誰かを信じるという事も知らず、
自分自身を信じるという事も知らなかった。


誰かと一緒にいるという意味も知らず、
私は生まれた時から、ずっと、ずっと独りでいた。
ずっと、そう思っていた。


けれど、
そんな私を挟間から救ってくれたのは、貴方でした。

緋曉のうた
 情勢としては大陸の北方中央で曹操が定陶で呂布を破り、その後劉備を頼った彼をよそに、奪われていたもと本拠地の州を奪還、献帝を洛陽に据え曹操が再び牧(州長官)となった西暦195(興平二)年頃の話である。

 そして彼らと少し縁の離れる南の海沿い揚州では晩秋、狩猟売買を生活の糧とする人間の荷台が森林の間を縫うように一本道を走っていた。

 苦虫が引っかかるような男の失笑で目が覚めた。
「なあ…こんな小せぇの、売り物になるのか?…食うとこ無いぞ」
 引っ張られるような痛さだと思ったら、自分は知らない男に耳を掴まれていた。
―その時自分は先ほど、森の中でこの男二人に捕まえられ、無造作に荷車に積まれたのを思い出した。
 多分、自分はもう直ぐ食用として人間の前に晒されて売りに出され、そして食べられるのだろうと思った。
 さっき男達が自分でなく別のを指差して、「こいつは高く売れそうだ」だの「でかいからうまそうだ」だのと嬉しそうに言っていたから。
 薄目で見てみると、友達ではなかったが自分と同じ形をしたからだが檻(おり)の中でごろごろ転がって、蠢きながら積み上げられていた。
 皆何となく虚ろな顔付きで、他人とはいえぞっとした。

「ま、売れなくてもともと売れたら売れた、で儲けだ。多分そんな仔兎、見向きされねえだろうが後でいいや。ついでだから一緒に投げとけ」
 耳を掴まれたままその山の上に放り投げられ随分とぞんざいな扱い、と思った。
(―…いたい)
 耳の付け根がピリピリした。
 もしかしてこの積まれた中に、“生まれて直ぐにはぐれた親”がいるかもと思ったが、その後で“多分いない”と思った。
 寧ろ居て欲しくなかった。
 
 辺りが夕暮れとなって来た時、荷台の後ろでくつろいで居た男がもう一方の手綱を引いてる方に声をかけた。
「そういえば。なあ、…今度軍連れてやって来たあの男。どうよ?」
 それに反応して前の顔が半分だけこちらを向いた。
「…ああ、えぇと、誰だ名前…あー…孫策とかいったか?そういや確か、まだ二十かそこいらって話じゃねえか。」
手綱を引いている方が後ろの男よりも幾らか年上で、世の事情には詳しい様だった。
「へえ、…まだそんな歳かそいつ。…若過ぎやしねえ?」
「しかし、最初の頃こそ新公路の商工自治会の連中も、その若い孫策が軍連れて街に来るとかいうもんだから“略奪はたらかされる”とか言ってビビって、店ほっぽらかして山に逃げたとか言われてたけどよ、最近はぼつぼつ山降りて戻って来てるって話らしいぜ。」
「マジかよ、三兄?」
思わず体を起こして乗り出してしまった弟分の仕草が面白かったらしく、前の男は頷いて話を続けた。
「ああ。それどころかこないだ聞いた話じゃあ、なんでも軍律が中央のに負けねえぐらいビシっとしてるらしくて、民にも親切だし、家畜やら作物にも指一本触れねんだと。なもんで新公路の連中すっかり気ィ許しちまったらしくて、毎晩豪勢な晩飯作って兵士達を手分けして招いてるらしい」
「…へえ。その孫策ってのも偉ぇモンだ…若いのによ。どんなツラしてんだろうな…俺ら隣の二公路だからいつか拝めるかな、三兄?」
三兄と呼ばれた男はそうだったか、と言いたそうに頭を回した。
「あー…そうか。お前孫策を見た事無かったか?…俺は一遍だけあるよ。えぇと確か、…そうだ、丁度今、向こうから来てる男に何となく雰囲気が似て…」
そう言い終わろうとした瞬間、男の表情が強張った。
「へえ…似てんのかあの男に?良く見てみ…」
「(―降りろ、弟!)」
反り返らんばかりに勢い良く馬を止めたと同時に早口で言われた後、腕を思いきり掴まれて一緒に荷台から引き摺り下ろされた。
「(え?ナニ?どうしたよ三兄!?)」
わけも分からずどつく男に、年長の男は一瞬目配せをした。
「(噂をすれば……本物だ。出たら礼をしろ)」

