わたしの羽根は、誰よりも白くて清らかだった。
それがわたしの唯一の自慢であり、誇りでもあった。
―しかし、
それはいつからか薄黒く汚れてしまった。

 それでも わたしは
貴方の空をいつまでも飛んでいたいと願っていた。


白陽に羽ばたく
 或る日の霧の立ち込めた朝に、男の低い声が溶けこんだ。
「…どうしたものか…」
雪は泉となって地表に流れ、山は漸く地肌を現しはじめたが、この地に“春”は、未だに訪れなかった。
 建安七(204)年、冀州の袁紹が没してから丁度2年後の事である。
 県令(知事)・韓範は己の言動が分からなくなっていた。
自分の治めている易陽の隣・邯鄲は既に昨年曹操によって破られ遂に他人事ではなくなってしまい、この度、この地も彼に降伏を勧められた。
 しかし韓範は、対抗勢力に恐れをなし一旦降伏してみたのはよいが、いざ『さあ持ち城を明け渡しなさい』となったら一転、何故かそれを拒んで抵抗の意を示してしまったのである。
言い換えると、最初遠回しにした意志表示が徐々に相手には反抗のそれと買われてしまい、弁明すると傷口が広がりそうな緊迫した関係になっていた。
 事の重大さに気付いて悔やんでみたのは、曹操がそれに対抗して自分の治める易陽を包囲する為に軍隊を差し向ける、と言い渡して来た後からであった。

袁紹の後を告いだ息子袁尚は既に破られ、河北はの地を得た曹操によって平定の道を歩もうとしていた。

―この自分の治める地を除いて。
 そんな曹操から送られてくる軍を指揮する将兵は、はたしてどんな恐ろしい人物なのかと頭に及ぼす度に表情が強張った。
 
 比較的若くして県令となった韓範にとって、今の事態は正に窮地であると言って等しかった。
 
「…どうしたものか」
先程と同じ台詞を吐いた彼の視線が、ふと目の前の鳥篭を差した。
その中には、一羽の白い鳩が居た。
 以前、税を納める時にここを訪れた一人の商人が、恐らく餌のやり場にも置き場にも困り果てたので『日頃の職務の疲れを癒して下さい』と言い訳をつけて押し付け半分にくれたものだった。
韓範は其の時から何気なしに餌やらをやって数月ほど過ぎたがその白鳩、名前は未だ無かった。
 恐らく自前の羽根も周りを寄せ付けぬ美しい白さを帯びるそれだったから、可愛がっていなかったわけではない。
だが溺愛するほど可愛がっていたというわけでもなく、ただ何となく名前まで付けて呼ぶ事も無かったのだ。
鳩は少々物足りなさを感じてはいたが、それが今の自分の主人の人柄なんだろう、と割り切っていた。
先程の呼び掛けに首を傾げて来たその小さい頭を見て、彼は鼻で笑った。
「…お前は良いな。ただ只管楽しい事を考えて、晴れの日を待っていれば佳いのだから」

(…そんな事無いのに…)
鳩の呟きは韓範の耳には届かなかった。 まさか、こんな鳥一羽が自分の話す言葉を大まかに解していたなんて、想像もつかなかったであろう。
そして彼はいつものようにこうやって鳩に何となく話しかけるのだ。
一人でいる時は気紛れな男だった。

こうしてまた案が一つ浮かんだらしい。
「そうだ。…鳩よ。私の手紙を…まあ、これから書いてみるのだが。誰でも構わぬ。城壁の外の人間に届けてはくれまいか」
(別に構いませんけど…どうして?)
鳩の声は勿論聞こえる事は無いが、男は自然と答えを返してくる。
「野暮な話なのだが…お前を野に放ち、戻るまでの間に私は意を決めたい。易陽をどうするか。曹操に委ねるか。若しくは別の主を求めるか、或いは」
そこまで言いかけた時、今更鳩に必死に語りかけていた自分に気付いた韓範は失笑した。
「…まあ、考える期間を自分で定めるときりが無いのでな。鳩よ、お前にその猶予を決めてもらいたいのだ。…戻れば私も動こう。仮にもお前が戻らねば…それが天命だと」

