【Episode:2】
【王立アカデミーから】
 王立アカデミー。
錬金術という学問を志す若い才能たちが、飛び込んで開花を目指す未知の建造物。
出身も身分も特には問わず、錬金術を学びたい者達には門戸を広く、という方針の
アカデミーではあるが、其処に入学出来る者はやはり数限られている。
学力の如何のみならず、時には運さえもそれに含まれている。
そしてそのアカデミーを卒業出来たものには、少なくともそれまでに得て、
そして伸ばして行った様々な錬金術の能力を生かし、それを天職として
広げて自活して行ける事が約束されている。

この度、その夢のような学問の場が与えられるアカデミーで、
今年度の入学試験が実施された。
実は、そのほんの数年前まではアカデミーでは入学試験を行わずに、入学を
希望する者には全てに門戸を開いていた。

しかし。
ここ近年の入学希望者の増加、そして生徒の中でも学問に励む者とそうで無い者の差が
あまりにもあからさまに広がり過ぎてしまった為、王立アカデミーの教師陣の間で
入学希望の者の能力に一定のラインを定めるため、4年ほど前から
入学を希望する者に対して試験を行う事が取り決められた。
もっとも、その前の年に物凄い落ちこぼれ、と呼ばれた生徒が登場しなければ
それは若しかすると有り得なかった話かもしれなかったが。


「こっちで良いのかな。…やっぱり迷うな…広過ぎて…」
そしてこの日。
入学試験から数日以来。
一人、アカデミーの門を再びくぐる少年が居た。
何を隠そう、この日は入学試験の合格者発表の日であった。
外の柔らかな陽射しとはまた違い、アカデミーの中には厳かで静寂な空気が絶えず流れていた。
まだ覚えぬ合格者が貼り出してあると云う、講堂への道順を書いたメモを片手に、
顔を上げ下げしながらそぞろ歩く。
紛れも無く、あの数日前に東の国からこのザールブルグにアカデミー入学の希望を持って
やって来た、僅か15歳のアレス・ハンデルトであった。
「…それにしても…合格者発表が朝の7時って…何か…早いな。」
若干その早さを気にはかけてみたがさほど後をひかず、アカデミー教師の部屋が並ぶ棟の近くで
大講堂の廊下の前の掲示板に、大きな貼り紙がされているのを見つけた。
(……。) アレスはその掲示板に近付く前に一歩、足を止めた。
合格出来てるかな…合格していたら良いな、なんていう期待。
実はちょっと解答頑張ったし、大丈夫、という、少しばかりの自信。

そして。
駄目だったら「駄目もとだったんだ」と思うようにするつもりの、既に見る前からの諦め。
「駄目だったらどうしよう…」という、誰にでも一度はある不安。

アレスは、しばしの間其処で立ち呆けた。
足が前にも後ろにも動かなかった。
遠目でぼんやりとしか確認出来ない貼り紙を眺めた。
そして、他の受験者達がまだだれも結果を見に来ていない、と云う事にもまだ気付いていなかった。
(…よし)
そこで彼が選んだ選択は、目を閉じてその貼り紙の前まで直進するという事だった。
他に何の選択肢があったのか、は分からない。
そして貼り紙の前で、目を開ける。
結果がどうであろうと、感情がこの上無く上下するのは一瞬で済む。
…とアレスは考えたらしい。