 肉屋商人とすれ違おうとしていたのは紛れも無く、数月前軍を連れて歴陽の地に入って来た孫策、その男であった。
 しかしこの時は護衛を連れずに、共に居たのは少年が一人だけ。
しかもこの時彼は正装ではなかった為、気付かなければ迂闊に通り過ぎるところであった。
「―これは、孫郎。礼も見せず通り過ぎようと致しましてこの二公路肉屋の鄭、大変失礼を…!」
三兄、先程のぞんざいな言葉遣いはどこに行ったのだと問いただしたくなるような豹変ぶりだった。
 意味も分からないまま頭を下げる同伴者の頭を抑えつけながら弁明する男を、“孫郎”と呼ばれた男は自分も馬から降りて腕組みをしたままじっと見ていたが、その後目の前に右手を突き出してニヤリと笑った。
若造の喧嘩の仲直りでもあるまいに、手始めに握手でもしたいつもりであろうか。
「―へへ。イイってそんな面倒臭ぇ事」
 孫策は当時、母方の伯父である督軍中郎将(准将軍)の呉景の片腕となって江東地域の平定に尽力したい、と袁術に願い出、折衝校尉(部隊指令)・殄寇将軍の称号を与えられていた。
 そして当初出発した時は僅か騎馬数十・兵力千足らず、行動を共にと願い出た食客数百のみであったというが、歴陽に到着する頃には騎馬千近く、兵力だけでも五、六千に膨れ上がっていたという。
いずれも彼の人格が成せる業であった。
 そして民は、孫策は官位も爵位も持っていたが、まだ若い彼に敬意と親しみを込めて“孫郎”と呼んだ。
「それよか、なあ。こいつらってさ、明日市か何かで売られるのかよ?」
彼が視線の方に目を向けてみると、先程の兎が数十頭蠢き合う檻の中だった。
「―は。いえ、これらは最初県令の役人向けに卸に出されまして、それから残りを街の食堂用に纏め買いされますので、店に並ぶのはその残りが…」
孫策は肉屋の説明を腕組みをしながら静かに聞いていたが、その間ずっと檻の一番手前にいた片方の掌に乗ってしまいそうな程に小さい仔兎を見詰めていた。
「…へえ…。」

 先程の兎は、彼がその時真っ直ぐ過ぎる位の視線をこちらに向けている事に気がついた。
檻の中に居る同族はこっちに尻を向けていたり寝ながらひっくり返っているので、彼に気づいた様子はなかった。
孫策は寧ろ、兎たちというよりは自分を見ている気がした。
(―あのひと、…なんだろう。じっとこっちを見て…)
―育ちが悪くて小さいから、食ってみる部分も無いと哀れんでみたりして呉れているのか。
悲しい事に、仔兎は最早自分の事を卑屈にしか見られなくなっていた。

「―なあ、」
そう言った後、孫策は肉屋の耳元で一言二言何か口にした。
「は…孫郎、いえ、あの…あれは小さ過ぎて恐らく売り物になりません。もっと肥えて孫郎のお口に合うのが別に…」
申し訳なさを含んだように弁明すると、彼は首を振りつつ鼻で笑った。
「いや、あいつがいいな。えぇと…さっき、二公路の肉屋つったっけな?俺、明日取りくっからよ。頼むぜ」
そうさらりと言い流すと彼は連れていた馬に再び乗り、同行の少年に目配せした。
「行くぜ、権」
「…お待ち下さい、孫郎!」
馬が砂を蹴り上げようとした時、肉屋の三兄は再び倒れ込む様に孫策等の馬の側に走り寄った。
「…え、若しかして駄目かよ?」
「い、いえ…その、私の聞き間違いでしたら大変な事ですので…本当にあんな兎で…しかも取りに来られるなど、と。宜しければ私の方から出向いて」
孫策はもう一度鼻で笑った。
「イイって。俺はあれがいいん、だ!って。お前等は店で普通に肉売っててくれりゃ、俺がそん時にお客さんであいつを迎えにくっからよ」


 孫策たちが去ってから、肉屋兄弟は馬車を動かさずに暫く不思議そうに考え込んでいた。
「―何か勘違いされてたんじゃ…それか、お愛想の冗談か。」
「…そうだよな…こいつなんかが目当てで、あの孫郎様が来る筈ねえモンな…」
 兎は、肉屋の二人の視線が間近から当たるのを感じた。
(…わたし、さっきの人に食べられるの?)
食われる、という経験は一度しか出来ないくせに、しかもそれは自分のくせに、何故かあの男に迎えられるという事に漠然とした興味を覚えた。


 戻り路をゆく途中、孫策は歳の離れている弟から話し掛けられた。
「兄上。あのうさぎ…」
何故かその聞いてくる表情が不安気だったので、彼は心配するなとでも言わんばかりに笑って見せた。
「なに、食ったりしねえよ。俺らの家、兎食わねえじゃん。昔からそうじゃねえか」