(…誰でも良いだなんて言われても…逆にわかんなくなるけど)
「…しかし、曹操以外の息の者の場に届けば、またこの易陽に道は開けるやもしれぬ」
そんな韓範の呟きが耳に入った時、鳩は“自分はもしかして密使になってしまうかもしれない”と思った。

それからニ刻ほどして、その白い鳩は首に文を結わえられ、執務室のある城壁の楼台の方向から東の方向に向けて放たれた。
―漠然とした使命を得て。


 この日、北の地方の気候のもつ特有なものだったのか、晴れた空も差してくる日の光も、“色”を全く持たなかった。
 鳩は、その風景に自分の白い姿を潜ませながら飛んだ。
 暫く行くと易陽の中心から数里離れた小高い丘に、曹操軍のと思われる櫓と陣を張っている部隊が幾つか見えた。
(……息が詰まりそう)
 その屋根影を見下ろしながら、平和だと思っていた自分の直ぐ近くにまで戦の影が忍び寄って来ていた事にぞっとした。

 そんな折だった。
 鳩は自分の身体や翼諸共、瞬時にして襲って来た「天からの衝撃」に飛ぶ力を失い、そのまま地面に落下して行った。
 急に降って来た大粒の雹(ひょう)の塊が、一斉に彼女の小さい体を打ち付けたのだった。
 雹は、降り際が悪ければ屋根に穴さえ空けてしまう威力を持つ。
 北の気候の予想出来ぬ恐ろしさであった。

またそれから何刻経ったのであろうか。
「将軍。…先程のは、流石に恐らく城内の民家にも被害が」
数人の什兵長と、少し鞍の装が丁寧に出来ている馬を連れている軍の大将と思える男が、陣営の外まで巡回に来ていた。
先程の雹の一陣が余りに激しかったので、思わず時後を見に外に出向いたのだった。
 持ちかけられた大将の男は、顔を見てゆるやかに目のみで頷いた。
「うむ、違う主の地とはいえいささか気に掛かる。しかし…拙者、雹は幾らか見かけた事はあり申したが、…地域によってはここまで被害が甚大とは思わなんだ。…それにしても、諸君等は先程の雹の一降りの折、天から何か、白いものが落ちて来たのを御覧じなかったであろうか」
部下にも物腰の柔らかい人物なので一見気を許してしまいがちだが、将軍と呼ばれているからには断固として揺るがぬ威厳を持っているらしく、持ちかけられた男は申し訳無さそうに返答した。
「あ、いえ…将軍…申し訳ありませぬが、それがしは凌ぐ場所に急ぐのに必死だったので…あんな恐ろしいのが降って来る途中に空を仰ぐ余裕は」

なかったのです、という返事を待つ前に、将軍と呼ばれた男は持ち前の武骨な表情を隠すかのように薄く微笑した。
「…そうか。では、やはり先程拙者が見たのは、雹の一つを何かと見間違えたのであろうか・・・」
自分達と同時に出した部隊は、矢張り雹の事後観察とはいえ易陽周辺の偵察であったが、自ら司令を出したくせにこの将軍の目的だけは途中から変わっていた。
 それが気に掛かるのか、藪の中を部下たちよりも数歩前を進んで居たが、急に一声「むっ」と唸った後に遮るかの様に立ち止まった。
「―将軍!…其処の先に何か!?」
 部下たちが一斉に後ろから背中を突かれそうなほどに大音声を挙げたが、男は静かに首を振った。
「…いや。何も御座らぬようだ。ただ、ここで巡回なぞするよりも諸君等は切り上げ、一旦持ち場に戻った方が得策だと閃いたゆえ」
「ああ、」
そう言われて、思い思いに納得した様子だった。
「確かに、そのように持ち場に戻って守備した方が効率が良いと思われます、最初から等間隔ですし」
「…左様で御座ろう?」
当時将軍職ともなれば、指令を受けて動くもの達を威圧する力のような権威を持ち合わせても、それは赦されており、寧ろそうしなければ当時は兵が動かぬ場合もあったのだ。
しかし今ここで“将軍”と呼ばれている男は、権威というよりはむしろ、下から尊敬されて慕われるという清らかさを持って居た。
彼から『実』になる言葉を聞くと、つい自らの頭まで垂れてしまうような。


