短期集中隠居気味小説 「胡蝶、緋に立つ君へ」一


今となっては最早史実しか伝える手立ての無い、時代にして約2世紀頃の、中国は後漢時代
の頃の民間伝承である。
 司隷地方の境界線に位置していた京兆伊(長安)の南部には、二つの州の境界線があった。
下からすくい上げるようなかたちで益州の漢中郡が横長に広がっており、
更にその司隷と益州の間にねじり込むような格好で荊州の南陽郡が位置していた。
複雑に入り組んだ区域であった為、移動の為にわざわざ複数の関所を通るのを
好む人間も少なかった。
 よって、北から横行するルートは一般の民の愛好したもので、先程の幾つも州の境界線を
越えて南下して行くルートは、いつからか貴族・豪族たちが人目を避けて愛好される
黙認の専用路となった。

―しかし、その話は同時に、南からの行路が宝財狙いの山賊達の勢力圏(テリトリー)にも
成り得る、という事も意味していた。


益州の漢中郡と、荊州の南郡地域の領域境界線の辺りに檀渓という地所があった。
書によっては「波濤逆巻く檀渓」などと記されるこの場は、その名の通り険しく、馬で
越える事などはほぼ不可能に近かった。
 敢えていえばこの場が示す役割は、地理上の地点を示すといったところか。しかし
運悪く其処のど真中にぶち当たってしまうと、行く手を阻まれるどころか
更に何処かの残党や山賊に気付かれると、その場所と挟まれてしまおうものであれば、
何人で抗戦しようが一たまりも無い。

紀元、192年(初平三年)開けの頃。
―陽が落ちる前に益州を越え、檀渓を通過する。
ある日、そんなおぼろげな目標を掲げて南道を下っていた馬車数台の列があった。
その見た目は、普通、余程の勢力を持つ豪族でもなければ考え付かないような
豪奢な装飾ぶりで。
 しかし、冬場にそんな境越えの願はかけられることも無く、州の境界線の夜空はまるで
その日の夜月さえも呑み込んでしまったかのように、暗沌と広がっていた。
加えて、噂の檀渓の地にさしかかってしまい、その進路は自然と回り道をせざる事を
余儀なくされた。
 「姫君様。…申し訳御座いませぬ。」
その列の中盤辺りの馬車の手綱を握っていた男のひとりが、自分が動かしている
車の中に向かって深々と頭を垂れた。
 その返事に当たる声は外には聞こえなかったが、中ではひとりのまだ年端も行かぬ
少女が、静かに首を振っていた。
 「不覚でした。陽が落ちるのが早いと…行路がこのようにも阻まれるとは。
…喬公様も恐らく姫君様の御帰着が遅れているのを気に病んでいらっしゃると」
 「いいえ。」
再び"姫君様"と呼ばれた少女は、今度は微笑んで見せた。
 「そもそもは、私が京兆伊への御使いに"ついて行きたい"と半分無理矢理に同行させて
戴いたんです。私が居るからと、急ぐ必要もありません。…それよりも、無理しないで」
馬車の中には僅かな炎ひとつしかなかったにもかかわらず、それに照らされた面は
思わず馬を動かしていた男も魂を抜かれてその手の手綱を落としてしまいそうな程の
美しさであった。
加えてこの若い姫君は、誰にも分け隔てなく非常に心優しかった。
先程こそ"『ついて行きたい』と言って、半分無理矢理に同行した"という言い分は
根底を探ると、この少女の妹が先日軽い熱病を患い、その妹の為に京兆伊の或る名医を訪ね
噂にだけ聞いていた万能薬を買い求める事であった。
 (「…ご厚意極まります」)
と、その男が声に詰まりそうになりながら言おうとした瞬間、前方で連れの引く馬が
一遍甲高く鳴いたかと思うと、今までゆるりと進んでいた馬車の列がいきなり
押し止まり、行く手を遮られた。
 「…うわっ!」
この馬車を引いていた男も、あまりに突然の出来事で横転せぬよう手綱を引き過ぎた
ため、一瞬目を閉じてしまった。
乗っていた人間が転がるのではないかと思われる程に馬車も前後に激しく揺さぶられ、
それと同時に周辺一帯に高く砂埃が上がった。
 「何、どうした!?」
後ろから付いていっていた手綱持ちの男たちは状況が全くわからず、前方に向かって
口々にそう叫ぶだけであった。