 歴陽の街の朝は早かった。
陽が昇るか昇らないか、という間に既に商人たちの商売の準備は整っているのである。
 歴陽城下の二公路でも、籠を抱えてる女だの、牛を引っ張る男だのがこの早い時間から往来していた。
「…しっかしお前、わざわざ予約されてなくても、やっぱり余ったな。」
 あの仔兎は、昨日の肉屋の鄭兄弟の店の、普段は鶏が入っている小さい籠の中にぽつんと置かれていた。
今日は弟の方が午前の店番らしい。
 ここに来るまで、同族の兎たちと一緒にお偉い人物用の卸先に運ばれたり、纏め買いの得意先に連れて行かれたりしたが、何処も彼女だけはじかれてしまった。
 肉屋は得意先に運ぶ際に敢えてこの仔兎の事は言わなかったが、言わずとも向こうから「不要(いらない)」と言って来た。
食用にならない程小さかったので、貰い手が居ないのは当然の事であった。
ただ、あの孫策という男は何故かこの不要扱いされていた仔兎を望んだのだった。
男は、一人の客に鶏肉を分けた後暇になったので、朝焼けを反射したような路を行き交う人々を見ながら番台の上に頬づえをついた。
「…それにしても、マジであの孫郎がウチに来んのかな…。」
その時仔兎も呟きを聞いた。
(―孫郎…?)
兎が“昨日すれ違ったあの男のひとか”、と思い直した、その時だった。
同時に大柄な男の姿が店頭に影を作った。
「あぁー?なんだ、あった、ここじゃねえか!よぅ、来たぜ」
「…は?…はっ、孫郎!」
肉屋弟が孫策の気配に気付き慌てて立ち上がったので、腰を下ろしていた椅子が倒れた。
そんな動揺している男をよそに、“孫郎”は興味深そうに身を乗り出し、店の奥をきょろきょろしながら覗き込んでいた。
肉屋は、その仕草がこの間隣に越して来た家の子どもに似ているなと思った。
「うわ、干し肉だ。すっげーなー。…へっへ、悪ィな。いきなり来ちまってよ」
「…いえ!そんな事は、決して御座いませんが…あの…」
 この時彼は身分を一応隠し、民心を刺激しないように鎧などは一切身に付けていなかったが、声が必要以上にでかい事に加え、衣服が若干作りが良い物を着て居たのでその威圧に近い存在感は十分にあった。
何人かの行き違う民衆が顔を合わせて振り返っていたが、彼は別段気にもしていない様子だった。
(…大きいひと)
仔兎がじっと見上げてみると、男はそれに気付くと同時に目線を合わせるかの様に座り込んだ。
「よぉ。…迎えに来たぜ?」
―その男の表情を見ていると、恐らく自分を食用にする相手なのに、何故かこちらまで笑いかけてしまうような安心感を覚えた。
「なあ。俺コイツ外に出してもいい?」
「あ…それは別に構いませんが…」
その返事を待つ前に、孫策は嬉しそうに籠の中に思い切り肱を突っ込み、仔兎を両掌で掬い上げた。
(…手も、大きな手…)
これまで、この兎は人間に扱われる時は耳を掴まれて引っ張り上げられるような痛い思いしか、した事がなかった。
それしか知らなかったので、こんなに優しい触れ方をする人間が居るだなんて思ってもみなかった。
「ひゅうっ、ちっせえー…」
この仔兎の何がそんなに気に入ったのだろうか、孫策は片手に兎を乗せ、もう片方の手でそれを嬉しそうに撫でまくった。
大の男が大事そうに小動物を抱えた光景は、いささか滑稽であった。
肉屋はいまだに、その売り物にならないものを、よりによってあんな政治の前線の一端に関わっている大の男が引き取ってくれるというのが信じられなかった。
「孫郎。あの…本当にその兎…」
「おぅ。俺、コイツ引き取らせてもらうぜ?…ああ、そうだった」
孫策はそう言うと、何か思い出したかのように着衣の合わせ目から片手を突っ込み、豪華な飾りの付いた帯刀を取り出すと肉屋の台の上に置いた。
それは鞘の隅にまで装飾と石があしらわれ、貧乏人でも質に入れるのすらためらわれるような宝剣であった。
「じゃあ、コレと引き換えでイイかよ?」
「…へっ…?ちょ、ちょっと孫郎!お待ちを!」
男がそれを手に取り慌てて見上げてみると、既に孫策は後姿で遠ざかっていた。

 この露店街は、特有の白い湯気が露店のあちらこちらから上がる事で早朝ならではの情景を描く。
「しっかし…それにしても俺、こんなに早く起きたの久し振りだぜ。えぇと早起きは…何文得するんだっけか」
 目の前の方角は真東らしく、丁度建築の間から朝陽が見えるところだった。
 仔兎は自分を抱いたまま、露店通を颯爽と進む孫策の着物の模様やらをじっと見ていた。
―この男の考えがまだ掴みきれぬ、と感じたそんな折だった。
孫策は急に調子良く吹いていた口笛を止め、兎を自分の目線まで持ち上げた。
「…心配しなくていいから。俺も周りも、誰もお前食ったりなんかしねえからよ。」
その言葉があまりにも力強く、そして優しかったので、本当に信じていいのかと思いたくなった。
以前逢った事のある誰かに似ていたが、はこれまで生き延びた過程があまりにも壮絶だったらしく記憶の一部が消し飛んでおり、今は思い出せなかった。
(―わたし…食べられなくて…いいの?)
死の不安から免れた事は、当時の野兎には本当に夢のような話で。
「ああー…そっか。お前、名前決めねえとな…」
(…名前…?)
彼は考えながら一瞬顔を明後日の方向に向けたが、直後に何か閃いたらしく嬉しそうに目を細めた。
「お前さんの名前、思い付いた!“”。…どうだ?」
その名前を聞いただけで響きの良い名前だと思った。
(そんなに素敵な名前が…わたしの名前…?)
兎の表情が緩んだので、孫策は了承したとばかりに鼻で笑った。
「俺は孫策…孫伯符ってんだ。へへ、そんじゃ宜しくな、。」
(…孫策さま…)
たった今孫策にと名付けられたその兎が声を出さずにそう呼ぼうとしたところ、主人は何か思い付いたらしく、を着衣の前の合わせから中に滑り込ませた。
、ココ入ってな。」
(―うわっ、)
何遍かもがいた後に着物の間から出て来たその顔を見て、彼は妙に嬉しそうな表情をした。
自腹の慢性冷え症が幾分か改善されたらしい。
「はは、こりゃいいや!…あったけえし。多分お前も気分いいぜ?」
そう言ったかと思うと、軽く弾みを付け繋げて居た馬の背に飛び乗った。
気が付くともう露店通りは途切れており、路の左右は杉林になっていた。
「行くぜ!」
そう言った途端、孫策らの騎乗していた馬は勢い良く風を切った。
(―うわあ)
 は最初、向かい来る風に目を開けられなかったが、馴れて来るとその感覚と前に広がる風景は病み付きになる程に気持ちが良い事を知った。
恐らく、孫策の懐に護られていると云う安心感もあったからだろうか。
そう思い直すと、は数日振りに安心して力が抜け、眠気を覚えた。


