短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」三


 192(初平3)年2月末。
孫策等が襄陽より郷に戻ると、既に初春の空気が訪れていた。

 この"郷"は厳密に言うと廬江郡(安徽省)舒県のことを示すが、実際の生まれ故郷とは異なる。
この時より7、8年程前、父親の孫堅があの董卓の討伐作戦に馳せ参じていた頃に
自分の妻と息子、まだ10歳になるかならないかという少年孫策と、更に小さ過ぎて物覚えも
つかない弟を疎開させていた地方の事をさす。
 この安徽省は、古きから字書きには欠かせぬ硯や紙、墨・筆といった文房四宝の名産地などと
何処かの歌か詩の一節に加えられる程で、文芸の場に於いて知らぬ者は居なかった。
 その廬江舒県で孫策は武人の一端に育てられたが、たまたま移り住んだ家の隣が
周家という、その地方では豪族で名が通っている一族の屋敷であった。

周家には、周瑜、字は公瑾という、孫策と同い年の息子が居た。
昔も今も子ども同士というのは、お互い知り合う事に時間はかからないものである。

その周瑜少年は、孫策と出逢った時からたちまち友となり、意気投合した。

 この周瑜と孫策、二人は決して似た者同士であったというわけではない。
恐らく、年端も行かない子どもだったにも関わらず生まれつき、既に例えれば清水の
ような流麗さを兼ね備えていたこの周瑜少年が、当時の自分には持ち得ない
煮えたぎる炎のような気迫を持っていた怖い物不知の孫策に対して惹かれるものを
抱いたといえば、納得が行くかもしれない。
逆の孫策も、周瑜がまるで波ひとつ立たない水面に浮かび上がる、静かな蒼い火影のような
存在に見え、竹馬の友としながらもその当時から尊い存在だと思っていた。



 話は舒に戻って、ひとつ明けた白昼になる。

 母の呉夫人が日ごろ愛でている淡色の桃園に囲まれた小さな庭の一角で、この時
一人の少年の声が遠慮しがちに挙がった。
「あの………兄上…。」

声のした先に、二つの人陰があった。

 剣の稽古用の鈍刀を握って中腰で構えていた10歳そこそこの少年と剣を交差させて
向かい合っていたのは、あの孫策だった。
兄上、と呼んでいたので先程の少年は彼の弟と考えられる。
何故か襄陽から戻って以来、何もかも上の空なこの兄を見上げているその上目遣いの
表情から、この少年の人一倍遠慮深い性格が手に取るように感じ取れた。

「…兄上…。あの」
二度目の呼びかけは流石に彼の耳にも入ったらしく、視線が中央に戻った。
「あぁ? おぅ。何だ」

ぶしつけに孫策が返事をすると、性格に反して剣を構えたままの姿は妙に格好のつく弟が、
想像だにしてなかった事を言ってきた。
「兄上…。…あの…。剣先が泳いでおりまする」

「…」
それを聞いて孫策は、若干分が悪くなった。
(…お前に言われたかねぇよ…)
7歳も年下の弟に、更に遠慮しがちなくせにずばり言われると、逆に失笑せざるを得なくなる。
しかも独り言のように言ったはずなのに、弟は地獄耳のようでばっちり聞こえていた。
「でも。今日の兄上はいつもと剣の筋が違いまする。あの…矢張り、戻られたばかりで
お眠りが足らんのでは。…もう少しお休みに」
自分と正反対のこの辺は、父親の孫堅を写したらしい。