(…ここは…)
 鳩は向こうから聞こえる男の会話の声で薄ら目を開いた。
そのまま顔を上に向けてみると先に、立って指示を出している大柄な男の後姿が見えた。
警戒して逃げようと思ってみたが、翼は傷ついて動けるわけも無く。
気付かれて放っておかれるのはまだ善い方で、彼女はその時その見てくれを見て“殺されるかもしれない”と思った。
彼が纏っていた武骨な防具等を見て、『この男はいくさ人だ』と感じ取ったのだ。
今自分が居る場所が場所なだけに多分そうだろうと覚悟していたが、いざ実感すると恐怖で身が固くなった。
一見部下にも物腰優しそうな男でも、自分とは立場が違う。

「…一旦我々は戻りますが…将軍は」
「そうしてくれるか。拙者、もう少しこの辺りを見計らって戻るゆえ」
「…では」
こちらに向けて揃った礼をした数人の部下と思われる男たちは、そう言った後一転、蜘蛛(くも)の子を散らす様に戻って行った。

 先程降った雹は溶け始め、ぬかるんだ泥となって自分の身に纏わり始めた。
 恐ろしく冷たい筈であったが、目先想像つかぬ恐怖の所為か、身が凍える事は無かった。
 鳩は、この場にたった一人残った男の背中をじっと見て居た。
 朦朧として居たので、特にその男が頭にしていた精白な頭巾しか視線に入らなかった。
しかし
―振り返れば、踏み潰されるか何かして殺される。
しかも今の自分には運悪く、文なんか結ばれている。
殺されるくらいならば、息苦しいがこの泥の中に沈んだ方が幾らかましだ、と半ば諦めた頃だった。

 再び男が言葉を発した。
「…矢張り、天から降って参った白きものは…そなただったので御座るな」
余りにも予想外だったので鳩は、その言葉が自分に向けられていた事に気付くまで幾らかの時間を要した。
 その男はこちらに振り向きざま、頭にしていたその頭巾を外して目の前に屈み込んだ。
「今、助けるゆえ。…恐らく先程の雹に打たれたのでござろうな。…可哀想に」
しかも次の瞬間、男の手によってその身は泥濘(ぬかるみ)からそっとさらわれて居た。
(…あぁ…)
男が先程自らの頭巾を外したのは、翼が傷ついて泥塗れになっていた自分を拭う為であった。
先程まで恐怖心を抱いていたことを詫びなければならないと思う程に、その男が触れる手は大きくて暖かく、優しかった。
(…どうしよう…ああ、御免なさい…白い頭巾が)
それの元が余りに白かったので汚れるのを思わず詫びてしまいそうになったが、男は鳩が身を委ねて緊張を解いた様子を掌で感じ取り、静かに笑みを浮かべた。
「御安心召されるがよい…拙者が手当て致すゆえもう、大丈夫ですからな。ゆるりと眠りなさい」
こんな自分にも、何と丁寧に語りかけてくれる男なのだろう、と思った。
身に纏わり付いて居た黒く重苦しいものが徐々に取り除かれ、鳩は呼吸がし易くなり、身が軽くなった。
頭巾で覆ってくれていたので、同時に急に心地よい眠気が舞い降りて来た。
(私…ここで眠っても…いいのかしら?)
黙ってそのまま瞳を閉じた。

例え『このまま殺される』という場合になっても、恐らくこんな風に眠りながら死ねると思うから、きっと恐れる事も無いだろう。

そう自分自身に言い聞かせた次の瞬間、鳩の意識はもう無くなっていた。


 この辺りの地域は標高が高く温度が周りより低いという特性があり、この日も上空が薄い膜を張ったように白かった。
その中から照らす太陽は、眩しかったけれども今日もあの日の様に色を持たなかった。
いや、“白”も色の一つだから『持たなかった』と考えてしまうと間違いになってしまう。