 郊外の陣営に戻った孫策を一番表玄関で待って居たのは周瑜という男であった。
この男、彼とは幼馴染で十年来の付き合いになり才知縦横にして眉目秀麗、この前の年に孫策が江東に戻った194年、真っ先に麾下の精鋭に加わった。
この時孫策が思わず言った台詞が、現在も書に残る「吾、卿を得て諧う也(お前さんが来てくれれば無敵だぜ)」だったと言われている。
“麾下”と自称しているとはいえ、彼は孫策の最も長い幼馴染であり、少なくともこの若将軍の叡智の部分を補い、そしてひっぱり出している重要な存在である事に変わりは無かった。
「―孫策。こんな朝早く君は…何処に行っていたのか…?」
「おぅ。ちょっとな。露店街の朝市見て来たんだ。うん、結構賑わっててイイ感じだったぜ?」
周瑜は、そう言いながら馬を下りて歩み寄って来る孫策の腹の辺りをじっと見て居た。
顔を出したは次に、この周瑜と目が合った。
彼は一方的にやけ散らかすつもりだったような表情をしていたが、そのつぶらな目と繋がると思わず笑みを零した。
「―で。それで君は今朝、街でなけなしの全財産を絞ってその“可愛らしい仔兎”を買った、と。」
そうあっさりと言い放った周瑜の言葉を聞き、孫策は若干分が悪くなった。
「…いや、俺、今金持ってねえ。全部権に預けてるし」
彼が権と呼んでいるのは、この前の日に同行していたあの少年であり、彼と7歳離れた弟である。
まだ歳も13になったばかりで通常であれば戦に出る相応の歳ではないのだが、孫策は時として大人の中で献策を唱えるこの孫権を誇りに思った。
彼が普段気ままに、本能に忠実に行動出来るのもこの気立てのしっかりした弟がいたからだった。
「…じゃあ君はどうやってこの兎を買った?山じゃないなら拾ったわけでも無し…まさか、」
周瑜はそう言った直後何かが思い当たったらしく、孫策の腰の周りを探る様に触った。
「孫策。…君、帯刀は…あの宝剣は何処にやった!?…もしかして、」
読まれた孫策は、理由も無く両手を上げた。
真剣な表情の周瑜に対してやばいとは思いつつも、彼のそれは別段頭の端にも気にしていない様子だった。
「…いや、なんだ。ホラ。俺…普段使ってなかったんで、それをよ」
「手放したのか―孫策…前にも言ったろ!ああ、君は昔っからそうだ。どうして、そんなに物に対して頓着が無さ過ぎるんだ!」
どうやら、彼は前にも貴品と否の区別がつかずに、この様な物品をあっさり手放してしまった事があるらしい。
孫策は周瑜の御小言を右から左に流しながら一応聞いていた。
彼は戦事に関わる進言や面白そうな事は一言一句聞き漏らす事は無いが、反対に興味が無い事になると、聞いてる態度は見せるが聞いていない。
意図的なものがあるわけでは無く、聞こうとしても本当に頭に残らないらしい。
「でも俺、そん時持ってたのがそれしか…」
段々声が小さくなって行く彼の言葉を耳に入れ、周瑜は妥協した。
図体の大きい男の掌から覗く何の罪も無い兎の顔を見ていたらどうでも良くなってしまった。
「…もういい。人の元からの性分なんて云うものは、やすやすとそう簡単に変えられるものではないしね…」
最終的に周瑜は、自分の考えた台詞で納得した様子だった。
「だろ?」
孫策は、場合を見繕って時には適度に割り切ってくれるこの周瑜の性格を気に入っていた。

「わぁ…兄上…本当にあの時のうさぎを買われたのですか?」
 陣幕の隙間から、それに加えて兄が自分で起きて外に出向いた事に驚く孫権がいた。
先日の仔兎に気付いたらしく、遊び相手が出来たかのように大きめな目を輝かせて。
 の事に話を振られて、彼に嬉しそうに見せている孫策の背中に周瑜が一言浴びせた。
「孫策。今日君が刻五ツ半にやると言っていた…軍議は」
「おぅ。そうだな…えーと、腹減ったからメシの後にしようぜ」
今は既に刻六ツを過ぎようとしていた。
「…だろうと思ったよ」
そう鼻で苦々しく笑うと、周瑜は読みかけの書物があったらしく、自分の居場所に戻って行った。

