【Episode:1】
【北から、東から】
城門をくぐると、これまでに見た事も無かった新しい風景が広がっていた。


その日、初めて足を踏み入れたその街には緩やかな風が吹いていた。
季節は春を待つばかりのシグザール王国の中心都市、ザールブルグ。
足元の煉瓦の通りは既に隙間から花のひとつでも咲きそうな予感さえした。
(…まだ2月の終わりなのに…)
賑やかな民衆の中に紛れて、この辺りではあまり見掛けない黒い髪の毛が揺れていた。
耳の後ろで切りそろえたその後姿は、貧富は兎も角、育ちの良さが感じられた。
見た目、歳は15位であろうか。
時刻は、もう少しで真上をさそうとしていた。

(……お腹空いた…。)
その少年は、このザールブルグの街を目指して数日間歩き続けた様子だった。
足どりが若干軽くなったと思えば、この辺りで横町で人気の名物おばさんの切り盛りするパン屋だった。
(……2個まで。バケットがあれば、1個まで。)
限られた自分の今の持ち金とうまく話を合わせたのか、少年は真直ぐその店に入って行った。

「あンれ?アンタ見かけない顔だけど…この辺に住んでるの?」
客に力一杯精選されたふたつの葡萄パンを紙袋に入れながら、パン屋のおばさんは
目の前のお初顔に向けてお決まり文句を放った。

「あ、…いえ。今日、実はさっきこの街に来たばかりで。」
その少年はすぐ横に首を振り、屈託無く笑って見せた。
「あー。そういえば今日は外来入国許可の日と移民船が港に着いて丁度ここにその移民が渡って来る日だったね。
それなら…アンタ何処の方から来たんだい?」
「えっと…ここから丁度東の方にカナール、っていう小さい国があるんですが…羊牧だけが盛んの。」
「ありゃあアンタ、へえ。遠いねえ!するとなんだい?観光に来たとか…それか羊の商売でもしにかい?」
こんな年端も行かぬ人間が商売をするとでも思うのか。話つなぎにしては適当である。
「あ、えぇと…ただ、その、学校の入学試験を受けに来たんです。あさっての」
それを聞いたおばさんは一瞬、何やら頭の中の皺を精一杯手繰り寄せているかのような
微妙な表情をしていたが、直ぐにいつか井戸端会議で聞いたその名前を思い出したようだった。
「学校って。…アンタ、それってあそこ、アカデミーかい?」
「あ、はい…。王立アカデミー…」
おっとりしたその返事を聞いて、おばさんからはいつもとは違うところから声を出していた。
「へぇー!アンタ頭イイんだねえ!あそこって錬金術ってのもやるんだろ?あたしゃよく知らないけど、
あそこの生徒さんは色んなもんが作れるんだってねえ。薬から食べ物から、爆薬から、何か動くもんまで
作れるって話だよ?しかもアンタ知ってる?貴金属やら宝石まで!」
何やら勢い良く知っているありったけの事を話したそうにして来たおばさんを、少年は
笑顔を作ってあしらうのに必至だった。
「…へえ、アンタ若いのにあんなトコ行くんだ。頭イイねえ」
「…いや、その…まだ試験はこれからですし。あの…僕はまだ受かってないし。そこに行けるわけじゃ」
そんな謙遜な返事もおばさんには既に耳から耳へすり抜ける状態になっていた。
「偉いねえ!あたしゃ応援してるからねアンタ!ホラこれ、おまけしたげるよ!いっぱい食べておくれよ」
紙袋に先程買った葡萄パンに続いて、その辺にあった残りの葡萄パンを2つ程足してくれた。
「え、そんな!いいんですか!?…あの!すいません僕、実はお金が…その…あんまり」
慌てて遠慮しようとしたが、実は実際、彼はあまり持ち合わせが無かった。
アカデミーの入学試験を受け、それまで数日何処かに泊まって食い繋ぐのがやっとの
ギリギリのお金しか。
おばさんは笑って言った。
「あぁ、いいんだよ持ってきな。どうせ余るんだしね。育ち盛りの子に食べてもらった方がパンも喜ぶよ」
声が大きく威勢一番に聞こえてきたので優しいとかいう第一印象ではなかったが、
何だかほっとする一言だった。
そのあと、少年は初めて訪れた街への不安感が晴れ、心の底から笑った。
「嬉しいです、実は僕、最初のふたつだけじゃあ全然足らないくらいお腹空いてたんです。
有難う御座います!」
その笑顔を見て、おばさんは何故か顔が赤くなり、別の場所がときめいた様だった。
「あ、あらァ。…アンタったら笑ったら更に可愛いねえ。あ、良かったらホラ、店のパン全部持ってくかい?」
「えぇ!?いえ、もう十分。十分です!」
パンの袋を抱えて慌てて首を振ると、後ろに並んでいた他の常連が笑いながらからかい始めた。
「エマはあんな顔して色男に弱いからねえ!多分、毎日ボクみたいな色男が来たら
絶対パンが毎日ただになって商売になりゃしないよ」
「パンを誰のズボンに入れようとそら全然構わんが、わし等への売り分もちぃとは残しといておくれよ?」
人気者のパン屋のおばさんが笑い声でもまれるのを横目に、最初のパン分の勘定を静かにレジに置いて
少年はその間をすり抜けて行った。
「あー!ちょっとアンタ!名前聞いて無いよ、名前!ちょっと!あぁん待って!また来ておくれよ!」
背中を追う声が聞こえて来た。さっきのおばさんか、それとも一部始終を見ていたお客の一人か。