 「…出た!」
沈黙の後誰かは特定できなかったが、前方のどの人間かが、そう叫んだ。
 「引き返せ!前を塞がれた!」
続けて、別の男が声を上げた。

 正直、この馬車が連なった状態で進路を変えて細い道を引き返すなど
ほぼ不可能に近かった。

 「そんな、引き返せ、だと!?」
姫君の手綱を引いていた男が目線を上げ左右させてみると、顔色を失った。
暗雲の隙間から差した僅かな明るさが、今居る崖の上の四方を埋め尽くしている
目をギラギラさせた奇怪なごろつき達を不気味に映し出した。
―山賊が出た。
…このように、多勢で。

 いつ、上から降ってかかってやろうか?という勢いで。

しかしそれは、こちらには条件と状況があまりにも悪すぎた。
このように闇夜で見た目ですら装飾に一般と明らかに判別のつく大豪族の馬車では、
山賊達に指を咥えて静かにその場を見送れ、と云うのも無理な話であった。

一旦の間が切れた後、狂声が幾つか同時に挙がり、大量の空気が一斉に動いた。
少女には、その時馬車の外は見せてはもらえなかった。見たくも無かったが。
 「…山賊なの…?」
ただ怯えながら弱々しくすがりついて来る側の女官を、気丈に支えながら呟いた。
―いくさなんて。こんなの、…きらい。
その時、馬車の段をドスドスと品の無い音をたてて近付いて来る敵の足音がした。
先程までは優しい物腰で共に語ってくれていた手綱の男さえも、傍らの剣を手にして
立ち上がった。
 「いけない、姫君様は奥にお控え下され!…うわっ!」
そして彼は、数秒の鍔迫り合いの後、肩を斬られて馬車からあっけなく落下した。
その間、時間にして僅か数秒の事であった。

そんな光景を目にし、少女の元々白かった面は更に蒼白になった。
緊張して身体が動かなくなり、ただ遂に殆ど気絶してしまった女官を護る為に
抱締めておくしかなかった。
彼女の前には今二人の強大な風体の山賊が立ちはだかり、前からの光を殆ど遮っていた。
「ひっひ。たぶんココの車が、一番お宝があっど!御頭」
 「おお、違えねえ!…おンりゃ!お宝ばかりか凄ぇ上玉もいんじゃねえが…へっへぇ?」
しゃくれ顎の山賊の片一方が、髭をさすりながらにやついていた。
御頭と言われていたという事は、この男が山賊の一番上。
確かにこの馬車のみ、碧を四方に飾っていた為若干豪華に見えたりはしたかもしれないが、
其処に入りこまれた少女は、ただ運が悪いといわざるを得なかった。
 「なあ、娘。へへへ、お宝はココにあんだろ?…なあ、一体何処だ?あん?」
少女の背後には確かに若干は宝と呼ばれる玉があったが、薄暗い布で覆っていた為
全く気付かれなかった。
 「厭!それ以上こっちに来ないで」
見た目の思っていた姿より娘の対応が頑とし過ぎていた為、山賊達は若干気を悪くした。
唾をべっ、と吐き、辺りの物を次々に倒し始めた。
 「黙れ!さっさと言わねえがこの小娘が!」
その吐き言葉と同時に片方の足を脅しのつもりで大きく踏み下ろした。
「きゃあっ!」
その激振で馬車全体が大きく揺れた時、少女は力を奪われ前屈みに倒れた。
それでもせめて非力ながら女官だけは護ろうとしたのか、上から縦になるかたちで
うつ伏せの状態になっていた。
 「…厭…。」
(…誰か、)
非力な自分を何処かで攻め、か細い声で祈るしかなかった。

段々と近づいて来た山賊二人は、手に手に容のごつい長柄刀を握っていた。
 「…いつまでもシラを切るんなら、…その身体に言い聞かせるまでよ」
一人が鼻で笑いながら、その長柄を一回転させると、その刃先は女官の上に倒れていた
少女の右手甲をかすった。
それは僅かな傷の割に深く、其処からは一瞬のうちに血が流れ出した。
(…いたい!)
普通の切られ傷とは明らかに異なり、そこから間もなく肱から下が痺れて感覚が無くなった。
(いたい…。だれかお願い…、 たすけて…)