孫策等が陣営の奥で、夜遅くまで軍議を行っていた時には丸一日ぶりにまともな食事にありついていた。
「―良かった…食べてくれて」
まだ少しばかり人間を警戒していたが、緊張を緩めて菜を食べ始めるまで辛抱強く待っていたのは孫権であった。
どうやら兄に頼まれたらしい。
は、自分ごときの為に軍議を抜け出させてしまった孫権に心の底でわびていたが、彼は何故か通常より嬉しそうだった。
頬づえをついて、半ばぼんやりした面持ちでを見詰めていた。
「私…あんなに嬉しそうな兄上を初めて見ました。こんな名付感性(センス)を持たれてるなんて知らなかったし…きっと、君の事が気に入っているんだね」
(―…わたしの事が?)
思わず食を進める口が止まってしまった。

同時刻、軍議は正念場を迎えていた。
 少し前、揚州では刺史(知事)に劉という男が任命された。
揚州の本拠地は元々寿春であったが、この地は既に袁術が占拠していたので、彼は長江を渡り曲阿に役所を移した。
 その頃曲阿には、孫策の母方の伯父である呉景がとどまっており、従兄の孫賁も丹陽郡の都尉を務めていたが、曲阿に着任した劉は自分の息の掛からぬ人間を追い出しに掛かり、この二人もやむなく北方の歴陽に退いた。
 この歴陽と江水(長江)を挟んだ接近した位置に牛渚という劉側の軍事基点が置かれていたが、この年195年、孫策は歴陽に入って間もなく長江を下りこの地牛渚を攻撃、倉庫に貯蔵されていた兵糧と武器を全て奪い取り軍営地点とした。
彼の活躍によって状勢は五分五分に落ち着いたが、現在北方には彭城の薛礼と下の筰融という劉を盟主と仰ぐ二人の相(知事)が居り、孫策は彼等の出方がどう来るかを探っているところであった。
ただ、その中で彭城の薛礼とは、一戦起こす前に調停の談合が持たれるかもしれないという話が匂って来たりもしていたので状勢が不明瞭だった。
「―出来れば、猪突じゃねえ奴との戦は避けてえんだがな」
孫策は、いつの世でも大多数である和平を望む声に反旗を翻して戦を大いに好む男だったが、それはあくまでも、自分も相手も発火しそうな武人の魂を持っている場合に限っており、慎重姿勢な相手になると話は別であった。
場の勢いで討ち取りましょうと進言し続ける一派と、引いて自軍と吸収させようと進言する一派があったが、孫策が選んだのは後者だった。
「…ならば、薛礼殿と」
「ああ。どうなるにせよ、近いうちに一会持たねえとな…」
彼は、自分より20も歳が離れていたが友人のような信頼関係であった長史(事務副官)・撫軍中郎将(准将軍)として重臣の一人である張昭という男と目配せした。
「しかし、あくまでも談合だからな…重い軍装はしねえ。護衛も連れてかねえ。同行で周瑜とあと二人もいれば充分だろ」
「…余裕だね、孫策」
不敵な表情をする彼に向け、名を出された周瑜も薄く笑った。


―さっき、不思議な夢を見た。
 夢というよりは、忘れ去っていた過去の思い出が夢の中に出て来たと言った方が正しいだろうか。
 昔、自分が更に小さかった頃に、胸をときめかせてくれた仲間が居た過去を。
 親家族ともはぐれてずっと自分は独りだと思っていたけれど、そんな自分に最初に話しかけてくれた相手だった。
(―おれが守ってやるから)
その頼もしい声と大きな背中について行くのが、とても好きだった。
 何故忘れてしまっていたかというと、そう言ってくれた仲間は山火事が起きた時にを浅池に突き飛ばした後、直後巻き込まれた炎の中に消えたから。
何故、命を懸けてまで自分なんかを守ってくれたのかと思うと辛くなった。
後を追う勇気も出なかった。
悲し過ぎて、その思い出どころかここ最近の記憶まで忘れてしまっていた。
 それからは、今日の今日まで彼女はずっと独りだった。
記憶に覚えずとも『誰かを失う悲しさよりは、一生孤独と付き合った方が』などと考えてしまっていた。
が目が覚めると真夜中であり、明るいものといえば遠くの見張りの松明(たいまつ)の小さい炎しかなかった。
 その軍議が遅くにまで及んだものだから、陣の外で待っていた彼女はいつの間にか寝てしまっていた様子だった。
誰かが寝床を用意してくれたらしく、足元を見ると残布と綿が入っていた底の浅い木の箱の中にいた。
しかし、こんな寝覚の後すぐに二度寝出来るわけでもなく。
(…ここは)
がそう思った時、直ぐ奥で人間の居る気配がした。
彼女がそれに気付いた時、同時にどうして過去の一部が甦ったのかも理解できた気がした。
(―孫策さま…)
姿形違えど、彼は、今傍で横になっているこの男に雰囲気が似ていたのだ。
口が裂けても言えるわけではないし、言葉は通じないと分かっていても、感情が身体と態度で伝わってしまいそうで怖かった。
「あれ。…、どうした?」
気配の変化に気付いて眸を開けた孫策は、顔の角度だけ変えたまま自分の顔をじっと見ていた。
まさか過去の思い出と今こうして目の前に居る顔姿の立派な男が重なってしまったとも言えず、ましてやその視線が微熱を含んでいるかの様な気がして、どうしたら良いのか分からなくなった。
「晩、少し冷えたからな。…起きちまったのか…?」
彼女が心臓の高鳴りが早くなって動かないので、孫策は気遣う様に微笑すると寝床から腕を差し下ろして来た。
どうして逃げなかったのか、その理由は自分にも分からなかった。
熱を持った掌がその小さな身体にゆっくり触れて来ると、矢張り緊張は解けなかったが寒さによる震えは幾らか収まって来た気がした。
「来いよ、こっちに。…恥ずかしがらなくてもいいんだぜ?」
気がつくと、は持ち上げられていとも簡単に孫策の寝床の中に引き込まれていた。
そこは常春の様な温かさだった。
改めて目を見開くと、敷布の清潔な白と男の鍛えぬかれた身体の肌の色と、下ろされた彼の長い黒髪だけ。
直ぐ近くにある顔が自分だけを見詰め、自分にしか聞こえないような息遣いで囁いて来る。
恥ずかしくて顔を上げられなくなった。
山で人間や外敵を避けながら今迄生きていたこの兎を、包み込むかのように何度も触れて来る。
「お前さ…多分まだ、人間とか他人とかまだ全然信じられねえと思うけど…」
はその時、孫策の広い胸に身を委ねたくなった。
「…俺の事は、好きになって欲しいな。」
(……)
嬉しくてたまらなかったが、本当にこの海に溺れて良いものかまだ分からなかった。
しかし、
はこの時から、孤独よりも誰かと一緒に居る楽しさを知ろうと思い始めた。
直後、彼女は孫策と共に明け方まで寝に入った。