無駄ごとはもう言わず、すたすたと貼り紙の前に進んで行った。
何故か、人気の無いアカデミーの天井に足音が響き渡った。
(いち。に。の……)
それまで下向きだった顔を上げた。
自分に一番近い番号を、真っ先に探すつもりだった。
「あ…あれ?」
見上げた目の前に広がる光景に、肩の力が抜けた。
自分の名前があったわけでも無い。
そして、無かったという訳でも無いというか。
…何も、無い。
その貼り紙には何も名前が記されていなかった。
ただ、上の方の中央に『合格者番号氏名』とだけ。
(………。)
まさか、合格者がゼロだなんてことは絶対に有り得ない。
目が点、口を半開きにしてその真っ白な貼り紙を呆然と見詰める
アレスの後姿に、誰かが声をかけた。
「…ふふ。来たわね、アレス」
「…えっ?」
慌てて廊下側に顔を向けると、其処には腕を組んだ女が居た。
「アカデミー。今年の合格者発表はまだよ。これから記されるのだから」
状況が飲み込めないアレスは、首を傾げてその女性に視線を向けた。
「そう…なんですか?」
何やら妖絶な雰囲気さえ持っているその女は、口の端を上げてにマリ、と笑った。
「アレス。…あなたを他の合格者達よりも早目に呼んだのは、理由が有ります」
その時、周りを見まわした少年は初めて今の状況に気がついた。
「…あ、あれ。誰も来てない!」
「ふ。あなた…やっと気が付いたの?」
思わず女は苦笑いを作った。
「アレス・ハンデルト。…あなたは今回のアカデミー入学試験の結果、首席で合格したの。
よって入学式の日、新入生代表として挨拶をお願いするわ」
「は!?」
彼は、更に開いた口が大きくなった。
「どんなにか自信の有る生徒なのかと思ったけど…自分の能力の度合いが分かって無い様ね。
まあ、そこがあなたの面白いところなのかしら?」
「…だ。だって信じられません。あの…だって。僕、参考書が全然買えなかったし
…家の仕事ばかりで羊の世話してたら一日終わっていて…アカデミーは行けたら良いな、って感じで
試験受けて…試験勉強、全然出来てなくって…その」
「それは理由のひとつなだけで結果論ではないの。理由がどうであろうと受かれば関係も無いこと。
私はアカデミー教師のヘルミーナ。アレス、あなたが第一希望に出した担当教官はまだ
ケントニスのアカデミーの方にいて、こちらのアカデミーにはまだいらして居ないの。
入学式の前日にザールブルグにいらっしゃるそうよ。…だから私が先方に連絡を頼まれたの。
大変お喜びになっているそうよ、良かったわね。あなたを合格発表より早く呼んだのは
その連絡の為。それだけよ。おめでとう、アレス。でもこれに浮かれないでこれからも頑張るのね。
…あぁ、成績が上位で入学出来た新入生は、こちらが準備した寮の方に
優先的に入れるの。あなたもそうなら、後で事務室に入寮希望を出しておきなさい。
…そういえば窓際の部屋が空いているらしいけど」
ヘルミーナ先生への返事は、即であった。
「有難う御座います、ヘルミーナ先生。…でも、折角なんですけど僕は寮には入らないつもりです。
親から仕送りは貰えないから…アカデミーの学費、自分で稼いで納めて行くつもりなんです。
だから夜か朝…働きながらアカデミーに通うつもりです。」
それをこのまだ年端も行かぬ少年の口から出されたのを聞いた時、ヘルミーナは表情が変わった。
驚きというか、珍しく関心を持ったというか。
これまでの教師生活の長い間の中で、様々な生徒たちと関わって来た。
しかし、かつて絵に描いたようなこの様な「貧乏苦学生」という生徒には会った事は無かった。


東の共和国カナールの田舎地方に有るアレスの故郷の家は、もともと毎日の食べるものにも
困る、という程ではなかったのだが、裕福ともいえなかった。
羊飼いの朴訥だが優しい父と、織物職人で少々体の弱い母と
3人、ささやかながら特に不幸でもなく、普通で地味な生活を営んでいた。
そうした中での、ある日。母が風邪をこじらせて仕事が数日出来なかった時、
アレスは母親の代わりに織物の手織りの機械で布を織った。
その時昼下がりに寝床から起き上がって来た母が、繰り返し彼にこう言うのだった。
「ごめんよ、アレス。家の事ばかりさせてしまって…」
「いいんだよ母さん、気にしないで。家の事はいつもやってる事なんだし」
別に顔を作るわけでもなく、いつも通りに笑って見せた。
返して申し訳無さそうに笑う若い母は、続けてこう言った。
「…お前には勉強とか…どこか、学校にでもやりたいんだけどね…。」
機を織る手が止まった。
「…学校。か」
学校に若し行けて、生活を便利にする事が出来る技術を見につける事が出来れば。
「シグザール、ていう国があるだろ、アレス。少し前に其処に錬金術士を育成する学校が
新しく出来たそうじゃないか。…お前、今度その入学試験とか受けに行ってみたらどうだい」
アレスは何事か、と耳を疑った後、紛らす為に笑った。
「何言ってんだよ、母さん。僕なんかが…そんな錬金術の学校に行く事が出来るお金なんて
…無いでしょ?」
言葉は、そこで止まった。
―そりゃあ、…自分の好きな勉強が出来たら、そして今の生活に役立てるような物とかがが
自分の錬金術で造り出せたり出来たら…僕だって、どんなにいいかとは思うけどね。―
その一文が、喉のところまで出かかった。
その日、その話題はそこで終わった。
そして夜、厄介な風邪をひいていたアレスの母親は全快した。