 「しかしなあ、こんな上玉を一突きにするのは勿体ねえ。俺はもうちょっとこの娘の
よがり声が聞きたいぜ。へっへ…時間かけて何か吐かせてやれや。」
その親玉の言葉に返事して無気味に笑い、もう一度長柄刀が頭上に上がった。
(厭…。わたし、…こんな所で死んじゃうんですか?)
そんな事を朦朧と思いながら、瞳には薄く涙さえ浮かんでいた。
頭の中が真っ白になり、余りの緊張で意識さえも飛びそうになった。


その時だった。
 「グエッ!」
長柄刀をたった今まで振り上げていた男が口から一握りの血を吐き、白目をむいて
その体勢のまま仰向けにひっくり返った。
その山賊は、恐らく馬車の入り口から、別の者に追撃された。

(―…私、助かったの…?)
先程の九死の場面を逃れた少女は、今までの展開がひっくり返ったことを
おぼろげに理解した。
ただ、予想と異なっていたのは、自分に味方が来てくれたという事ではなく、
たった今その山賊の一人を倒したのは、自分がこれまでに全然顔を知らない男で
あったということ。
(…あのひとも、山賊なの…?)
そして、
ようやっと姿を現した月に照らされたその男は、その身に赤い光を纏っていたという事。
(…若しかして、あのひと…助けてくださったの?)
 「…!?何モンだァ、貴様!」
突然の出来事に、倒されていない恐らく御頭と呼ばれた男が驚きと怒りで顔に青筋を立て
振り返り、刃を振い上げその後ろの相手をなぎ倒しにしようとした。
しかしなぎ倒しにするどころか、逆に武器の根元で押し返されバランスを奪われた。
 「ははは!お前強いじゃねえか、面白ぇ!ンなら、くらえ!」
おまけにたった今山賊の頭領を軽く圧倒した男は薄笑いさえ浮かべ、加えて両腕に
握っていた棍で二回ほど殴り、とどめに回し蹴りを食らわせた。
 「…ゴアッ」
先程まで暴言を吐いていた山賊は馬車の入り口付近に吹っ飛ばされ、
泡を吹きながら惨めな姿を晒した。その朦朧とした目を開くと、その先には先程の男が
完全に無傷な姿で立ち誇り、見下ろしていた。
これ迄の結末のあまりの内容の無さに一瞬怪訝そうな顔をし、落ち着いた口調で呟いた。
「なんだ。…もう終わりかァ?…それ程でも無かったな」
もう既に戦う体勢で無いのか、棍を握った両腕を下げたまま、その倒れこんでいた山賊を
片足で馬車の外に蹴り落とした。
その一連の素速さは、ほぼ"瞬殺"と言うに等しかった。

そしてそのまま馬車の縁(へり)に足を掛け、勢い良く半身を乗り出して言い放った。
 「皆!賊の頭領はたった今討ち取ったぜ!残りの奴等はザコだ、一気にカタをつけろ!」
その指令に呼応して、彼と共に馳せ参じていた数名の馬兵等が銅鑼声を挙げた。

その時男は、自分の後姿を呆然と見詰めていた少女の存在にはまだ気付かなかった。
続いて、彼は馬車の下の方の陰に気付き、嬉しそうに叫んだ。
 「おお。お前、すげえ!さっきまで倒れてたけど何だ、無事だったのかよ!」
その目線の先で手を振っていたのは、少女の馬車の手綱を引いていた男だった。
肩を斬られたはずだったが、刃に身が触れず、大事には至らなかったらしい。
彼は馬車の上に居た赤い男の存在は知らなかったが、山賊を倒した事で敵ではない、と認識した。
 「英雄殿、すみませぬ、そなたの横に落ちている剣を…」
言われた通り目を左右させてみると、ひとふりの剣が落ちていた。
先程、馬車から落とされる前に手放してしまっていたらしい。
 「ああ、これか?ほら!」
英雄殿と仮にもそう呼ばれ、かなり気を良くしたらしい。
嬉しそうに下に投げてやると、手綱の男は一回で掴み取って一礼した。
そして、更にこう続けた。
 「何度もすみませぬ、英雄殿、奥の…姫君様は御無事なのでしょうか!?」
―姫君。
それまでの戦場では全く聞いた事の無い単語を耳にし、微妙な表情をした。
 「あぁん?何だって?奥のヒメギミは無事かァ……?」
言われた通り、彼は奥の方に半身を向けてみた。