 それから数日経って、孫策は明け方周瑜と数人を連れて洪沢湖のほとり、歴陽と彭城のほぼ中間地点に当たる淮陵という地に出向き、薛礼たちと談合を行う事になった。
「…君という奴は。仕方の無い…こんな時にまであの兎を」
周瑜の呟きを遮るかの様に、孫策は顔を向けて笑っていた。
「だから言ったじゃねえか、戦じゃねえ。談合だって。」

はこの時、彼の軽鎧の腰袋から顔を出し、背中から昇る朝焼けをじっと見ていた。
(…なにか、胸騒ぎがする…。)
まず話し合って違いの状勢だけでも掴み取れれば上等、うまく行けば停戦、連合への期待すら持っていた彼等に対し、この兎だけは動物特有の勘を嗅ぎ取っていた。


地に着いてからは、話はとんとん拍子とまでは行かなかったが、時間だけは恐ろしいほど早く進んだ。
「…孫将軍。願わくば我々、なるだけ戦の波風を立たさずに次の過程に進みたいと思いませぬか」
「…ええ。」
本心かどうかはわからなかったが、孫将軍と呼ばれた彼はそう返事した。
薛礼は最初から彼等を手厚くもてなし、談合を円滑に進めようとしたが、お互い静かに主張する中に譲れないものが有るらしく、話は一進一退を繰り返した。
そんな中でも、料理の数はめまぐるしく回転した。
堅苦しい場としての談合はここまでかと思われた。
場は宴となり雰囲気も緩んで来たのだが、孫策は取り敢えずまだ酒にだけは手をつけなかった。

「…孫将軍、どうなされた?酒が減っておらぬようですが」
少し気分が高揚した薛礼が調子良く振ってみると、孫策は相手に悪く思って飲む振りをした。
「いえ、…俺らの方が薛礼殿の地に出向いてるかたちですんで、羽目は…」
といいつつ、ちらと斜め側を見てみると周瑜以外の連れには既に酒が入っていた。
(…あーあ…。)
孫策が相手に悟られぬ様に腹で失笑すると、一旦自席に戻った薛礼は、そこから年季の入っていそうな酒壷を運んで来た。
「…では、こちらの我が一族秘蔵の柄だけでも一献」
「ひゅうっ、こりゃ!すげえ…」
それは、恐らくこの場で飲んでおかなければ二度とお目に掛かれないような銘酒だった。
周りの臣下が羨む中、薛礼は“孫策殿の為だけに”特別に、とその美酒を杯に注いで渡した。
「…へえ、じゃあ折角だしこれだけでも」
そう言って、彼が一礼をしてその杯を掲げ、煽ろうとした時だった。

(…孫策さま!いけない…これは、お酒じゃない!)
この酒から来ていた匂いの中から、は異物を嗅ぎ取った。
腰袋から飛び出し、彼の手から杯を突き落とした。

「…あぁっ!」
先に大声でそう叫んだのは薛礼の側であった。
「え…どうしたんだ…
孫策が一瞬呆然とした後に卓台を見下ろすと、表情が険しく一変した。
先程の杯から零れた酒を頭から浴びたがぐったりして横向きに倒れ、血を吐いていた。
「…えっ、…」
彼が目の前の真実に気付くまで一瞬間を必要とした。
―薛礼は、孫策の為だけの特別な銘酒と称して、その中に猛毒を仕込んでいた。
人間の嗅覚では感じ取れぬそれだったので、彼を討ち取るにはうってつけと思っていたのだった。
しかし、それに気付いたは体当たりして酒を零させたが、代わりに自分がそれを数滴口に含んでしまった。
内臓を刺されるかの様な激痛に耐えきれなくなり、自分はもう立つのは二度と無理だと思った。
(…孫策さま、逃げて…。)
そう心の中で呟いた後、意識が飛んだ。
最後に、孫策への思いを少ししか態度で示せなかった事だけを心残りに思いながら。