そしてそんな弟の細かな気遣いに孫策は微塵も気付かなかった。
いや、気付いてないそぶりを見せているだけか。
それとも、そんな自分を認めたくなかったのか。
「あのなぁ、」
彼は苦笑した後、弟の目線に合わせて腰を下ろした。
「…仲謀よ。俺はなァ、もう今、棍しか使ってねぇの。剣は要んねえんだよ。俺で物足りんければ
親父に今度稽古頼んでみろよ。な?」
微妙に見当違いなことに気付いていない。
こう言った後、孫策はいつもやらかしているように、弟の両側の頬をひねって遊び出した。
「あの…あにうえ…そうじゃなくて…」
 先ほどこの兄に仲謀、と言われたのはこの孫策の弟の字で、上の名は孫権といった。
この孫権が剣先が泳いでいるだの、剣の筋が違うだの、と言ったのは、別に兄の剣の腕が
物足りなくなったとかいう類では決してなく、ただ今日の孫策の様子が微妙に襄陽辺りに行って来る
前と違っていやしまいか、と感じたからであった。
 この孫権、性格こそ思慮深くて慎重で、人の話を一生懸命に聞くような大人しい性格だったが、
その目は口と共に大きく爛爛として飛沫でもかかったかのように輝いており、
角張った顔に陽の光が反射でもすれば時折、瞳が碧色に見えたりもするような、特徴のある
顔立ちをしていた。
なんせ、彼が産まれた時にはあの父孫堅がやけに涼しい顔を綻ばせて
「こいつはまた、凄い人相だな!将来、どえらい人間になるのではないのか?」
と言って喜んだというくらいで。


先ほどの孫策は、相変わらず弟孫権の顔でしきりに遊んでいた。
「そうじゃねえんなら、何だ?…あー、もしかすっとお前、剣の腕が上がったなァとか
俺に言って欲しいのかよ?」
「ち…違…」

孫権が最早弁解は諦めて、兄の手遊びから逃れる術(すべ)だけを考えていた時だった。
家の壁際の向こうから、母親の柔らかい声が聞こえて来た。
「―伯符、」

細い声でも馴染んだ母のことばならば、聞く事に対しては鈍い孫策でも、容易に聞き取れるらしい。
「―あぁっ? 何?」
高くはないが、聞き心地の良い声で聞き返してみた。
すると、間を置かずに。
「―周郎がいらっしゃったわよ。」
母の呉夫人が窓から顔を出して、慣れたように庭の手前を指差した。

周郎来来。
この言葉を、孫策はこの舒に住みついて以来、一体何回耳にしたのか知れない。
周郎、とは隣の家に住む周瑜の通称であり、誰もが親しみを込めてこう呼んだ。
この周郎こと周瑜と孫策は、幼馴染という事で互いの家を自由に往来出来る仲であった。
ここの親も周家の親も、其々の子どもを我が子の様に可愛がった。

すると間を置かずに、奥から渡り通路を颯爽と通り、"周郎"が姿を現した。
「やあ、伯符。」
そう言って何の気取りもなく気さくに微笑みかけるも、その整った顔立ちに合わせて
ゆるく靡いた長い髪などに演出され、この場に他に人間が仮に居たとすれば『この男は遂に
春風までも虜にしたか』、と憎らしくも羨ましくも思うのだろう。

男であれば、いちど周郎の姿を仮りてみたい。
女であれば、いちど周郎を恋人にしてみたい。

恐らく周瑜はそんな男だった。

「―周郎!」
孫策よりも一瞬早く、先ほどの顔いじりから解放された孫権少年が彼に駆け寄った。
いつも通り、周瑜に頭を撫でられるのが好きらしい。
「やぁ、仲謀。」
そう言って彼は静かに微笑んだ後、中腰になったと思ったらその右手に持っていた
何やら小さな薄茶色の毛の塊の様な物体を差し出した。
孫権はそれを確か、何処かで見た事があったような気がしたのでしげしげと見詰めたが、
記憶は遠目からだったのでうろ覚えだった。
「これ…」
しかもその毛の塊は、何となく息でもしてるかのように微かに動いていた。
「君にお土産だよ、仲謀。」

その時、その薄茶色の物体が大きく動作を見せた。
"振り返った"というのが正しいか。

それを見た瞬時にして、孫権の顔がぱぁっと明るくなった。
「―うさぎ!?」

どうやら、それは野兎の仔だったらしい。
周瑜は微笑み返し、そろりと孫権の両手に渡した。
「今朝、こっちに戻る時に狩猟者の一群を見かけたんだが、それから逃げてる時に親御と
はぐれたらしい。少し大きくなったら、野に放してやればいい。仲謀は育てるのがうまいからね」
孫権は嬉しそうにその仔兎に頬擦りした。
「周郎、好き!」