(…う…ん、)
鳩はその時、もう少しだけ寝て居たいと思ったがいい加減“寝過ぎ”であったので、この時目を覚まさずにはいられなかった。
白い天幕の隙間から入って来た光が眠気をいい塩梅に遮ってくれた。
 首を起こしてみると、身に付着していた泥は落とされており、翼に受けた傷まで丁寧に手当てされていた。
身体はあの時より随分と軽くなって居たが、まだ飛べないなと自覚した。
少し見回してみたが、この天幕の中には自分しか横たえられていない様子だった。
(…あのお方は…)
ふとあの時助けてくれた男が思い出されて気に掛けた時だった。
「おぉ…鳩殿。目が覚めたで御座るか」
その声を聞いた時、鳩は自分の身体が温かくなったのを感じた。
“あの男”が、天幕の外から顔を覗き入れていたのだった。
一度外されていた筈の彼の白い頭巾は、替えがあったのか再び元の頭に戻っていた。
そしてその手には、何やら小さな器を抱えていた。
(…いらっしゃった…)
警戒心が完全に解けた訳ではなかったのだが、最早そんなものは無用だろう、とそろそろ自分も感じ始めていた。
鳩は天幕に入って来た男に何遍も鳥なりの礼を言ってみたが、聞こえる筈も無く。
「鳥なら、雑穀などであれば食せられるのでは、と聞き持ち寄ってみた。御身(そなた)、空腹であろう。水もあるゆえ、少し入れると良い。」
男が今器に入れて持って来た物は、自分の為に餌を用意して来てくれたのだった。
それを見た瞬間、鳩は自分が恐ろしく腹を空かせていたことを思い出した。
恐らく、数日間眠りこけていたのだろう。
 空腹に負けて思わず出されたそれを啄(つい)ばんでしまった。
(おいしい…)

彼女が仮に人間の機能を持っていれば、恐らくこの時感極まって涙を流していたに違いない。
そんな姿に、微笑んだままの男は顎に手を当てつつ静かに見つめていた。

その時、何か彼に思い付くものが有った様子だった。
「御身…“鳩殿”、と呼んでも野暮で御座るゆえ…拙者、御身に名を定めても良いで御座ろうか?」
“犬公”じゃあるまいし、鳩にわざわざ“殿”なぞ付けて呼ぶ人間も珍しい。
(…えっ…名前……私に!?)
鳩は今更、自分に名前が無かった事を思い出した。
まさかこの男から自分の名前の話が出るなんて及びもつかなかった。
「かと言いつつ拙者、既に御身の名を勝手ながら決めてしまっておるのだが…、最初から口に出して言うはいささか疼くゆえ、」
そう言うと男は、卓台の傍に有った紙の上に筆を取りすらすらと文字を書き始めた。

―“ ”。
その文字形を見ただけで鳩は胸が高鳴った。
(…これ、…こんな素敵な名前が、私の名前…??)
、これが御身の名前で御座る。…拙者、実は、初めて御身に逢った時にこの名前がよぎったので御座るよ。…その、余りに健気で清らかに見えたゆえ…。」
―この方は、私があんなに汚れて傷付いていた時に、こんなに綺麗な名前を考えてくれたのだろうか。
「拙者願わくば、御身を…と呼びたいのでござるが、いかぬ…であろうか?実は姫御の名をまともに呼んだ事が無いので、あまり慣れぬのだが…」
(いいえ…嬉しいです、とっても!よろしければ、とお呼びください)
は自分の気持ちを告げんとばかりに翼を広げようとしたが、途中で片方の羽根が萎えてしまった。
(ああ…まだ、傷が…)
「いかん、無理はめさるな、。其処はゆるりと癒すがよい」
彼女は気遣って少しだけ触れて来るその太い指先に、知らぬうちに愛おしさを感じていた事に気が付いた。
しかも、今まで『鳩殿』と呼ばれていたのに急に名前で呼ばれ始め、恥ずかしさに近い嬉しさまで感じていた。
彼が普段『名の呼び捨て』とは無縁そうな人柄であったから尚更。

が少し鳥らしき元気さを取り戻した様だったので、男は安堵した様子だった。
「良かった。元気になり申したか…。では…久々に少しだけ、風に当たりに外に参ろうか?」
そう言うと、掌で下から掬い上げて方の上に乗せた。
(……)
数日ぶりに、是処に来る前にいつも止まっていた宿木に近い場所から見渡してみると、は鳩としての習性を思い出した様子だった。
「…大分快復したようでござるな。…良かった。今日明日修行すれば、きっと…再び飛べる様になりますからな。」
その時見つめて来た顔がとても近かったので、は思わず恥ずかしくなって首を竦(すく)めてしまった。