「……!」
掌に乗せたその小さい存在に何回か触れた後、孫策はそれを周瑜に手渡し、腰が引けて座り込んでいた薛礼の胸倉を掴み、睨み上げた。
歯を食いしばり言葉遣いも一変、そして、自分を狙った手口の汚さというよりは、関係の無いものまで巻き込んだ事に対する憤りだった。
「毒だと…てめえ…許さねえ。汚ねぇ手使いやがって!」
見破られた方は、場を引っ繰り返された事が今だ信じられず、ばねの飛んだ機械の様に言い訳と無念さを交互に喋り続けた。
「あと少しで孫策を…無念…、至極、無…」
言い終わる前に、薛礼は孫策に勢い良く殴り飛ばされ、周りの臣下と共に叩きつけられて床にふんぞり返った。
一発殴られただけなのに、顔には拳の跡の様な痣が付いていた。
背中からぶつかった後ろの木製の卓台は、真中から綺麗に折れ残骸が散った。
「開戦だ。…この孫伯符、絶対お前だけは容赦しねえ!」
既に体は前を向き戸を出ようとした格好で、孫策は最後振り向きざまにそう唾を吐き捨てる様に言うと、その戸を蹴り壊した。
そしてそのまま、二度と後ろを振り返る事は無かった。

 この直後、孫策は長江を再び渡り薛礼軍を敗走させた。しかし、その間に劉軍の武将である樊能・于麋らに手勢を集め直し牛渚の軍営を奪い取られたが彼は直ぐに取って返し、樊能らを撃ち破って男女一万人余を生け捕りにした。
―これが世に名高い“牛渚の戦い”であった。
 気がつくとこの将星孫策の鋭鋒の前に立ちはだかる猛将は既に揚州に無く、彼の破竹の勢いは遥か北都の曹操の耳にも届くようになっていた。


「…居るのか?」
或る晩、周瑜が孫策の陣幕に入ると、彼は祈るような姿勢で背中を向け、をじっと見詰めていた。
「…伯符」
この時、戦の話など出来ないと瞬時に判断した彼は、思わず孫策を字で呼んでしまった。
あの時から三月程過ぎて年も明けていたが、はあの直後周瑜が名医から買い取った解毒剤で命だけは取りとめたものの、何故かそれからずっと目を覚ます事も無く昏々と眠り続けていた。
しかも、寝息を立てるその表情は安らかで、食事を摂らないのに痩せ細る事も無く。
しかし俗に言う“冬眠”とは違う様だった。
人間だろうが動物だろうが、その毒はその薬で完治する筈で、眠り続ける原因は医者にも分からないと言われた。
「…公瑾、」
何より当時、兎を医者に見せた事自体で笑われたりもしたが、孫策は本気だった。
「こいつ…ずっと、目ェ覚まさねえんだ…」
そう呟く顔があまりに深刻なので、周瑜は不謹慎と思いつつも失笑した。
「この子は幸せだよ。君ほどの男の、戦以外の貴重な時間を全て貰っているんだ。…きっと目を覚ましてくれる」


は、生と死の挟間でずっと夢を見続けていた。
眠り続けていた三月の間で、生まれてからこれ迄の、失っていた記憶を夢の中でほぼ全て取り戻した。
そしてこの時に自分の過去が、“決して悲しかった事ばかりでは無かった”事も知った。
 生まれてからはぐれるまでの僅かな間だったが、母兎に愛されていた事。
 短い間だったが、命を懸けて守ってくれた存在が居てくれた事。
 そして、
 これまでの全てを包み込んでくれるような尊い存在に出逢えた事。
(―孫策さま…)
 彼の名を呼んだ瞬間、足元が温かくなって、瞼の先が明るくなった。
 もう一度逢えたら、今度こそ正面と向かって。
 
 が気がついて瞳を開くと、何故か野外に居る事に気がついた。
随分と長い間眠っていたような気がした。
「…起きたか?」
先程瞼に差し込んだ光は、昇り始めた太陽であった。
初めて見る場所だと思ったら、孫策が関所の突き出した壁の最も高い場所に自分を抱きかかえて座っていた。
「お前、すげえ長い間眠ってたんだぜ?もしかして、朝焼けを見せたら起きてくれるかなって思ってココ来たら…正解だった」
(…あったかい)
この時、はこの光とこの男の体温が無ければ目を開けずにあのまま死んでいただろうと思った。
「有難う…頑張ったな」
その大きな手でゆっくり撫でられる事に幸せを感じながらは、間もなく孫策は大きな戦に出て行くだろうと悟った。
口には言わずとも、もしかしてその出陣は自分が目覚めるのを待ってからだったのではないかと。
そして、暫し別れがあるかもしれないと。

予想は哀しくも的中してしまった。
やっと誰かと居る事の幸せを知り、甘えて良い事も覚える事が出来た。
しかし、それを教えてくれた孫策は明日、劉の本陣と一戦を交える為に出立すると宣言した。