 そんな弟を見ていると、傍らの孫策まで笑えて来た。
「公瑾、お前。何でこんなガキのツボまで分かんのかよ。すげえな…おい仲謀。
お前、周瑜ンちの弟になったらどうだ。もっとお前の好きな勉強が出来るぜ。多分」
実際、弟は実質の剣技というものよりも、兵学を理論的に学ぶ事の方を好んだ。
あとこの10歳そこそこにして儒学や文学の楽しさを覚え、知らぬ間に学師肌の周瑜から
書物を借りて来て、夜な夜な蝋燭の残り火だけを頼りにして読んでいたのを孫策は
語らずして知っていた。
その点で弟から半ば尊敬の念で見られている周瑜を、実は羨ましく思っていた。

「周郎は、周郎。孫郎は孫郎。兄上は、兄上。わたしの兄は孫郎で、孫郎は兄上だけです。」
早口言葉のように舌を半分縺(もつ)らせながら言いきった後、孫権は早速そばの段差に座り、
仔兎と遊び出した。

「…やっぱ、ガキだな。」
孫策は、そんな弟を横目で見て鼻で笑った。
其処が腰を下ろすのに兆度良い高さなので、二人もつられてその段差にもたれかかっていた。
「襄陽はどうだった、孫策。あの辺りはまだ寒かったんじゃないのか?」
周瑜の言葉に彼は二回も頷いた。
「あぁ。あっちはまだ山陰に霜が下りてたぜ。たまんねえ…そういえばお前も
叔父さんとどっか行ってたよな?確か」
この頃、周瑜は叔父の周尚が揚州の呉郡隣の丹陽の土地で重い役職に就いており、
彼も学識を買われてその職務について回る事が多くなっていた。
「行ってたよ。准水沿いを横断して来た。知ってるか孫策?あの辺は春が凄くいい。
で…明日から皖と、丹陽にね。叔父さんを送ったら一旦戻って来る。」
彼の仕事人的忙しさに、思わず目を見開いた。
「大変だな!…もう叔父さんとか、随分あっちで偉くなってんじゃねえのか?」
成長こそすれ、この男の思ったまま単純に聞いてくる姿勢は今も昔も変わっていない。
周瑜は薄く笑みを作った。
「さあね…まぁ、こんな時期だし忙しいのは今だけだよ。多分ね。…でも、叔父さんに就いて
その土地と人間について識る事は実に面白い。夢中で調べてたら眠る事だって忘れてしまう。
孫策、君だってそうだろう?」

「なあ…公瑾」
それは何故か、期待していた返事ではなかった。
隣を見ると、いつもは剛で動の印象しかないあの孫策が、自分と目も合わせようとせずに
俯いて小声になってしまったではないか。
「…なに?」
思い詰めている時、この幼馴染の男は自分の事を呼ぶ時に"公瑾"と、必ず下の字になる。
周瑜は敢えて彼にその事を直接言うことはしなかったが、最初にその判り易い癖を知った時は
可笑しくて仕方が無かった。
「お前がよ、例えば…仮にひとつ、凄ぇ気になる事があったとして、だ。お前…それの
名前しか知らなかった場合、…どうする?」

「…えっ…?」
予想だにしない事を聞かれ、周瑜は一瞬、眉を顰(しか)めた。
孫策の表情は変わっていなかった。
「どうする。」
(どうする、って…言われても…)
周瑜は口に指をあてた後、目が一遍左右した。
当然だが彼には、今の孫策から向けられた一方的な状況が全く分からなかった。
言い方と内容によっては、場面が一転しかねないが予想がつかない。
しかし普通ならこう言うであろう、という答えを発して。
「そう云う場合…矢張り、気になるな。僕なら恐らく、分かる為なら二、三日徹夜もやりかねん。」
「……。そうか。」
そう言った時、同時に孫策はその若干黒緑がちな目だけを一瞬こっちに向けたが、
また直ぐいつもの活気無く前を向いた。
 若しかしてと思い、周瑜が切り出してみた。
「伯符。今…何か名前しか知らないような、気になっている事でも有るのか?」
「…無くは…ねぇのかな…。」
気がつくと、彼の姿勢は頬づえに変わっていた。