天幕の外は天候が落ち着き、白い雲の層の間からちらほらと陽の光が差し始めていた。
先程気温が急激に下がったばかりだったので、その光が大気を逆流させて地面から細かい霧が上がり、辺り一面が幻想的になっていた。
「…御身は確か、あちらの方から飛んで来たでござるな…」
陣営近くの、易陽城壁近くの場所まで進んだ白頭巾の男と、その肩に乗った白鳩は遙か前方を見渡していた。
その時、たちは後ろから歌うような声で呼び掛ける声に気が付いた。
「ごきげんよう―清く、白く美しい、徐将軍」

「これは、張将軍。」

おぉ、と振り返った男は、知った相手であるかのように深々と手を合わせ一礼した。

「張将軍。先程の救援物資!この徐公明、真に感謝申す」

どうやら、を助けた男は“徐”、そしてこの日、命を受けて都より徐に救援物資を届けた男が“張”という名前らしい。
(徐…公明さま…)
は、この時漸くこの男の名を知る事が出来た。
張という男は、目を伏せた後に整った顔を上げ、徐に独特の流し視線を送って来た。
「何をおっしゃいます。易陽での徐晃将軍の優雅な戦いぶり、この張儁乂もこのあまりの美談に胸がうち震える思いです…」

どうやら、この張という男は都でこの徐晃の進軍ぶりを聞いて心酔していたらしい。

「張将軍にかように言って戴けると心強い。…あり難き事ですな。…しかしこたびの戦、

この数日で早くも終局線が見えて来たで御座る」

そう穏やかな中で敢然と言い放つ徐晃と云う男の目には、何か決めたものがあるようだった。
「…何と、もう…。何と鮮麗で、華麗な。この易陽を、炎一つ立てずに開け渡しに運ぶ雄図があるとは…あぁっ、美しい!」

に向けて徐晃は一瞬微笑んだが、その後は自分に向けるかのように厳しい表情をした。

「…しかし、実のところ血は流れずとも、こたびの戦、拙者には…まこと辛き戦なので御座る」

彼が初めて表情を曇らせたので、張は気に掛けたが、敢えて問わなかった。

「徐晃将軍…そういえば、その御肩の麗しい白い鳩は…」
「この鳩で御座るか。…そう。名をと云うで御座るよ」

その名前を聞いて、張は再び徐晃の言葉に酔いしれた。

「その白。あたかも、都に咲き誇る白蓮のよう。何と清廉で、優雅な…美しい…。徐晃将軍の傍らに寄り添う事で尚更…」

そこまで言いかけた時、張は徐晃が表情を曇らせた理由が少しだけ理解出来た気がした。

の首のところに、何かしら結わえた跡が残っていたのを見付けたから。
思わず切れ長で臥せがちなその瞳を見開いた。
「もしや、将軍…この殿は、」
徐晃が辛そうな表情を向けて来た。
「…左様。易陽の県令、韓範殿からの使者。流国の悲しみを血書にして、に飛ばして参ったのだ。…軍を率いている拙者の元に参ったのが最初信じられぬでござったが…恐らく」

そう苦しそうに呟く彼に、張は返す言葉を見付けられなかった。

(―公明さまは、もう、すべてお分かりでいらっしゃったのだ…)
 様子を感じ取り、も知ってしまった。
 自分を使いに出した主人の居る易陽を、軍を率いて現在取り囲んでいたのが、事もあろうにこの徐晃だったのだ。
恐らく、自分が眠りに就いていた時に彼女が結わえていた文書を見付けて、見付けてしまって、
そして彼なりの答えに行き着いたのだろう。
は不知不知のうちに、この『今、自分から最も遠い』徐晃に、少なからず惹かれてしまっていた事に気が付いた。
彼は、自分の主君を、そして易陽を陥とそうとしている張本人ではないか。
 再び彼女は、空を飛びながら雹が降る前の敵陣を初めて見渡した時の様に、息が詰まりそうになった。
いや、前よりも苦しかった。
そんな存在だと分かった後でも、徐晃の事を嫌いになどなれず、寧ろますます彼に惹かれてしまっていた。
願わくば、この男の傍に居たいと思ってしまっていた。

