今となっては最早史実しか伝える手立ての無い、時代にして約2世紀頃の、中国は後漢時代
の頃の民間伝承である。 司隷地方の境界線に位置していた京兆伊(長安)の南部には、二つの州の境界線があった。 下からすくい上げるようなかたちで益州の漢中郡が横長に広がっており、 更にその司隷と益州の間にねじり込むような格好で荊州の南陽郡が位置していた。 複雑に入り組んだ区域であった為、移動の為にわざわざ複数の関所を通るのを 好む人間も少なかった。 よって、北から横行するルートは一般の民の愛好したもので、先程の幾つも州の境界線を 越えて南下して行くルートは、いつからか貴族・豪族たちが人目を避けて愛好される 黙認の専用路となった。 ―しかし、その話は同時に、南からの行路が宝財狙いの山賊達の勢力圏(テリトリー)にも 成り得る、という事も意味していた。
益州の漢中郡と、荊州の南郡地域の領域境界線の辺りに檀渓という地所があった。 書によっては「波濤逆巻く檀渓」などと記されるこの場は、その名の通り険しく、馬で 越える事などはほぼ不可能に近かった。 敢えていえばこの場が示す役割は、地理上の地点を示すといったところか。しかし 運悪く其処のど真中にぶち当たってしまうと、行く手を阻まれるどころか 更に何処かの残党や山賊に気付かれると、その場所と挟まれてしまおうものであれば、 何人で抗戦しようが一たまりも無い。
紀元、192年(初平三年)開けの頃。 |