「…兄上、…今、何と」
その前夜孫権は、兄から告げられた事に呆然とした。
「もう一度言うか?…権。お前は阜陵に戻ってお袋達を守れ。…頼むぜ」
孫策のその一言は、命とはいえ彼には辛いものがあったらしく、孫権は膝を落とした。
「…兄上…!私は、誰よりも兄上のお役に立ちたいのです!それなのに、どうして私だけ同行出来ないのですか!」
孫策と孫権の母親と末弟たちは、現在戦火を逃れ、曲阿から阜陵に移っていた。
父親亡き後、17歳という若さで意を継いだ兄の力になりたいと誰よりも願った孫権は昼晩の区別無く学問と武術に励み、13歳になってこの時初めて兄の軍に同行していたのだった。
孫策も最初それを喜んでいたが、今回の命懸けの戦に及ぶと話は別であった。
 まだ彼は後先の長い少年だったから。
 守ろうと思った。
普段従順で滅多に我侭など口にしない弟が、今回に限って反論したので、孫策は端で苦渋の表情を浮かべた。
「厭だ…厭です、兄上…私は兄上と一緒に…」
何度も左右に振っていたその顔を、その兄は両掌で抑えつけた。
「権、…これが今度のお前の戦なんだ。多分、俺なんかよりお前の戦の方が辛い。…だがな、春までの辛抱だ。堪えてくれ」
「兄上…い…いやだ…いや…一緒に、」
「ガタガタ言うな!」
終いには怒鳴って来た兄の言い分も十二分に分かっていたのだが、とうとう孫権の両眼から涙が零れた。
孫策はそれを指で強引に拭った後、弟と額同士を思い切り擦り合わせた。
「お前…もし、今度の戦で俺に何かあったらどうすんだ。誰がお袋達を守ってやれんだ。若しそうなったら、俺の代わりに誰が軍を引っぱんだ?」
―そんな悲しい事。
「…権、俺がいつも戦で思いっ切り戦えるのはな、お前が元気で居てくれるからじゃねえか。」


一刻ほど経って、返事は出来なかったが、孫権は一度だけ小さく頷いた後、とぼとぼと陣幕の外に出て行った。
それを隅で見ていた周瑜がそっと彼の後を追った。
孫策は、恐らく周瑜が孫権の気が収まるまで今晩、共に居てくれるから大丈夫だろうと思った。

は台の上から孫策を見詰めていたが、その次の瞬間に目が合った。
彼は、彼女にも言いたい事があったらしかった。
勿論、兎に人間の言葉が通じるだなんて彼は思っていなかったが。
「―。お前も、権と一緒に阜陵に行ってくれ。今度の戦が終わって、…春になったら迎えに行く」
―暫しの別れ。
若しかすると、永遠の別れ。
「…しかし、残念だぜ。暫くお前に触れねえなんてな…」
その細かい毛並みを愛しむかのように、孫策は何遍も身体に振れた。
(―孫策さま…)
それは自分も同じ気持ちだった。
その後、孫策は長い髪を結わえていた深紅の帯をするりと解いてに結び付けた。
「へへ…いいぜ。似合ってる」
それが、若しかすると彼女への最後の贈り物かもしれなかった。


 その明くる日、孫策は長江を渡河し、軍を率いて出陣して行った。
橋の上まで来た時に、彼だけ元来た方に向かって振り返ったというが、その方向が果たして孫権とが見送った場所と一致しているのかは分からなかった。


それから更に数月が過ぎ、この頃から阜陵では桃の花に緑が多く混ざるようになった。
戦の情勢が気になりつつも、孫権たちは穏やかな日々を送っていた。
戦の事ばかりはさすがに、毎回来てくれる陳宝という伝令の男からでないと分からなかった。
 この日、陽気がやけに良かったので孫権は、庭の石段に座り込んで本を読んでいた。
 その膝の上では、がまどろんでいて。
小さい弟達も家の窓側で昼寝中で、孫権も実は春の眠気と戦っていたが、本の頁をめくる事で誤魔化していた。
「ねえ、そういえば兄上たちは今何処だろうね?」
(…どこでしょう…?)
「…うさぎさんに言っても、私はうさぎ語分からないから、お返事聞けないね」
(…そうね)
今度こそ眠気が来る、と孫権がそのまま仰向けになりそうな瞬間。

「おぅ、お前の兄上様はここだぜ!」
―思わぬ場所から聞き慣れた声がした。
「…えっ!」
その石段の一番下から手を上げていたのは孫策、本人であった。
「あ…兄上!あにうえ、あにうえ!」
「権!戦、俺らの勝ちだ!へっへ、劉の奴逃げやがってさ…」
孫策軍はこの戦で勝利を収め、彼の威令は江東にますます高まる事になった。

(―孫策さま!)
転げ落ちそうな勢いで石段を降りる孫権に危なっかしく抱きかかえられ、は再び孫策の腕の中に飛び込んで行った。
「…ひゅうっ、お前元気そうじゃねえか!約束だったな、…迎えに来たぜ。」

 間もなくして、孫策は家族と軍を連れて威風堂堂、曲阿に入城した。
この日、民衆達はこの新しい将軍に帰伏し、期待に胸を膨らませながらその凱旋を見守った。
ただ、
 その将軍の豪奢な姿に似合わず、片手に何故か小さい兎を抱きかかえていて不思議がられ、一部では笑いの種になっていた事は彼等だけの秘密である。








--------終劇--------