―その時、は心に決めたものがあった。
これ以上この男の傍に居ると、辛くなってしまうと思ったのだ。
(公明さま…、私は…明日、羽ばたきます。)
翼は完全には癒えていなかったが、辛くとも無理にでも急いで飛ばねばと思った。

 その晩、は徐晃と天幕の中に共に居たが、矢張り先には寝付けられず思いにふけった。
そして彼はあの時戻って来て以来、ずっと書卓に向かい何かを書き続けて居た。
明日是処を離れれば、あの常に姿勢の良い彼の後姿も、もう見る事が出来ないのだ。
(…公明さま)
 彼女が聞こえぬ様に自分の中で呟いた次の瞬間だった。
「―、」
矢張り、名を呼ばれるとどきりとした。
もうこの名前で、こんな温かい声で自分を呼んでくれるこの人には逢えなくなるのだ、と思うと切なかった。
「拙者―何か胸騒ぎがするでござる。…拙者には、御身が傷がまだ癒えぬというに、明日にでもこの場から急いで居なくなってしまいそうな…」
(―えっ、)
気が付くと、寝床として身体を纏っていた白い布もろとも徐晃の両掌にすっぽりと納められていた。
見上げれば近くにあった彼の瞳の両方に自分が写っていた。
「…願わくば、…御身を拙者の元にずっと置いておきたい。…居なくなるなど遺憾だ…考えられぬ」
(―公明さま。…私…私も…)
徐晃はその小さな白い身体を、傷の残る部分をそっと塞ぎながら自分の広い胸元に引き寄せた。
「…せめて。今宵は御身と共に…我侭を赦して欲しい」
(―いいえ、赦すだなんて。…私も、公明さま。貴方と共に。…私は…幸せです)
たかが鳥の身分とは解っては居たが、今のは幸せだった。
恐らくこの徐晃の体温を誰よりも感じ取る事が出来たからだ。
―私は傷癒えぬまま旅立つけれど、
 出逢えた人間が貴方で良かった。
 清らかな貴方に出逢えて、本当に良かった。

力を抜いたを抱きかかえたまま、徐晃は彼女にしか聞こえない声で一度だけ囁いた。
「…。御身とそなたの主君が託した、易陽の運命…拙者に委ねてくれ。この徐公明、御身を悲しませる事だけは、させぬ。」




 明朝、張は白い朝靄の中で徐晃が立ち尽くして居るのを見付けた。

彼は遠い目をして、ただ遠くの空を見上げて居た。

敢えて、張はその時声を掛けなかった。

彼等が、彼等なりに別れを惜しみ、別れを告げ、別れを遂げたのだと悟ったから。
「徐晃将軍…たった一つの儚き存在を追って、白い朝霧の中で、白い空を見上げる、その白い姿…… あぁ」

遠くから、張も徐晃と同じ方角を目を細めて見やった。

「美しい…」


に気付かなかった徐晃は暫くその空を見上げて居たが、最後に一遍だけ空を仰いだ。

…」

その羽ばたいて行った空を、名残惜しそうに追いながら。
「…もう、…何も見えぬか…。」



 あれから程なくして、易陽の地は陥落した。
「袁譚・袁尚の二袁が抵抗を続ける今日、未だ降伏しておらぬ各地の部将達は固唾をのんで我等の出方を探って居るのです。今拙者共が易陽の将兵を皆殺しになぞすれば、恐らく河北の平定は見通しが立たなくなり不可能となるでしょう。ここはひとつ、易陽の“無血開城”を認めるべきかと」
徐晃が行った進言が、曹操に受け入れられたのである。

 民の安全は保障され、県令であった韓範も程なくして役人の職を与えられた。
「…若しや…鳩よ。お前が易陽の地を護ってくれたのか?」
今日も以前の様に、鳥篭の中の鳩に、何の気無しに語りかける彼の姿があった。
ただ違うのは、この城が近いうちに曹操軍に明け渡される事になった為に荷を引き払ってこざっぱりしてしまった事ぐらいであろうか。