その時、
後ろで自分を真っ直ぐ見詰めていた少女の黒目がちの瞳に全ての視線を奪われた男は
一寸の間、固まったかのように立ち尽くした。
 「―………。」
 少女の方は先程の緊張がほぐれ切れずに何も考えられていないまま、目前の月光に
照らされている男の鎧から反射される赤い光をずっと追っていた。
―彼はそれが似合うような、逞しさの中に綺麗な姿を持つ戦士だった。

その頃、馬車上の場面が全く動かない様子に段々と不安になった手綱引きの男は、
"若しかして、姫君様に何か"などと悪い状況を考え、もう一度下から呼んだ。
 「…姫君様!姫君様は御無事なのですか」
直ぐに掛け上がって自分の目で確認すれば早い事なのだが、この若干人の良過ぎな
この男は、下から尋ねる事だけで精一杯で、肝が潰れそうだった。
 「…私なら心配要りません、大丈夫です!」
呼ばれて、自分の方が慌てて叫んでしまった事に、少女は一瞬恥ずかしくなった。
今度は即座に帰って来た姫君様の返事に、手綱引きの男は力が抜けたかの如くの
表情をして胸を撫で下ろし、続けて残党退治の群れの中に入って行った。


先程の赤い男は今の馬車の中から位置を動こうとせずに、馬車の外で展開されていた
中間達の残党始末の一部始終を確認するかのように、一遍だけ目で追った。
普段の彼であれば、その残党始末の場面の戦闘に立ち、真っ先にとどめをさすのが
目に見えているのだが、今回に限っては、大分状況が違った。
少女が小さい片方の掌で、一方の甲の斬られ傷を隠している事に気付き、一瞬だけ
眉を顰めた。
 「…怪我してんのか」
それが、彼が初めて自分に向けた言葉だった。
 「いいえ、……」
歩み寄って来た彼に見えぬように、首を振りながらそれを必死に隠そうとした。
 「嘘だ。痩せ我慢すんじゃねえ。…いいから見せてみろ」
遂に目の前に座り込んだ男はそう言ったと同時に、少女の右の手の甲を取った。

生まれて初めて年頃の男に手を触れられ、両の頬が瞬時に染まった。
その恥ずかしさと言ったら、手の激痛が気になら無くなる程。
 「…だ、…大丈夫です…。」
そんな言葉に対し、傷をずっと凝視していた男は、出ていた血の色の変化に気付き、
その表情を変えた。
 「あー、大丈夫じゃねえよ…やっぱりな。奴等の長柄刀、刃先に毒仕込んでやがった。
もしかして…今、痺れたりしてねえか」
 「…あっ、」
恥ずかしそうに俯(うつむ)いて、目で返事をした。
少女は、先程の斬られ傷から来たと思われる肱から下の痺れがまだ続いていた。
 「そうか、」
ボソッと呟いた後、彼女の顔を見た。
 「…少し痛むかも知れんが、我慢しろ」
彼はそう言ったかと思うと、いきなり少女の手の甲の傷口に自分の唇を充て、
目を閉じて毒の含まれた血を吸い出し始めた。
 「―!いやっ…」
突如に襲われた未知の感触に、思わず肩がすくんだ。
男はその後、後ろに吸った血を吐き、今度は腰に下がっていた瓢箪を掴んだ。
片方の手は少女の手を持っていたので、その瓢箪の栓を豪快に口で咥えて開けた。
それの中身は、酒だった。
 「…少し痛ぇぞ」
何をするのかと思いきや、彼はその瓢箪の中の酒を彼女の手の傷口に注いだ。
 「い―痛っ!…痛…」
その時、瞬時に今まで以上の激痛が電流の様に走った。
余りの痛さに普段の穏やかな表情が歪み、顔が上げられなくなる程だった。
 「こらえろ!―よし。」
何かを自分の中で確認した男は、そのへんの布ギレを先程と同じく片手で掴み取って
歯で勢い良く引き破った後、彼女の傷口にきつく巻きつけた。
 「…どうだ。まだ痛むか」
その一言で手も放され、彼女は現実に戻された。
   「え…。あれ…!?」
その顔は自然と男の方を見上げていた。
 「…痛く、ありません…。全然痛くない。…どうして…。」
それを聞いて、彼は随分と久し振りに笑った表情を見せた。
 「荒療治だがこれが一番効く。…お前にはしんどいかもしれんと思ったが、良かった」
この男のやった手当ては荒療治というか、それまでの痛みが激し過ぎて麻痺して
平気になってしまうという意味合いも含んでいる。

