の端にも無い。
(―孫策…。君は一体、どういう妙な謎懸けを…)
『元々無いもの』と解釈すれば早かったが、あの時の彼がいやに考え込んでいたので
無駄に気になった。
流石の美周郎も眉を顰めた時、彼の手元に灯火が来た。
「公瑾。灯かり無しで字なぞ見ていては目に悪いぞ。」
そう諭されてふぃと横を向くと、彼の叔父の周尚だった。
「あぁっ。すいません、叔父さん。はは、のめり込んで暗くなったのが気付かなかった…」
そう言いながら肱に乗せていた大版を元に戻した。
「しかしお前、いつから虫の書に興趣があったか?長く仕事を共にしてもらっていたが、
全然気づかなんだ」
「…いえ。探しているものの正体が分かれば、虫には興趣も何も特に無いのだけど」
周尚はそう聞くと関心を持った様で、顎の黒髯に手をやった。
「ほぅ。で、お前は何を探している?」
続けられれば答えたいが、今の周瑜には苦笑して終わらせる事しか出来なかった。
「…僕はそれが分からなくて、今こうして探しているんですよ、叔父さん。」

またこいつは探し始めるクセが、と周尚は鼻から息を出した。
「まあいい。半刻後にあの魯粛殿が宴を催してくれるそうだ。お前からも後で礼を頼む」
「…承知しました。」
周瑜は『自分はこの書庫でやっても良いんですが』と言いそうになったが、何を言われるか
分からないので奥でもみ消した。