しかし、その母親の一言は、単なる軽いうわ言ではなかった。
口には出せずとも分かっていた。
自分の息子が、日中家の為に働いていながらも密かに学問を学びたいという夢を抱いていた事。

それから数ヶ月後、アレスは仕事の前に朝早く父親に起こされた。
まだ日も明けぬ刻に。
その理由を聞かされる間も無く、アレスは父と一緒に丘に上った。
昇り始めた太陽が、これまでに見た事も無い様なオレンジ色だった。
相変わらず言葉の少ない父親だったが、上り終わった後息子の方に目線を一瞬だけ動かし、
たった一言だけ口にした。
「方道の旅費だけだが…用意出来た。アレス。…行って来い、アカデミー。悔いの無いように」
―カナールの男なら、生きている限り新天地を目指せ。
―お前が戻って来たければ、いつでもここに戻って来ればいい。
この地方に伝わる鼻歌の一節が頭をよぎった。
アレスは、実は自分の父親が若い頃、何処のどちらの国で野心を燃やしていたのかを知らない。
知らないというか、今まで聞いた事が無い。
しかし、この地方の男たちは、若い頃には誰しもが迷わず西へ東へと足を向けて行ったのだった。

限られていたが、大好きな親が用意してくれた僅かな旅費と持ち金。
無駄にはしない。
そしていつか、アカデミーに行って、働いて。父さん母さんに倍にして返すから。
後にアレスはシグザール王国を目指して、故郷の生まれ育ったカナールから出国した。
不安もあったが、何故かそれ以上に期待と希望もあった。



「…アレス。…そう。あなた、働きたいのね。」
少年はそう言い返して来たヘルミーナに背筋が伸びた。
「でも!働いて生活が不規則になったりしても、学校の講義には絶対影響させないつもりです!」
取り敢えず、彼はその意志を見せるだけで必死だった。
そんなアレスに、ヘルミーナは告げた。
「それなら…そういう生徒には多分、アカデミーが工房付きの一軒家を提供出来るわ。
錬金術をこなして行ければ仕事の依頼も徐々に貰える。依頼をこなせばお金になる。
…そうやって生計を立ててアカデミーに通う事も不可能ではないわ。」
それを聞いたアレスは、あたかも死角から思いっきり水をかけられた様な気分になった。
「…工房付きの…一軒家…!そういう事も出来るんですか!凄い…!
先生。そ、その家はどうやったら借りられるんですか!?試験か何かあるんですか?」
思いきり"工房住み込み制度"に関心を示したアレスに、ヘルミーナは思わず苦笑いした。
「そこは…恐らくあなたが思っている条件とは逆ね。その工房付き一軒家は、成績が思いの他
芳しくないより抜きの落ちこぼれ…というのかしら。そういう生徒が入る所なのよ。補習も兼ねて、ね」
そのヘルミーナの言葉に対する返事は速攻であった。
「ヘルミーナ先生。…僕、その工房付き一軒家に入りたいです。仕事をしながらアカデミーに通えるなんて
夢みたいです!この学校にこんな素晴らしい制度があったなんて!
で、…どうすれば借りられるんでしょうか…。」

普通の生徒ならば最後の回され処、とまでも言われている"工房付き一軒家"に
自ら名乗り出る生徒は初めてであった。
「…そんなに住みたいの?工房付き一軒家に。寮の方は毎回希望者が殺到するけれど」