それまで強張っていた少女の表情もようやっと緩んできた様子だった。
 「有難う御座います。山賊退治も…私、何とお礼を申し上げたら良いのか」
 「…いいよ、要らねえよ礼なんて」
その辺のお礼の事は余り耳に入れたくない様子で、赤い鎧の男は静かに言った。
 「でも…。」
それでも礼を言おうとして見上げた時、思わず二人の顔が余りにも近づいた。
伏目がちになった少女の濡れた睫毛は長く、思わぬところで男は耳が暖色になった。
 「いや、兎に角俺に礼はいい。それより…お前。名前は」
 「…わたし…」
其処で一瞬、ことばが止まった。
その当時、女性が正式な名前を通常人前で使う事は殆ど、いや全く無いといっても
決して過言ではなかった。
「―家の娘」「―家の姫」というような意味合いの名前で人前では呼ばれ
自分も大概は生涯それを通し、仮にフルネームで世に出ることになった場合は
神域の武勇などに達した者などではなかっただだろうか。

しかし。
今名前を聞かれたその少女は、目の前の男に自分の本当の名前を告げた。
 「私…喬…です。」
男は、その時天井を見上げて、何故かその名をゆっくりと復唱した。
 「―きょうせい、…か。」
―もう、長旅をする事も無ければ、多分今後見知らぬ人間に出会えることも無いでしょう。
そして、私の本当の名前も、今後新しく出会う方に金輪際教えることは無い。
命の恩人に名前を空んじて戴いて、こんなに嬉しい事も無い。
そしてこれからその名前をあの方に忘れられてしまう事があっても、きっと悔いもない。
豪族の娘に生まれた運命を微かに感じながら、少女はせめてその場限りの幸せを願った。
 「…あぁ、あの、俺、自分の名前先に言わなくて悪ィな。…俺は、」
向こうも頭の中がいっぱいいっぱいだった様子で、そんな事はどうでも良かった。
それより、その瞬間に先程からずっと半気絶状態だった少女の女官が目を覚まして、
その時の場面の状況にも全く気付かずに、知らぬ顔であった彼を見て奇声を挙げた。
 「…おい。あんたもこのお嬢さん御付きの女官さんだったらよ、あんま気絶しないように
もっと心臓叩いてろよ」
 彼がそう言いながら苦笑し終わった時、彼の手下か、戦仲間らしき兵士たちが数人
急いだ様子で駆け上って来た。
 「若殿!さっきの山賊、追党が後方から来襲!」
それを聞き、つい先程まで美姫を前にして声に詰まりながら耳を赤くしていた男に
再び戦の血の気が甦った。
 「何!?あいつ等仲間がまだいやがったのか!…面白ぇ、迎え撃つぜ!」
そう言い放つと、男はさっきまで足元に転がしていた棍を再び両腕に取った。
 「…あぁ、そういえば。この馬車隊は結局無事だったのかよ?」
それは、膝元にいた男が即答した。
 「は。怪我人が若干出ましたが人的被害は極少、ですが、馬車が2台ほど損傷。
その為、先程その馬車の荷と人間を他の移動可の馬車に移動させました。
恐らく、前列は一刻もすれば再出発すると思われます」
外の様子も落ち着いており、一部始終を聞いて男は安堵した。
その結果は、恐らく彼は自分よりも先程の喬と名乗った少女に知らせたかったに
違いない。
 「そうか。んなら、大丈夫だな。…すまねえ、実は俺、親父に黙ってココ来てたんだ。
 だから今は、俺の名前教えられねえや。…今気付いた。」
結局、その最後に若殿と呼ばれた男は、最後まで自分の名を喬に教える事は無かった。

男は最後に後ろを一遍だけ振り返り、これから一時江夏(西陵)に行く事になった
馬車の一行をざっと見渡した。
しかし全体見渡すふりをして、実はその遠目から先程の可憐な娘だけを追っていた。
そして彼らの一団は、どうやら違う地域に戦で進軍をしている者達の中の
精鋭の何人からしく、時折暇な日を見計らって山賊退治に出向いていたと言う。
そしてこの半ば即席気味の山賊討伐隊は、喬たちの馬車列の進行方向と
全く逆方向に進路を変え、残党を討つと意気上げて、急な道を勇んで駆け下りて行った。

 「まあ…生きてれば、また何処かで会えるだろ。」

最後にそんな不可能に近いような、適当な台詞を残して。


しかし、
その"不可能に近い"というのは、あくまでもこの赤い鎧の男が凡人である場合であった。