 周瑜はそんな孫策を見て、" いつから手袋なんてし始めたんだ "と思った。
それは恐らく襄陽から戻った後の事だと思われるが、だが今はそういう事はどうでも良い。
兎に角、恐らく彼のそういう思い詰めた姿は、時に断続的で、一時的なものであろうと感じた。
いつまでもそんな状態をされていると彼も幾らか調子が狂うので、腕組みをして切り返した。
「…明日あっちに行ったら、僕も少し暇が出来る。書庫にも出入り出来るから、君の代わりに
調べてみてもいい。…ところで、それは何の名前なんだ?」
「……。」
孫策はその無二の親友・周瑜の助け舟的な言葉に一瞬反応を示したが、再び腕の中に顔を沈めた。
流石に可笑しいというか気色が悪くなったので、眉目秀麗の周郎も思わず大声になった。
「孫策ぅ!」
「…胡蝶だ。」
(…―!?)
やっと返って来た返事に、我が耳を疑った。
何を言うかと思えば、この男が"胡蝶"などと。しかし、彼は確かにそう言った。
しかも、事もあろうにこいつ、耳が赤くなっている。

「……。」
 常に快活で脳天楽な印象しか無い幼馴染が、こんな今になって何故虫一つに魂を
奪われているのか、周瑜は不思議でならなかった。
しかし問い詰めれば何か言わない事も無い、と感じた彼は、流れの勢いに任せて再び尋ねた。
「そうか。で―何と云う名の胡蝶かい?教えてくれないか。折角だし」
 孫策はそれを聞いた後、何故かきょろきょろして弟の姿を確認していた。直ぐ後に
孫権が自分の傍で、仔兎を腹の上に乗せたまま気持ち良さそうに夢の中に行っているのを
確認すると、周瑜の耳元でぼそっ、と吐いた。
「…口で言わねえと駄目かよ?」
「い…!言ってくれないと分からないだろう!?」
今迄の事の一連が自分から見ても可笑しかったらしく、今の周瑜の大声を聞いて、
孫策も素に戻りかかって含み笑いを始めた。

その時だった。
「う…うぅん…」
彼らの声が聞こえたのか、その時横で浅寝入りしていた孫権がうめいたので一瞬場面が止まった。
再び大声を出すと、いい加減この弟も起きてしまう。

「…それじゃあ、」
 事を早く知ろうと思った周瑜は、衣の裾から携帯に使われる小さめの筆を出し、傍に落ちている
葉を一枚拾い、彼の目前に差し出した。
「いいね。これに書いてくれ、孫策。その名前を」
一遍微妙に頷いてそれを受け取った孫策は、何を思ったのか、ぐるりと背中を
向けてしまった。
「…見んじゃねえぞ。」
「孫策!僕に見せる物だろう!?」

思わず周瑜は叫んでしまったが、運良く孫権は目を覚まさなかった。
そして後ろ向きに渡された孫策からの一筆を見て、その不透明さに片眉が吊り上がった。
「これ…字が無いぞ、伯符」
「…分かんねえんだ…読み方しか」
返事の先はまだ背中を向けたままで、こちらを向かなかった。
「そうか。まあいい…じゃ、これは一応預からせてもらう。」
周瑜は再び衣にしまう前に、その読みに合わせて幾つか漢字を走り書きしたが、
少しして筆を顔に押し当てて、考え込んだ姿勢で止まってしまった。
(…こんな読み方をする虫が、…居たか!?)

彼に背を向けて反対側方向に座っていた孫策は、寝入った弟の頭を胡座をかいた膝に乗せたまま、
目先の桃の葉が虫食いされているのを見つけ、千切っていた。
「悪ぃな、公瑾。頼む。……でも…こればっかりは流石に、お前でも分かんねぇと思う。」

単なる照れ隠しのつもりが。
何故あの時とっさに胡蝶に例えたのか、今となれば奇妙な話だった。
先ほど彼が周瑜に書いて渡した葉にはただ一語、" Qiao Jing "とあり、
それはあの少女、喬の發語音を表していた。