その時だった。
ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!
静寂を極めていたアカデミーの教師の部屋の1つが、いきなり物凄い爆音と共にドアを吹き飛ばされた。
思わず驚きのあまりに目が点になって腰が抜けかかったアレスと、一瞬目を見開きながらも、
体勢も変わらぬままその後は慣れたような「又か」といった表情でじっとその部屋を見ていた
ヘルミーナの目の前の廊下に、一人の若い娘が出て来た。
「やっばー…あらららー。またやっちゃった。ははは!イングリド先生ー!大丈夫ですかぁ!?」
その台詞が終わり切る前に、ヘルミーナと同世代頃の教師と見て取れた女性が
上品な衣装とは裏腹の大股歩きと、物凄い剣幕で飛び出して来た。
「何ですか!"また"じゃあありませんマルローネ!!何回爆弾でドアを壊せば気が済むのあなたは!
私が鍵をしている時は調合しているとあれだけ言ったでしょ!ドアが開かないとかではありません!
ドア、直しなさい元通りに!今日という今日は補習です!徹夜で!絶対工房には帰しませんからね!」
そう言うと、イングリド先生、と呼ばれていたその女は、自分の部屋のドアを壊した張本人の
若い娘の耳っ端を掴んで、部屋に引きずり込み、再び壊れかけのドアを無理矢理閉めた。
マルローネという名なのであろう。その名を含んだお説教の声と、言い訳の絶叫が聞こえて来た。
目を細めてその一部始終を見届けたヘルミーナは、再びアレスの方を向いた。
「あの生徒は、卒業試験を前に4年間も留年しているんだけど。…工房付き一軒家は…そうね、
あんな感じの生徒が住む所かしら。それでも住みたいの、あなた…工房に」
「えぇと…はい、住みたいです。…出来れば、絶対」
ヘルミーナは腕組をして、下眼遣いでずっとアレスの表情を見ていたが、
その真剣な眼がヘルミーナの影を背負ったそれすらも圧倒していた。
(…私から視線を外さない子も…珍しいわね…ふん?)
やがて若干の笑みに変わった。
「…分かったわ。アレス。あなたがその工房付き一軒家に入居希望である事、ドルニエ校長に
私から推薦しておくわ。あなたの新しい住所は今日の午後にでもまた連絡するから
その時間になった頃に私の部屋にいらっしゃい。いいわね」
「ヘルミーナ先生!」
体の長さが半分になってしまうくらい、アレスはお辞儀をした。
「有難う御座いました。本当に。…僕、ヘルミーナ先生にお会い出来なかったら多分、
…今まで以上に苦労するところでした。これからもご指導、よろしくお願いします!」
そう言うと、アレスはヘルミーナが微笑したのを見て嬉しそうな顔をして背を向け、
もと来た廊下を戻って行った。
(…私の25年位前も…あんな感じだったかしら…。)
ヘルミーナがその言葉を口に出したのか、ただ頭の中で考えただけなのかは秘密である。
(やっぱり昔の事は、忘れたわ)


一旦アカデミーから出ようとしたアレスと入れ違いに、今回の入学試験の結果を確認しに
大勢の受験生達がおしかけていた。
(…今回…こんなに沢山受験してたんだ…知らなかった。)
アレスはその通りの途中で、購買店があるのを見つけた。
カウンターに立っていた若い女性と目があってしまい、彼は取り敢えず会釈だけしてみた。
「あら。いらっしゃい。アカデミーショップにようこそ。…あなた、新入生?」
優しく微笑みかけるその女性の微笑みに、深く落ち着いた檜皮色の長い髪が良く似合っていた。
若い女性に微笑みかけられた事なんてこれまで無かったので、アレスは思わず赤くなってしまった。
「あ。…はい。よろしくおねがいしま…」
きちんと言い終わる前に、女性は話を続け出した。
「そう。それなら、何か材料でも見て行ってね。」
「え。えぇと…」
言われるがまま、思わず後ろの陳列棚をまじまじと見た。
後ろには錬金術で使われる乳鉢や天秤。…ほうれんそうなんてのもあった。
しかし、アレスは今、錬金術の事など何も知らず、しかもお金も無かった。
そのため材料を買う余裕などなかった。というよりは買う気が無かった、と言うべきか。
「あ。…すいません。今日は…。まだ何を買っていいか分からないんで…。
すみません、また入学式の日に」
腰を低くして申し訳無く告げたアレスに対して、先ほどまでは花のような笑顔だった
アカデミーショップのその女性が返して来た反応は、意外なものだった。
「今度は何か買ってね」
その一言だけだった。
しかも、先ほどとは打って変わって、一気にうんざりしたその表情。
「…あ。はい。すいません」
返事をしながら、アレスは思った。
(…さっきのヘルミーナ先生は怖そうだっだけどいい先生だったし
…アカデミーショップのお姉さんは…良く分からないし。まぁいいか)
そうして一礼して、校門へ続く道を進んで行った。



アレス・ハンデルトはこの年、王立アカデミーに首席で合格した。
実は、彼が入学試験で最高点だった事は一応事実ではあるが、
「実践試験問題」でアレスと同じ最高得点だった受験者がもう一人いたのだった。
しかし、そのもう一人の受験者ではなくアレスが首席合格となったのは、
アカデミーの校長であるドルニエがその後に行われた「論文試験」で
アレスが論文解答最後の最後に書いた何気ない一行の文章に、何故か心動かされたからであった。



―「錬金術という学問の、可能性を信じます。」






【Episode:2/王立アカデミーから】 終