(…私なんかじゃありません。これはきっと、公明さまが…)
以前と呼ばれた鳩は、またいつもの様に声無く返事をしようとした。
すると、韓範はそれを待たずにいきなり鳥篭を覆っていた上半分を外し、諸共その鳥篭の台を天にかざした。
「鳩よ。有難う…これからはお前はもう、自由の身だ。…さあ、飛んで行くが良い、お前の思うところへ」
―お前を愛しんで呉れる者の処へ。
(…えっ…)
驚くをよそに、韓範は何かが吹っ切れたかの様に微笑んで居た。
「お前がこちらに戻って来た時に結わえて居た文…私はあれに目を通した時、初めて誰かを信じる気になれたのだ。鳩よ…きっとお前にも居るのだろう。掛替えの無い存在が。今こそ、恐らくそこに向かう時なのだよ」
が韓範の元に戻った時、出立の時とは別の文書が付けられて居た。
内容は一切秘とされたが、韓範が無血開城に向けて行動を起こしたのはこの時からだった。


(……本当に、良いのですか…?)
本当は自由になりたかった筈なのに。
 いざ宙に足枷も無く放たれるとさすがに躊躇したが、韓範はそんな彼女の姿に満足でもしているかのように、その姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。


―今のには、自分を待つ場所は無いと自分で解っていた。
 目指したい場所は有った。
 ただ、その場所に着いてももう、あの男は居ないのだと。
 しかし彼女は、せめてその残影に逢いたいと只管願いながら其処を目指した。


(…誰も、居ない…。)
 以前、易陽を包囲する為に作られて居た陣営は、矢張り竈(かまど)の跡だけを残して綺麗さっぱり引き上げて居た。
易陽は陥ちたので、当然と言えば当然の話かもしれなかったが、人が生活した跡は生々しく、
そして誰も居ないと解ると虚しかった。
不要になった天幕と瓦礫が一箇所に積み上げられて盛り上がった場所まで飛んで、止まってみた。
(…公明さま…)
 もう一度字で呼んでみた。
 彼の御陰で、彼女は密かに願っていた自由の身になれたのだ。
 自由になって、徐晃の元に飛んで行きたかった。
 自分と同じ、白くて清らかなその男の元へ。
―しかし。
(…もう、私を呼んで下さったあのお方は…)
 彼女が力なく瓦礫の上で翼を下ろそうとした時だった。

「…。」
 その時、自分を哀れんでまぼろしが囁いてくれたのかと思った。
 背後から優しく聞こえて来たその澄んだ声に、彼女の心臓は止まりそうになった。

見上げてみると、逢いたくても、もう絶対に逢えないと思っていたあの白い頭巾の
男ではないか。
幻ではないその腕に、微かに震えている彼女を止まらせて不器用そうに笑った。
「…陣は今朝方、先に全て引き上げさせてしまったのだが…拙者、若しや御身が参られるのではないか、と年甲斐も無く思うてしまったので、この日まで待ってみたのでござるよ。」
返事を待たずして、彼はをそのまま自分の肩に乗せた。
、いざ…拙者と共に参ろう。都へ」



そこから何里先を行った地点であろうか。
「この辺りからで良いでしょう。皆さん。速度を、たおやかに緩めなさい」

先に引き上げた陣営の殿を務めて居た張が一声を上げた。

「解りました…将軍。しかし、何ゆえこんな場所で速度を…」

それを耳に入れた張は、真後ろを向いて片手に填めていた護手爪を素早く向けた。

自分の動作に溢れんばかりの自信さえ滲ませながら。
「皆さん。後からいらっしゃるこの度の易陽開城の立役者の御二方を二つ前の関所で華麗にお迎えし、都にはその主役を先頭にして入京するのです。…これこそ、凱旋の美学…」


(…公明さま。私…貴方の御傍に居ても、良いのですか…)
そこからは遠く離れた馬上で、声無くが語りかけてみた時、徐晃の視線がこちらを向いた。
(私は、貴方の上で羽ばたいても良いのですか?)
「…勿論で御座るよ」
その時、何故徐晃が彼女の言葉を理解出来たのかは誰にも解らなかったが、お互いもうそれを問う事は無かった。

 そしてこの日、都洛陽では最初の春の訪れが報ぜられた。








--------終劇--------