(今日…何処に泊まろうかな)
少年が、町民がいつも昼下がりのひとときを憩う中央広場に足を進めているところだった。
途中で、このシグザール王国の王が住まうシグザール城を通り過ぎようとした。
その時彼は立ち止まった。
真正面から拝んでみたその城があまりに立派な姿であった為、思わず見惚れてしまったのだった。
「…へえ……」
それを見上げる視線が段々と上の方に向けられた時だった。


「だーかーらー!ここで一番強いヤツに会わせろ、って言ってんだろ!」
その時穏やかな街の空気の流れを逆流させるような、凄まじく荒げられた若い男の怒声が
辺り一帯に響き渡った。
少年の先程の静かな上向きの視線は、勢い良くそちらの方に向けられてしまった。
「帰りなさい!ここはお前の様な荒々しい男が来る所ではない!黙って帰りなさい!ホラ!」
門の守護兵は、力ずくでその男をあしらっていた。
「ちきしょー!のこのこ黙って帰れってのか!帰れるかよ!俺はなあ、わざわざ遠い所からなあ!
この国で一番強いヤツと戦って勝つ為に来たんだこの野郎!」
(……うわぁー…けんかだ…。)
少年は、その男と門兵の取っ組み合いを止めに入るわけでもなく、ただじっと見ていた。
「強い男は力が強いだけなのではない」と言い放つ門兵の語り口に素直に聞きいってたのと、
自分と恐らく歳もそれほど離れていないその男の、血の気が多くともただ真直ぐなその姿に
心打たれたからであった。
風が彼の髪の毛を煽ってみても、気付くそぶりは見せなかった。
「そんなにこの国で一番強い男に会いたければ、8月の王室騎士隊入隊試験を受けろ!」
「おぉ!受けてやるよ!受けてやりゃあイイんだろ!?受けて合格出来ればイイだけの話なんだろ!?
ケッ。見てろ!絶対一発で受かってやるからよ!それで、何だ?一番強い男!その騎士隊の隊長!
の名前!何だっけか名前!?忘れた!」
自信満々のその男に門兵はあきれた顔で言い返した。
「何だお前は…そのお方はエンデルク・ヤード隊長である!」
それを耳に入れ込むと、男は一遍納得した様に大きく頷き、シグザール城に勢い良く背中を向けた。
「おい、お前!」
振り返ったと思ったその視線は、何故か後ろでそれを見ていた少年に向かっていた。
「…えっ」
「聞いてただろ?お前。この国で今一番強いのは騎士隊長のエンデルクっていう男だって。
この門兵のおっさん、言ったよな?」
なんの脈絡もなく聴衆の中でいきなり指名されてしまった為、一瞬焦った。
「…あ、はい…えっと。そうですね」
その返事を待っていたのか男は今の今まで見開いていた目をいきなり細め、ニヤと笑った。
「よぅし。そのエンデルクは近いうちにこの俺が倒してみせるからな。お前、証人な。よろしく」
更にいきなりのことを続けて言われてしまった為、少年の口は開いたまま塞がらなかった。
「…え!?何それ」
「ホラ、ナニそんなトコにつっ立ってんだ?行くぞホラ」
そして、男は少年の背中から右肩に乗りかかって、半ば無理矢理進み始めた。
勝手に男に仲間扱いされてしまい、訳も分からずただ城から離れられる程の距離である
数十メートルを一緒に歩かされた。
「え?ちょっと?!…すいません、あの!」
後姿を見ているだけでは、どっちがどっちを引きずっているか分からなかった。

「…さて、っと」
しかし、何故か先程の体勢で少し進んだ後、弾丸のような言動をやらかしていた男は
その一言を安堵して吐いた。
「…さっきは悪かったな。巻きこんで、よ。へへっ」
先程とはうって変わって穏やかなその男の表情に、少年は何故かどきりとした。
「…えっと」
肩から手を離し、また自分のペースで話し始めた。
「なーんか、俺もさっきはムキになってたみてぇだ。まあ、要するに、だ。
この国で一番強くなるにはよ、俺が一番強いって言われてるヤツと正々堂々と対等の場で
戦って、勝てる場にいればイイって事だよな。なあ?」
何だかもうどうでも良くなった、といえばその男には失礼だが、考えにある程度
筋が通っていればそれでいいのではないか?と少年は思った。
「うん。そうですね!貴方が多分、これから騎士隊になって強くなればいい。」
返って来た笑顔は物凄く嬉しそうだった。
機嫌を良くする、という言葉をまさに実写で表した風であった。
「お!だろ、そうだろ?俺もそう思ってたんだってばよ!実は!
へへ、見てろ!俺も今に聖騎士とやらに呼ばれるようになって見せるからよ。
…そういえば。おい…お前、名前は?俺はダグラスってんだ。」
名前を聞かれた事は、実は久し振りだった。
「あ。えっと…アレスです。アレス・ハンデルトって言います。よろし…」
「アレスか。へえ?よろしく。…へへ、そういえば」
ダグラスはそう言うとアレスが両腕に抱いていた先程買ったパンの紙袋を凝視していた。
「へへ…実はさ。俺、今日ザールブルグに来たばっかしでさ。すんげ腹減ってんだよね。
それ、旨そうだな!頂いてイイか?」
そう言うとアレスの返事も待たずにがめりついた。
「あ!えぇと、待って!待ってちょっと!」
ダグラス・マクレイン。
自分と同じ日に、北の方角にあるカリエル王国からこのザールブルグの街にやって来た。
歳は、アレスより2つほど上の17歳。



後に、このダグラスがシグザール王国の王室騎士隊に剣の腕を見込まれ、
アレスを始めとした錬金術士たちにとって、最も頼り甲斐のある用心棒の
一人になる事など、この時はまだ誰も知らない。

そして、それはまだもう少し先の話である。









【Episode:1/北から、東から】 終