その晩、歓迎の宴は人数も多く、思いの他盛大に行われた。
魯粛はその中で、独り静かに胡弓の奏でる音色に聞き入る周瑜の姿を見付けた。
恐らく音楽を解する人物なのだろうとした彼の予想は見事に当たり、それまで
家の中の者限定だったものの、喬の胡弓の名演奏ぶりを知っていた魯粛は
的を得たり、と度の低い酒を持って彼のところに参じた。
「周瑜殿。…君はこれはいける口なのか?」
声をかけられて振り向き魯粛と分かると微笑して静かに一礼し、手元の杯を取った。
「えぇ。若年ゆえ、少しなら」
話のわかる男だ、とここ最近ようやく酒の味を覚えた魯粛は嬉しそうに
その横の席に着いた。
「…美しい音色だ。外庭に咲く美しい桃の花々に匹敵する。寧ろ相当に勝るほど」
 酒を注がれながら語る彼の独り言は全てが詩のようだった。
まだ酒が回っていないのに、魯粛はこの周瑜の言葉に悔しくも酔いそうだった。
仮に自分が女性だったらどうなっていただろうと考えると、多少恐ろしくもあった。
「大喬は、喬公の愛娘たちの姉の方です。妹と違い普段あまり人前に出たがらないが、
しおらしくていい娘ですよ。しかも私の親戚なのに美姫ときている」
(―キョウ…!?)
周りにそぶりは見せなかったが、何かが周瑜の琴線に触れたようだった。
「…大喬小喬か…羨ましい娘姉妹を持ったものですね、喬公殿も。」
 彼の酒の減りの早さに少々驚きながらも、別段酔ったそぶりも見せないので
そのまま続けた。
「大喬はしかも、我々が先日京兆伊に行った時に妹の為に薬を買う、と同行して
戻る途中、檀渓で山賊に襲われて手傷を負ったのだが、今日こうやって胡弓の美しい
音色を奏でてくれます。…喬公が今日、公務が無くてこの場に居らっしゃれば即演奏は
反対されたでしょうが」
魯粛がそう補釈しながら周瑜の方をふと見ると、彼の手が止まっている事に気がついた。
少し動揺した様子で、こちらと喬と視線を行き来させていた。
「どうなされた。…別に無理して飲まれる事も御座らんが」
「いや、酒ではない…が、申し訳無い、魯粛殿。聞くが……あの美姫の下の名は」
何を聞くかと思えば、という表情をして彼が回答した。
「下の名…あぁ…確か、今演奏している姉の方が喬、白昼会われた方が喬婉…」
「…キョウセイ!?」
それまで静かだったのに、いきなり席を叩いて方向を前のめりに据えた周瑜を見て魯粛は
少々驚いた。
「どうなされた。…若しや周瑜殿、姉の方をお気に召され…?」
「いや。…確かにあのお嬢さんは美しい美貌だ。しかし、」
周瑜は魯粛の方を振り向くと、何かを確信したかのようにニィっと笑った。
「キョウセイ殿はしおらしくしなやかゆえ、僕より…恐らく、激しく剛の者が似合う。」
それを聞いて、魯粛は目を見開いた。
「ほぅ。確かに…では、周郎はどちらかと言われると、喬婉の方が?」
「ええ…僕にはきっと、どちらかといえば元気なじゃじゃ馬小姐の方がずっと相応しい。」
それは隠さずとも、彼の本心だった。
しかし、今問いたいのは姉の喬の方だった。
そう言い放つと、周瑜は注がれていた酒を一気に飲み干し、勢い続けて自分で注ごうとした。
「周瑜殿!はっは、自分で注ごうとなさるな。おぅい小喬、周郎に注いで差し上げてくれ」
その呼びかけに、はぁいと言って現れた小喬が、余計に食事を持って運んで来た。
彼女に笑みをこぼして勢い良く注がれるまま盛られるまま受けながら、周瑜は更に訊ねた。
「…魯粛殿。先程、大喬殿が檀渓で手傷を負われた、と申されたが…」
「ええ。山賊が手強くてあれは一時危なかった。しかし、その時運良くその辺りで賊退治を
していた、武辺の若者らに助けて頂いたんですよ」
―檀渓は、襄陽と確かに位置的に近似し、その辺りを彼が往行していたとも確かに考えられる。
日にち的にも、見事に一致する。
(…まさか…その武辺者が孫策なのか?)
周瑜は疑問視ししながらも、確かめる価値はあると感じた。
少なくとも、その必要があると。
その時、丁度曲が終わり、演奏が途切れた。
 彼はすっと立ち上がり、胡弓を手に次の曲の調を合わせていた喬の目前に進んだ。
 彼女は、周瑜を目の前に一瞬たじろいだ。
「えっ…あの、すみません。もしかして、何か私の演奏に…」
驚いた表情の彼女に向けて、周瑜は目を伏せて首を振った。
「いいえ…非常に素晴らしい調べでした。あんなに澄んだ音色はこれまで聞いた事が無い。」
「では…」
周瑜は喬を見据えた。
「…小姐。いきなりですまないが…ぶしつけに聞く。今、貴女の中に檀渓で出遭った英雄が
今ずっと生きているか」
「…えっ!?」
驚きで声にならない叫びを出した後、彼女は口に手を当てた。
周瑜は更に続けた。
「そして檀渓のその男は…刃物刀剣を持たずに、両手武器で戦ってはいなかったか?」
「……」
(やはり…貴女が胡蝶か)
顔を赤くして下を向いてしまった彼女を見て、周瑜は確信した。
更に、横から魯粛が。
「周瑜殿?…たしかその若者でしたら、名乗りはしませんでしたが、確か少々南国訛りが」
「間違い無い。…魯粛殿、喬公殿はいつまで内陸に御出向なのですか」
「…確か、今日から3日ほど」
周瑜は先程から顔を上げられない喬の前に腰を落とした。
「大喬小姐。…その男は孫策伯符、私の幼馴染です。急ぎだが貴女が望むなら、喬公がお戻りに
なる前に、日帰りで舒にお連れして会わせても良い。」
彼が後ろを見ると、魯粛が進み出ていた。
「そうなれば…私も同行致しましょう、周瑜殿。」
「魯粛殿。ありがたいな…それは至極心強い。」
二人は顔を合わせると一礼し、意気投合したかの如く両手を握り合わせた。

この周瑜公瑾と魯粛子敬、実際に政治の歴史上で知己としての交わりを結ぶのは
これからまだ10年近く先の話である。